(4)十歳から始める基本の「き」 その2
「あいつ、本当に元気そうだな」
兄さんとナイローグも数ヶ月ぶりなはずだけど、大人になると再会もあっさりしたものなのだろうか。昨日会ったばかりのような挨拶をしただけだった。
大人の世界を垣間見た私は、少し首を傾げたものの、すぐににこにこと背の高いナイローグを見上げた。
森で狩りをしていた彼は、それなりに汚れている。
今朝早くに村に戻ったばかりと言うことは、少なくとも昨日は一日中移動していたはずだ。それなのに着いて早々に鹿狩りに参加するなんて、どれほど体力があるのだろう。
乱れた髪を結わえ直している姿は、特に疲労しているようには見えない。
「あ、そうだ。ナイローグの家、すごいことになっていたよ」
「見に行ったのか?」
「狩りに行っているなんて知らなかったから、家に行ったんだよ。そうしたら女の人たちが睨み合っていて」
「睨み合っていた? なんだそれは」
「よくわからないんだけど、見たこともないようなきれいな格好のお姉さんたちがいてね、近くの街のお姉さんたちと睨み合っていたんだよ。遠くから見ただけだったけど、怖かった」
「それは確かに怖いな。……ついてくるなと言っていたんだが」
ナイローグはため息をついている。
どうやら、思い当たることがあるようだ。
「もしかして、あのきれいな格好の女の人たちって、知り合い?」
「知り合いというか、必要にかられて言葉をかわしたことはある程度の方々だろうな。馬車だったか?」
「馬車……あ、もしかして村の入り口あたりに並んでいた馬車って、あのお姉さんたちが乗ってきたのかな」
「そうかもしれないな。さすがに貴族は来ていないと思いたいが、お前たち兄妹はあまり関わるなよ。これ以上村に押しかけてくる人間は増やしたくない」
「ヘイン兄さんはともかく、なんで私まで一緒にするんだよ。兄さんもずっと変なことをブツブツ言っているんだよ。鏡を見ろとか、ずっと男装していろとかさ」
「あー……うん、そうだな。男装していた方がいいだろうな」
ナイローグまで何か一人で納得している。
いくら幼馴染といっても、二人して同じ反応するなんてどうなんだ。
私がむくれていると、ナイローグはまだ肩上で切りそろえている髪を撫でて、軽く整えるように手櫛を入れた。
「一つだけ教えておくぞ。お前のこの銀髪は、はっきり言って極めて珍しいんだ。それだけで目の色を変えて寄ってくる奴らがいるから、気をつけておけよ」
「珍しいの?」
私は自分の髪をつまんだ。
ヘイン兄さんは、さらさらのくせのない金髪だ。
村ではナイローグのような黒髪が多いから、目立つことは目立つ。でも村に戻ってきた出稼ぎの人たちは、他の場所では金髪も珍しくないと言っていた。だから私の髪の色もそうなのだろうと思っていたのだけど、ナイローグの言葉が本当ならそうではないらしい。
「こんな地味な色が? すぐにふわふわと広がっちゃうのに?」
「今は短いからそうなるが、長くなったらたぶんもう少し落ち着くぞ。吟遊詩人風に言うなら、波打つ銀の川のように見えるだろうな」
私には似合わない褒め言葉だ。
それにナイローグの口ぶりがなんだか本当に吟遊詩人のようで、私は思わず笑ってしまった。
「ナイローグが言うと似合わないよ」
「そうか? 仕事でこういう褒め言葉も言っているんだぞ」
「そんな仕事ってあるの? ナイローグってどういうお仕事なんだろうね」
「さあな」
ナイローグも笑った。
村人と同じ少し古びた服に弓矢を背負った姿の彼は、ずっと村にいる人のようだ。でも腰には剣を帯びたままで、彼が近いのか遠いのか、最近はよくわからなくなる。
きっと、彼は強いのだろう。
強くて優しいナイローグは、まだまだ子供の私の何歩も前を進み続けている。
早く追いついて、すごいと言わせたい。
そんなことを考えていると、ふとナイローグの家の前にいたきれいな格好の女の人たちを思い出した。きれいな服に、きれいな髪、きれいな仕草にきれいな肌。みんな長い髪を丁寧に結い上げていた。
収まりが悪くて冴えない銀色だけど、この色は珍しいらしい。
だったら私も、髪を伸ばしてみようか。
母さんに何度言われても伸ばす気になれなかったのに、何と無くそう考えた。
その夜、我が家はナイローグの一家を招いて、肉料理を堪能した。
ナイローグの一家と言っても、彼はまだ独身だ。だからナイローグの両親と、弟妹たち五人、それに一番上の弟の彼女さん。合計九人の来客だったけれど、鹿肉も兎肉も、全員に行き渡ってもまだ十分に余裕があった。
久しぶりのご馳走だ。
食卓を囲む中で最年少の私は、年上の幼馴染たちに負けないよう、物も言わずに食べることに専念していた。
でも、屋外にテーブルを出しての食事とはいえ、母さんの目が光っている。ナイローグの歓迎会だからと母さんに言われ、私はいつもより少し大人びた長めのスカート姿だった。
汚したら絶対に叱られるから、食事に一層集中している。
その様子が、女の子としては嘆かわしいと、母さんはさっきからナイローグに話していた。
もちろん生け贄がせっかくいるのだから、今は何を言われていても無視するに限る。
目の前の肉に全力集中だ。
そうやって食べ続けているうちに、母さんの話し相手はナイローグの弟の彼女さんに移っていた。どうやら彼女さんは母さんに憧れていたらしくて、長くなった愚痴にやや意識が飛び気味だったナイローグとの間に嬉々として割って入っていた。
変わった趣味だけど、私にとっては新たな救世主だ。ありがたい。
「まあ、母さんは黙っていたら美人だもんな」
離れたところに隠れるように座った私は、こっそりとつぶやいた。
するとその独り言が聞こえたのか、ようやく解放されたナイローグが振り返った。
目が合うと、ナイローグは軽く手を振ってきた。たぶん彼なら、赤ん坊と目があってもそうするのだろうなと思っていると、ナイローグはいったん家の中に入り、すぐに出てきて草の上に直接座っている私の横に座った。
「よく食べていたな」
「うん、早く大きくなって大人になりたいからね」
「そんなに大人になりたいのか?」
「早く大人になって、早く魔王になりたいんだ!」
「……まだそんなことを言っているのか? せっかく女の子に見えるようになったのに。俺はおまえらしいから悪くないと思うが、おばさんがなぁ……」
並んで座ったナイローグは、深々とため息をついた。
また母さんの愚痴に付き合わされたのは気の毒とは思うけれど、私はふんと鼻を鳴らした。
「ただの女の子なんかでは、ナイローグに勝てないじゃないか。ぼく……わたしはナイローグより強くなりたいんだよ」
「俺より強くなって、どうするんだ?」
「強くなって、ナイローグを平伏させるんだよ!」
ついに言ってやった。
私は胸を張りながらほくそ笑む。ちらりと目をやると、隣に座るナイローグは動きを止めているようだった。
「……おい、へイン。お前の妹は何を考えているんだよ」
「え? 何の話?」
一瞬絶句したナイローグは、ちょうど通りかかったへイン兄さんを睨んだ。
「おまえの妹はおかしいぞ」
「そうかな。シヴィルはいつも可愛いけど」
「俺を平伏させたいから、強くなりたいらしいぞ」
「……へぇ」
突然のことに、へイン兄さんは何のことかと目を瞬かせていたけれど、ナイローグの言葉に困ったように眉をひそめて首を振って見せた。
「この子が変に色気付くより、世の中を混乱させないからいい。……そう思うことにしているよ」
「それはそうだが……いや、ましか? 違うだろう。余計にたちが悪いぞ」
「無意識に魅了して回るより、ずっとましだよ。兄としては安心だと思わないか?」
「安心……安心なぁ」
ナイローグは考え込むようにうなる。その間にヘイン兄さんは父さんに呼ばれて去って行く。たぶん酒を飲めとか、もっと持ってこいとか、そういう話だろう。
兄さんが二十歳となったように、ナイローグも同じくらいの年齢の立派な大人だ。たぶん今夜も父さんに捕まって酒を飲まされるんだろう。そう思うと気の毒になる。そんな私の視線に気づいたのか、ナイローグは腕組みを解いて私の頭に手を乗せた。
「まあ、いろいろ考えているのは悪くない。大人になって行くのは嬉しいぞ。その格好もよく似合っているよ」
「……うん、ありがとう」
「そうふくれるな。ほら、土産だ」
ナイローグは私の膝の上に、布に包んだものを置いてくれた。どうやらこれを取りに家に入ったらしい。膝にちょうど乗るくらいの大きさで、でもわりと重い。
「これは何?」
「待て。エイヴィーおばさんの前では開けるな。今はこっそり覗き込むだけにしろ」
私が開けようとすると、ナイローグは少し慌てて止めた。
変なことを言うなぁと思いながら、言われたとおりに袋の口からそっとのぞき込む。中身は分厚い本だった。
「すごい! 何の本?」
「魔法だ」
ナイローグはさらりとささやいた。
あまりにもさりげなかったから、私も普通に、ふぅん、とうなずきそうになった。
でも、すぐに気付いた。
……今、魔法と言った?
魔法?
魔法の本!
そんなもの、そう簡単に手に入るものではない。ちらっと話に聞くだけでもものすごく高価らしいし、魔法使いたちは師から弟子への口伝が一般的だから、魔法の本そのものが希少らしいのだ。
でもナイローグはにっこり笑い、私の頭をなでた。
「都の知り合いが昔使っていたものだ。古いものだし少し傷んでいるが、基本的な魔法はそれを見ればわかるようになると言っていたぞ。お前の話をしたら、快く譲ってくれたよ」
「でも……高いものなんじゃないの?」
「金持ちの知り合いだから気にするな。それにそれはタダでもらったんだ。お前の魔力を野放しにする方が怖いからな」
「ふぅん? よくわからないけど、ありがとう! これで魔王に一歩近付けるよ!」
「……だから魔王なんかに近付くな。魔力が強い存在は本当に少ないんだ。どこに行っても優遇されるから、わざわざおまえの嫌いな悪人になる必要はないんだぞ」
「そうなの?」
……魔力が売りの職業って、魔王だけではなかったのか。
もっと話を聞きたかったけれど、母さんの視線を感じとって慌てて魔法書の入った袋を背中に隠す。ナイローグが言ったように、母さんには知られない方が良さそうだ。
これをいつ読もうか、どこに隠しておこうかと考えているうちに、ナイローグは彼の妹たちに呼ばれて連れて行かれてしまった。
結局、話はそれきりになってしまった。
ナイローグは村に戻っても忙しい。あちらこちらに呼ばれ、家の屋根の修理をし、集まっていたお姉様方を丁重に追い返し、と忙しく動き回っているうちに都に戻る日になって、私はゆっくり彼と話せなかった。
いつものことだ。
それでも私は、都へ戻っていくナイローグを見送るのは嫌いだ。改めてそう強く思った。