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(3)十歳から始める基本の「き」 その1

 

 私が生まれた村は、都から離れている。

 どのくらい離れているかと言えば、都に出稼ぎに行った若者が滅多に帰省できないくらいの距離だ。でも、馬車とか馬とか、そういう手段を使えばそれほどの日数はかからない。

 街と街の間を往復する大型馬車を乗り継いでいけば、だいたい六日から七日。

 大きな街と街を繋ぐ幹線馬車に乗るお金があれば、乗り継ぎを入れても四日から五日で都から帰ってくることができる、らしい。


 こういう事実を理解した今、ナイローグが数ヶ月に一度、少なくとも半年に一度は戻って来るというのはとても珍しい事だと知っている。そして、頻繁な帰省ができるくらい稼ぎがいいということも何となくわかってきた。

 しかも彼は乗合馬車ではなく、馬に乗って往復している。乗り継ぎなしだから、旅程はたぶん二、三日くらいだろう。

 その上、以前はいろいろな馬だったのに、今はいつも同じ馬だったりする。それも大きくて毛並みのいい極上の馬だ。

 旅で馬を個人で借り切ると、お金がかかる。ヘイン兄さんが馬牧場をやっているから、個人で馬を所有するのはお金持ちにならないと無理だということも知っている。

 いつも同じ馬に乗るナイローグは、つまりその馬の所有者ということで、普通の稼ぎではない高給取りらしい。


 だから、ナイローグが戻ってくると村の内外の若い娘たちが落ち着かなくなるのは当然のことなのだ。稼ぎがよくて、顔も整っていて、面倒見のいい若い未婚の男なんて、飢えた鶏たちが集まって来るように視線を集めるものなのだろう。

 私も、十歳になってずいぶん賢くなった。

 ……賢くなったはずなのに、木立の向こうに見える光景には首を傾げた。


 林の中で足を止めた私は、ナイローグの家を見ていた。

 今朝早くにナイローグが戻ってきたと聞いたから、こうしてやってきた、のだけれど。


「何か、にらみ合っている……?」


 私は首を傾げながらつぶやいた。

 ナイローグの家の前には、見たことのないきれいな女性がいた。いや、女性たちがいた。顔立ちがきれいと言うより、着ている服がきれいで、遠目にも上質で、立ち姿もすっきりしている。

 見覚えのない顔だから、村のお姉さんたちではない。周辺の街からきた女の人たちでもない。

 村に戻ってくる若い男たちが笑いながら話していた「都会の女」というやつだ。そんな垢抜けた雰囲気をしている上に、見るからに裕福そうな女の人たちがいる。

 そして道を挟んだ向こう側には、何と無く見覚えのある周辺の街から集まったと思われるお姉様方がいて、双方はものすごい目付きでにらみ合っていた。


 いったい何事なのだろう。

 わかっていることは、あの緊迫した空気の中に入っていくのは危険だと言うことだけだ。

 せっかくナイローグに会いに来たのに、あんな中に突入するなんて、ちょっと無理だ。


 悩みながら一人でうなっていると、背後でかさりとごくわずかな音がした。

 まったく気配はなかったけれど、私は落ち着いて振り返る。予想通り、そこにはヘイン兄さんが立っていた。もちろんその背後に道なんてない。

 兄さんは私以上の野生児あがりで、今も道無き道を平気な顔で進む人なのだ。


「ヘイン兄さん。わざわざ気配を消して来るなんて、どうしたの?」

「うん、まあ、あれだよ」


 ヘイン兄さんはサラサラの金髪を困ったようにかきあげ、形の良い指でナイローグの家を指差した。

 兄さんのあの表情を見る限り、示しているのはナイローグの家ではなく、家の前や道の向こうに陣取っている若い女性たちの集団だろう。

 つまり、あのお姉様方から見つからないように気配を消して、藪の中をやってきたらしい。


「見つからないようにしているのに、わざわざここに来たの? 兄さんって時々変な趣味しているよね」

「ひどいな、シヴィル。かわいい妹のために来たんだよ。危険が及ばないようにね」

「危険? さすがにあの中に突入する勇気はないよ」

「彼女たちも危険ではあるけれどね、私が案じているのはあの男たちだよ」


 ヘイン兄さんは困ったように笑い、私の頭を撫でた。

 兄さんは「男たち」といった。若い女の人以外に誰がいるのかと、もう一度ナイローグの家に目を戻す。兄さんは私の頭を撫でながら、もう一方の手で指差した。


「いかにも都会の御婦人という女性たちから少し離れたところに、警護の男たちがいるだろう? めったなことはしないと思いたいが、警護担当の全てが人格者とは思っていないんだ」

「でも、暴れるような人たちには見えないよ?」

「……暴れるとか言うより、何というか……村の人間はお前を見慣れているから大丈夫なんだけれど、外部の人間は、ちょっとね。……まず鏡を見ろと言うべきか……? いや、その無頓着さがあるから少年にしか見えないのは確かだし……」


 ヘイン兄さんは何かぶつぶつとつぶやいている。

 私は首を傾げたが、ナイローグの家に目を戻してため息をついた。


「よくわからないけど、あれではナイローグに会いに行けないよ」

「ああ、それは大丈夫だよ。その件もあって、呼びに来たんだ」


 ヘイン兄さんはにらみあっている女たちから目を離し、少し腰をかがめて私と目を合わせた。


「ナイローグは家にはいないんだよ。村に戻ってすぐに狩りに参加している。そろそろ私たちの家に戻って来ると思うよ」


 つまり、ナイローグはすでに逃亡した後だった?

 私は何となくあきれてしまった。でも、あの女の戦い真っ只中に突入しなくていいのはありがたい。それにナイローグが狩りに参加したということは、今夜は肉料理の大判振る舞いになるはずだ。

 にんまりと表情を緩める私に、ヘイン兄さんは何だか複雑な顔をしながらまた頭を撫でていた。




 私とヘイン兄さんが家に戻った時、家の周りは静かだった。

 どうやら、ここはまだ恐ろしいお姉様方には知られていないらしい。ナイローグとは違う方向に突き抜けた美貌を持つヘイン兄さんだから、あのお姉様方が兄さんのことを知れば、こちらでもあの恐ろしい光景が繰り広げられるかもしれない。

 そう考えるとぞっとする。

 思わず体を震わせた時、犬たちの声が聞こえた。

 猟犬だ。とても誇らしげな吠え方で、狩りの成果を知らせている。その声を聞きつけたのか、私の家の扉が開く。出て来たのは、田舎ではあり得ないほどの美女だった。実はあの美女は私の母さんで、年齢不詳な美を今なお保っている。そしてもう一人、同年代で年相応な美熟女も出てきた。ナイローグと似通った顔立ちが示すように、美熟女はナイローグのお母さんだ。


「あら、シヴィル。ちょうどいい時に戻って来たのね」


 腕まくりをしたおばさんは、にこにこしながら私たちのところにやってくる。

 私はナイローグのお母さんのことが大好きだ。いつも美味しいご飯を作ってくれるから、大げさに言えば命の恩人でもある。

 家事全般を得意としない母さんだけど、料理はそれなりにやってくれる。だいたい不味くはないけど、特別美味しくもない。その上、時々とんでもない新作料理を作ってしまう。そういう食糧事情だから、文句なしに美味しい料理を分けてくれるおばさんは救世主なのだ。

 その救世主なおばさんに、ヘイン兄さんが大鍋を手渡す。ナイローグの家で見慣れた大鍋だ。いつの間に取ってきたのだろう。兄さんは私の不審そうな視線を笑顔で煙に巻いた。


「おばさん、やっぱりおばさんの家は大変なことになっていたよ。あの様子では、しばらく戻らない方がいいかな」

「そう、見に行ってくれてありがとう。ヘインは見つからずに済んだのね?」

「今のところはね。ついでにシヴィルも保護して来た」

「保護ってなんだよ!」

「保護は保護だ。あのまま放置していたら、おまえはあのお姉さん方の中に向かっていたかもしれないし、村の外から来た男たちの目にとまったかもしれないだろう?」

「さっきから何を言っているのか、わからないんだけど。お姉様方はともかく、何で男にまで見つかったらよくないんだよ」

「……おまえはね……やっぱり鏡をよく見なさい。それでもわからないのなら、ずっと男装をしているんだよ」


 ヘイン兄さんは私の頭に手を置く。

 こうやって頭を押さえるから、いつまでも小さいままなんじゃないか。

 それに鏡を見ろと最近よく言うけれど、鏡を見たって自分の顔が映っているだけだ。なぜそんなつまらない事をしろと言われなければいけないんだ。

 一人でむっとしていると、ちょうどその時に、森の奥から人が出て来るのが見えた。


「おう、お前たちが出迎えに来てくれたのか?」

「父さん」


 私はヘイン兄さんの手の下から逃げて、父さんの方へと走って行く。

 縦にも横にも大きくてがっしりとした大男は、駆け寄ってくる私に凶悪なほど崩れた笑みを向け、腰をかがめながら手を広げた。

 でも私は父さんの胸に飛び込まず、大きな手の横を一気に走り抜けた。


「シ、シヴィル……?」


 悲しげな声が聞こえたけれど、もちろん無視だ。

 私は父さんの横を通り抜け、鹿を肩に担いだ姿で森から出て来たナイローグへと向かった。


「おかえりなさい、ナイローグ!」

「ああ、シヴィルか」


 少し息を切らせながらナイローグの前に立つと、ナイローグは肩に担いでいた鹿を下ろし、後からついてきたヘイン兄さんに投げ渡した。


「シヴィルもヘインも元気そうだな」

「うん、おかげさまでね。これはさばいてくるよ」


 ヘイン兄さんはさわやかに笑って、その華奢そうな顔を裏切るように大きな鹿を軽々と肩に担いで歩いて行った。

 

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