(20)十六歳の前にそびえる壁 その3
多分、これは内緒にしておくべき話だった。
その証拠に、ナイローグの笑顔の中で、目だけが鋭くなっている。
私はそろりと目をそらし、体も横に向けてナイローグから離れようとした。でもナイローグが逃げるのを許してくれるわけがない。私が移動しようとした方向の壁に手をつく。
ちょうど目の高さに出現した腕に、私は思わず動きを止めた。
「ナ、ナイローグ?」
そっと目を上げると、笑みを消した顔がすぐそばにあった。
……間違いない。これは説教の前触れだ。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
「お前、あの根城に行ったな?」
「……行きました」
「よく無事だったな。今のお前は女に見えるんだから、もっと気をつけろ」
この後に説教が続くはずだ。
でも私だっていつまでも無力な子供のままではない。攻撃は最大の防御、と私は自ら打って出た。
「わ、私は魔法使いだよ。無事に決まっているじゃないか」
少し声が震えるのは、反撃に慣れていないから。
威厳は半減だ。でもそれなりに効果はあったようで、ナイローグはわずかに眉を動かした。
「魔法と言っても、実戦で使えなければ意味はないぞ」
「この間へイン兄さんと会った時にいきなり試されちゃったけど、兄さん相手なら完全に大丈夫だったよ。……あれ? 兄さんからその話は聞かなかったの?」
「今までずっと忙しかったからな。ゆっくり話せるほど村にはいなかったんだ。しかしそう言えば、あいつにしては歯切れが悪かったな。……そうか、完全に防がれたから、詳しい話をしなかったんだな」
ナイローグはやっと納得したようだ。
しかも、へイン兄さんの心情まで簡単に読んで笑っている。さすがとしか言いようがない。
「あいつが悔しがるくらいなら、確かに大丈夫なのだろう」
思ったより、あっさりと認可された。
もしかしたら、ナイローグもヘイン兄さんみたいに切りかかってくるかもしれないと身構えていた私は、やっと肩から力を抜いた。
やっぱりナイローグは常識人だ。
でも私を逃がす気はないようで、反対側にそろそろと移動していた私は、もう一方の手で行く手を阻まれた。つまり両方の腕の間に囲まれてしまった。
目の前に大きな体があるのは、圧迫感がある。それでもゆったりとした空間があるのは、ナイローグが大きいからか、私が小さすぎるからか。
私は恐る恐る顔を上げる。
ほとんど真上にある顔からは、また笑みが消えていた。
「シヴィル。これからもまだ、あの悪人どものところに行くつもりか?」
「うん……さっき断られたところだけど……まだ五回目だから、あと五回は行ってみようかな、と……」
「だめだ。もうあの根城には行くな」
急に真面目な顔で言われて、私は困惑した。
ナイローグもへイン兄さんも、口煩いけれど意外に私に甘い。甘いけれど、こういう真面目な顔で言う時は否とは言わせてもらえない。それに、頭ごなしの禁止にはそれなりの理由がある。
「あの、理由があるんだよね?」
「……これは独り言だがな」
少し間を置いて、ナイローグは私から壁に目をそらして言葉を続けた。
「あの根城には、まもなく討伐隊が向かう。だからもう関わるな」
「討伐隊?」
私ははっとして周囲を見回した。
ナイローグは私に目を戻してため息をついた。そして壁から手を離して、大通りの向こうを視線で示した。
そちらに何かあるのだろうか。
つられてそちらを向き、首を傾げる。
小さい街とはいえ、大きな通りだから人は多い。街の住民だけでなく、旅の途中の商人や職を求めて移動する傭兵風の男たちもいる。様々な人々がいる中に、ひときわ目立っている一団がいた。
濃い青色のマントが目に鮮やかだ。その下には、黒を基調にした服を着ている。十数人が揃いの服を着ているからどこかの制服なのだろう。全員、体格が際立っていた。
黒い制服には銀色の装飾がついていて、腰には剣を帯びている。
騎士だ。
それもお貴族様のお抱えなどではない。国王直轄の実力重視で、生まれも何も影響しないというあの騎士団の制服に似ている気がする。……いや気のせいではない。似ているどころか、たぶんそのものだ。
「……うそ……あの制服って……!」
「知っているのか?」
「もちろん知っているよ! あれってグライトン騎士団だよね? うわぁ、なんであんなのが来ているんだよ! 魔王級と言われる悪人だって、あの騎士団に目をつけられたら廃業覚悟するって話だよ!」
「ずいぶん弱気な悪人なんだな」
「だってグライトン騎士団だよ! この間の戦争でも活躍したってみんなが言っているよ! へイン兄さん級がごろごろいるって言うし、父さんだってあいつらは凄いって言っていたよ。普通の相手が勝てるわけないじゃないかっ!」
「……いや、さすがにへイン級はごろごろはいないぞ」
「どうしよう、まずいよ、絶対に勝ち目がないよ。せっかくの悪人の根城だったのに!」
私は声を押し殺してつぶやいた。
それから、はっとする。
あのグライトン騎士団が来たのなら、あの人のいい門番のおじさんも危険ということではないか。
「……やっぱり、もう一回根城に行ってくる」
「シヴィル。私が言ったことを聞いていたか? 関わるなと言ったんだぞ」
「あの根城の門番のおじさんはね、全然中に入れてくれなかったけれど、すごくいい人だったんだよ。恩があるから、おじさんだけでも逃がしてあげなければ……!」
私は大通りに出て、そっと周囲を見回す。
気をつけてよく見れば、グライトン騎士団の所属と思しき騎士はあちらこちらにいるではないか。制服は着ていなくても、姿勢がいい戦士風の男たちはあやしい。
「待つんだ、シヴィル。頼むからあいつらと関わるな。あの根城に行く暇があったら、村に戻って親父さんとお袋さんに今の姿を見せてやれ」
「うん、そのうちにね」
私はくるりと振り返る。
ナイローグは路地から出てきたところだった。
でも私の顔を見た時、彼の顔にはわずかな苦笑が浮かんだ。私を引き止めることを諦めたように見えた。
「今から歩いて行っても間に合わないぞ」
「ふふふん。私が魔法使いってことを忘れていない? 転移魔術はわりと得意なんだ」
「転移魔術が得意か。相変わらず規格外のやつだな」
長いため息をついたナイローグは、私の前にやってきて、頭に手を乗せた。
「欲は出すなよ。お前の言葉を信じない奴は気にせず、すぐにその場を離れろ」
「うん、わかった」
「それから、これを持っていけ。おまえがすぐに逃げるから、ずっと渡しそびれていたんだ」
ナイローグは襟をくつろげ、首からかけた袋を取り出した。
その中からさらに小さな袋をつまみ出して、私の手の上に置いた。
「成人のお祝いだ。十五歳の秋祭りには、身内が飾りを贈るものだからな。ドレスとか髪飾りはご両親とヘインが用意するだろうから、首飾りを買っておいたんだ」
私はそっと袋の中をのぞきこんだ。
細い金色の鎖と、黄緑色の石が見えた。
私の目と同じ色の宝石だ。
石の価格はよく知らない。ただ黄緑の石はとても純粋で、魔力を蓄える容量がとても大きいのはすぐにわかった。けれどそれ以上に私の目を奪ったのは、その宝石の美しさだった。細い鎖と枠の金色に負けない輝きがある。
「ありがとう」
私はそっと袋を握りしめた。柔らかい布越しに金属と宝石の形を手のひらに感じる。袋はまだほんのりと温かい。
それから、私はふと思い出して顔を上げる。
ナイローグのすぐそばに近寄り、彼の周りをくるりと回った。
「どうした?」
「うん、よかった。血の匂いはしなかった。ナイローグは最近ずっと村に戻っていないって、ヘイン兄さんが言っていたから。ずっと前、村に帰れない期間が長かった後は怪我していたでしょう? それを思い出したんだよ」
「……ああ、そういうこともあったな」
ナイローグは笑った。
でもその目が、一瞬だけ左腕に動いたのを見逃さない。今は治っているようだけど、やっぱりまた怪我をしていたのだろう。
「ねえ、ナイローグの仕事って……」
どんな仕事をしているのか。
どうして怪我が多いのか。
そう聞こうとして、途中で私は口をつぐんだ。どうしてなのかわからないけれど、何となく聞きにくい。昔からそうだ。ナイローグは私に仕事の内容を話してくれないのだ。
私はもう十六歳になった。
でも十歳以上も年下と言うのは、やはり子供にしか見えないのかもしれない。私だって十歳年下のガキども相手に、魔王への憧れを熱く語る気にはなれない。
……いやいや、今はそんな暇はなかった。
ナイローグが元気なのを確かめられたから、それで十分だろう。
「……ナイローグに会えてよかった。元気でね」
「私に元気でいて欲しかったら、親父さんに締め上げられないように気を使ってくれ」
ナイローグはそう言ったけれど、見下ろしてくる顔は優しく、結い上げた髪を撫でる手も優しかった。
私は大きな手の暖かさを一瞬堪能する。
髪を半分結い上げる年齢になっても、ナイローグの手に触られるのは心地良い。幼い頃からの刷り込みのせいだろう。
でも私はすぐに表情を引き締めて数歩離れ、指先で魔法陣を描いて転移術を発動させた。
結局、私の言葉を信じた人は少なかった。
もちろん近づく騎馬の土煙を見つけていて、すぐに信じてくれた人はいたし、門番のおじさんはどうやらグライトン騎士団が近づいている噂は知っていたようで一番に逃げ出してくれた。
よかった。
よかったとは思うけれど、門番としてどうなんだろう。悪人だからいいのだろうか。
私はしばらく悩むことになった。
もちろん、村には帰らなかった。ナイローグの追跡も振り切った。
何年も前に立て替えてもらった家賃のことは、本当は覚えていたけれど言い出すタイミングがなかったからそのままになっている。
いつになるかわからないけれど、次に会う時に返そう。
説教されそうになった時の話題そらしに、ちょうどいいはずだ。
そう考えると、ナイローグに見つかるのも悪くないような気がした。
そしてさらに後になって気づいたのだけれど……私は陰鬱な気分をいつの間にか忘れていた。