(10)十三歳の旅立ち その3
都の外壁から離れたその場所は、周囲に羊の放牧に良さそうな草地と林が広がっていた。遠くまで見渡せそうな平地なのに、人の姿は見えないとても静かな場所だ。
でも目の前にそびえる建物は、それほど大きくないのにとんでもない威圧感を放っていた。
当然だ。
その建物は、堅固な魔力に取り囲まれている。一番外側は空に届きそうなほど高い魔法の壁があり、その内側に何重も魔力の網が張り巡らされている。
すべてが魔力でできている。でもその見事な壁は普通の人の目には見えないだろう。
普通の人は夜目が効かないから闇夜の中では苦労するけれど、フクロウは遠くまで見通せる。たぶんそんな感じだと思う。
魔力を生まれ持った私の目には、空高くまでそびえる魔力の結晶は細やかなレース編みのように見える。物々しさより、びっくりするほど華やかで繊細な造りに見惚れてしまう。その一方で、魔法は細やかなだけでなく、しなやかで強靭でこじ開ける隙がどこにもない。
建物から少し離れたところで足を止めて、私は感嘆のため息をついてしまった。
「すごい……こんな結界があるんだ……全然入れる気がしない……」
思わずつぶやいた時、背後から太い声が降ってきた。
「ボウズ、結界が見えるのか?」
振り返ると、思ったよりすぐそばに壁のようなものがあった。
いや、壁ではなかった。男がいた。とにかく大きな男だ。背が高いだけでなく、首も腕も肩も足も全てが太い。その太さの全てが筋肉でできていそうで、とんでもない迫力だ。
その上、顔が怖い。元々の作りが怖い上に、頬に大きな傷跡がある。
大人でも足がすくみそうな顔だ。
でも幸か不幸か、私は怖い顔立ちだと思っただけだった。
顔立ちだけならうちの父さんも負けていない。体格だって似たようなものだ。だから私は怯える代わりに親しみを感じてしまった。
それによくよく見ると、高いところから見下ろしてくる目は怖くなかった。怒っている様子もない。
だから私は、まず不穏な事は考えていないことをアピールすることにした。
「えっと、さっき、すごい声が聞こえてここまで来てしまったんですけど……もしかして、ここは立ち入り禁止区域だったんですか?」
「いや、別に禁止されてはいないな。ここまで来るような物好きがめったにいないだけだ」
大男はそう言って、大きな手をトスンと私の頭に乗せた。
痛くはないけれど、ちょっと……いやかなり重い。
「あ、あの……?」
「結界を見抜いた上に、俺を怖がらない度胸か。かわいい顔をしているくせに、しっかりしているじゃないか」
大男は大きな声で笑った。
耳にびりびり来るほどの笑い方で、大きく開けた口から見える歯もなんだかおどろおどろしい。でもこういう豪快な大男は、父さんとか、父さんの友人とかでけっこう慣れている。それに私を子供と思っているようで、疑われたりもしていないようだ。
だから私は、思い切って聞いてみた。
「あのー、こんなこと聞いてもいいのかわからないんですけど……」
「ん? 何だ、ボウズ?」
「そのですね、この結界の中って……魔獣がいる、んですよね?」
そう言った途端、穏やかだった大男の目が急激に鋭くなった。
息苦しいほどの殺意が周囲に満ちて、頭に載っていた手にわずかに力がこもった。締めつける寸前に加減された力ではあったけど、本気で力を入れられれば私の頭は無事ではないだろうと確信してしまう。
命の危機まで覚えたけれど、私はここが勝負とばかりに恐ろしげな大男の顔をぐっと見上げた。
「お願いです! ここで働かせてください!」
「……ボウズ。自分で何を言っているか、わかっているか?」
「もちろんわかってます! わた……じゃなくて僕は動物には好かれやすい性質らしいんですよ。だから魔獣にも触らせてもらったことがあります! 実は都に出てきたばかりで、早く仕事を探さなければって考えていたところでした! だから僕、すぐにでも働きたいんです!」
「確かにうちは人手は不足気味だが……魔獣に触ったことがある、だと?」
眉をひそめ、目を細めた大男の顔は息をのむほど怖い。
でも私はひるまなかった。彼の反応は全くの脈なしではないと思う。もう一押し二押しすれば情勢は変わりそうだ。
私はへイン兄さんが教えてくれたことを思い出しながら、熱心に言葉を続けた。
「さすがにここの結界は無理かなって思うけど、実は普通の結界をすり抜けるのは得意です! 魔法も少し使えます! 方法を勉強をさせてもらえば、結界をはり直したりする仕事もできるようになると思います! あとは……えっと……あ、そうだ、幼い頃から山を走り回った農家育ちだから、体力には自信あります!」
「農家育ち……」
大男は私の頭から手を離して、その手でいかつい顎を撫でる。無精ヒゲが硬い手のひらとこすれてざらざらと音を立てていた。
「ボウズの度胸といい、魔力があるらしいことといい、正直悪くないと思うがな。さすがに子供に魔獣の世話はさせられねぇな」
今、さらっと言ったけれど、やっぱり魔獣の飼育施設のようだ。
野生の魔獣は恐ろしい害獣だ。でもうまく飼いならせば、馬や牛のかわりに重い荷物を運ばせたり、究極の番犬にしたりとなかなかに役に立つらしい。都ではそれを実用化している、と言う真偽不明の噂は村でも聞いていた。ただの噂だろうと笑う大人は多かったけれど、どうやら本当だったようだ。
ますますわくわくする。
ここでは、どういう魔獣を飼育しているのだろう。
私は期待を込めて大男を見上げる。壁のような大男は、短い髪をがしがしとかき乱した。
「やっぱりだめだ。子供を働かせるには危険すぎる」
「僕はもう子供ではありません! これでも十六歳なんです!」
とっさに私は大胆な嘘をついた。
大嫌いな嘘をついてしまったけれど、背に腹は代えられない。
……でもやっぱり、さすがにこの年齢詐称は苦しかったようだ。本当はまだ十三歳な上、年齢より幼く見える小柄な私が十六歳なんて、表向きは平気な顔をしているけど、じわじわと羞恥が胸にくる。一方大男さんはといえば、私がとんでもない事を言い出したので、虚を突かれたように目を大きく見開いた。
怖い顔だ。
でも、なんとも微妙な表情だ。
大きな口を何度か開いていたけれど、言葉にならないようでその度に口を閉じている。ますます乱暴に頭を掻き、何度もうなっていた。
やがてその葛藤が終わり、大男は太い腕をぐぐっと組んで真上から私を見下ろした。
「ボウズ、十六歳というのは間違いないな?」
「はい!」
私は気合いを入れてうなずいた。
大男はもう一度うなったようだったけれど、腕組みを解いて私の頭をぽんぽんと叩いた。
「俺はここの責任者をやっているスラグだ。個人的にはすぐに雇ってもいいんだが、相手は魔獣だからな。ここにいる魔獣たちと顔合わせをして、あいつらの反応を見てから決めるぞ」
「はいっ!」
「さっそくご対面とするか。ボウズの名前は?」
「……ターグです!」
一瞬悩んだけれど、私はそう名乗った。
ターグというのは、ヘイン兄さんの牧場で一番気の荒い馬の名前だ。私を何度も振り落とした憎き馬の名前をなぜ名乗ってしまったのか、自分でもよくわからないけれど、名乗ってみると悪くない気がした。
一方、スラグさんは私が作ってしまった一瞬の間で偽名とわかっているようだ。でも、何も言わなかった。
こうして私は、まず魔獣たちと顔合わせをすることになった。
魔獣という存在は、個体差がとても大きい。外見も持っている能力も、全く同じものはいないくらいだと聞いている。性質もそれぞれで、人間を見ればとりあえず噛みつきたくなる魔獣もいれば、おとなしい飼い猫のふりをして子供に撫でられて喜ぶ魔獣もいる、らしい。
すべてヘイン兄さんに聞いた話だから、それが本当かどうかもわからない。
でもとにかく、ここにいる魔獣が私が知っている黒狼とは大きく違っているのだろうということはわかる。私は緊張しながらスラグさんの後について結界をくぐった。
結界を抜ける瞬間、私は結界の断面に目を奪われた。外から見るとレース編みのように見えていたけど、ただ単純に地層のように重なっているのではなくて、内側から外側へ、外側から内側へ、あるいは中央から花びらが開くように魔法の糸が編まれていた。縦横無尽に見えるけれど、美しい秩序が保たれている。
なんてきれいな魔法なんだろう。
つい足を止めて見上げてしまった私は、少し離れたところで待ってくれていたスラグさんの面白そうな視線で我に返った。慌てて小走りに追っていくと、スラグさんはニヤリと笑い、頭をがさりと撫でて大股で先を歩いた。