第三話:邂逅
その日の朝は、空が高かった。
雲は薄く、風はまだ少しだけ涼しい。六月の終わりとも七月の始まりともつかない、季節の境目のような空気だった。
グラウンドの土は朝のうちだけ少し湿っていて、スパイクで踏むと乾いた表面の下からひやりとした感触が返ってくる。
神界俐塚は、ベンチ脇で静かにバットを拭いていた。
俐塚は、中学三年生。
そして、中学最後の地区大会。
さらに、準決勝の舞台。
ここを勝てば決勝、負ければそれで終わり。
人間にとっての「最後」がどれほど重いかは、俐塚ももう知っていた。
天にいた頃では、季節は巡るものという認識しかなかったが、現世では違う。
同じ夏は二度と来ない。同じチームで、同じ仲間と、同じユニフォームで戦える時間には限りがある。
故、ほんの朝の空気ひとつにも、妙な緊張が混じる。
周囲ではチームメイトたちが声を出していた。
キャッチボールの球音。
監督の短い指示。
応援席で保護者たちが荷物を整える気配。
その全てを、俐塚はどこか遠くに聞きながら、頭の片隅で今日の相手のことを思っていた。
名前だけは知っていた。
────大国実恵。
相手校の四番。
恵まれた体格を持つ、右の長距離砲。
遠くへ飛ばす力は地区でも頭ひとつ抜けている、と事前の情報にはあった。粗さはあるが、芯を食えばフェンスを越える。
特に内の球を打つ力が強く、甘く入ってしまえば持っていかれる。ポジションは主に三塁手と外野手、ときに一塁手。肩も悪くない。気性は強め。
そこまでが、俐塚の持っている「情報」だった。
だが、不思議なことに、その名前だけが、朝から妙に心に残っていた。
理由は分からない。
これまでだって、相手の主力の名前を頭に入れることは何度もあった。強打者も、好投手も、足の速い選手もいた。その中で、なぜ今日の四番の選手だけがこんなふうに意識の隅へ引っかかるのか、自分でも説明がつかなかった。
俐塚は拭き終えたバットを軽く握り直し、グラウンドの向こうを見た。
ちょうど、相手チームが試合前のアップを始めるところだった。
そしてその中に一人だけ、ひどく目を引く選手がいた。
長い髪。
吊り目がちの鋭い目元。
中学生離れした、しっかりとした体格。
どこか不機嫌そうにも見える顔つきなのに、立っているだけで妙に目が離せない。
その少女が、三塁の守備位置へ向かう前に一度打撃フォームの確認をしていた。
短い素振りだった。
けれど、その一振りに宿る力の流れが、俐塚にははっきり見えた。
ああ、この子か。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく動いた。
やはり情報で知る選手と、実際に目にする選手は違う。
数字や評判では拾えないものがある。立ち方、息の入れ方、肩の抜き方、視線の置き方。そういう細部に、その人間の中身が滲む。
彼女の立ち姿には、妙な熱があった。
まだ試合前だというのに、どこか戦っているような気配。
勝ちたい、というよりも、負けたくないに近い熱。
そして、それ以上に──何かを叩きつけるみたいな切実さ。
俐塚はその姿からしばらく目を離せなかった。
「俐塚、どうしたの?」
横からチームメイトの少女に声を掛けられ、俐塚は小さく瞬きをした。
「ううん。少し見てただけ」
「あぁ、四番の大国さん? やばそうだよね」
「……うん」
やばそう。
雑な言い方だと思ったが、間違いでもなかった。
危ういほど強い打球を打ちそうな雰囲気がある。多分、うまくいかないと荒れる。けれど、芯に火がついた時の集中は厄介だろう。
そして何より、見ていて飽きない。
俐塚はそこで、自分の興味が「警戒」だけではないことに気づいた。
この子は、面白い。
まだ一球も見ていないのに、そう思ってしまった。
──試合は予定通り、午前十時に始まった。
先攻は俐塚たちのチームだった。
初回、先頭が内野ゴロに打ち取られ、二番が四球で出塁。三番が三振に倒れたあと、二死一塁で打席が回る。
四番・右翼手、神界俐塚。
観客席が少しだけざわめく。
相手ベンチの視線が集まる。
右打席へ向かいながら、相手バッテリーを見る。
投手は右腕。立ち上がりは悪くない。少し力んでいるが、腕は振れている。捕手は外中心で様子を見たいらしい。
一球目、外角のストレート。
見る。
少し高い。
二球目、同じコースをもう一度。
今度はほんの少しだけ低い。
俐塚はその二球を見て、相手の意図をほぼ掴んだ。
内へ入れるのが怖いのだ。四番相手の最初の打席。
俐塚はどの角度にも打球を放てる。ならまず外で遠ざけたい。遠ざけて、三球目で変化球か、さらにボール気味のストレートか。
俐塚は軽く息を吐く。
三球目。
予想通り、外へ逃げるような変化球。
ただし、少しだけ甘く入った。
バットが出る。
カキン──ッ!!!
芯に当たる。
音は高く、鋭く、よく抜けた。
打球は右中間へ高く舞い上がった。
外野手が下がる。
下がる。
だが、途中で足が止まる。
そのまま、フェンスを越えた。
先制の、2ランホームラン。
一塁を回る時、俐塚は観客の歓声の向こうで、一瞬だけ三塁方向を見た。
三塁を守る実恵は、真っ直ぐこちらを見ていた。
驚いた顔ではなかった。
悔しそうな顔でもない。
もっとむき出しの、熱のある目だった。
……なるほど。
俐塚は少しだけ口元を緩めた。
あの目をするのか、と。
同じ四番打者としてだろうか。
強い相手を前にした闘志だろうか。
あるいは、もっと単純に、羨望に近いものか。
何にせよ、その視線は俐塚にとって心地よかった。




