第二話:降世
生まれたての赤ん坊となり、俐塚が最初に感じたのは重さだった。
空気は天より重く、身体は思うより鈍い。息を吸えば喉に湿り気が触れ、胸の奥で心臓が勝手に打つ。光には濃淡があり、音には近い遠いがあり、風には温度がある。
その全部が、彼女には新鮮だった。
特に、土は。
ある程度成長し、初めてグラウンドに立った日。俐塚は靴底の下でざり、と鳴った感触を忘れなかった。
乾いた粒がこすれ合う音。少し力を入れれば沈み、走れば飛び散り、雨の前には匂いを深くする、あの土。
これが、土。
これが、匂い。
しゃがみ込んで指先で触れた時、俐塚はほんの少し笑ってしまった。人であれば子どもっぽい仕草に見えただろう。だが、彼女にとっては、それほどまでに未知の感触だった。
現世に降りて最初の数年、俐塚は「人間であること」を覚えた。
朝起きること。
腹が空くこと。
眠くなること。
疲れること。
転べば痛いこと。
褒められれば少し嬉しいこと。
失敗すれば、胸の奥に重たいものが沈むこと。
天では必要のなかった感覚が、ここでは日々を形作っていた。
野球もまた、最初から完成されていたわけではない。
器は優れていても、経験は埋め込まれていない。
バットの重さ。球の回転。送球のわずかなズレ。走塁の角度。打球判断の一歩目。覚えることはいくらでもあった。
しかし、俐塚はそれを苦だと思わなかった。
むしろ、愉しかった。
練習すれば前より少し遠くへ打てるし、昨日捕れなかった打球に、今日は触れられる。
何度も失敗して、ようやく身体が一つの動きを覚える。
それはひどく地道で、ひどく人間的な営みだった。
天では、変化はもっと緩やかだ。時間が長い分、成長も摩耗も穏やかで、急激な上達や崩れ方は起こりにくい。
だが現世では違う。たった一日で掴むことがある。たった一球で崩れることもある。昨日の自分と今日の自分が、あまりにも違う。
俐塚はその速度に驚き、惹かれた。
最初に会心の当たりを打った日の、手に残る痺れ。
初めて送球を逸らした日の、胃の奥が冷える感じ。
勝った時に、チームメイトと肩をぶつけ合って笑った瞬間の熱。
負けた時、誰かの嗚咽を聞いて何も言えなくなった夜。
その一つひとつが、彼女を少しずつ現世へ深く沈めていった。
いつしか、俐塚は人を「観る」だけでは足りなくなっていた。
人は見た目通りではない。
明るく見える子ほど、一人になると泣く。
強気な子ほど、試合前には身体が震える。
臆病そうな子が、土壇場で一番勇気のいる一歩を踏み出すことがある。
その複雑さは、遠くから眺めていた時より、ずっと美しかった。
俐塚は人の心を読むのが上手かった。
それは天性の資質でもあり、遣いとしての性質でもあった。
声の揺れ、目線の泳ぎ、肩の力み、そうした小さな変化から、相手の感情の輪郭を察することができた。
だからこそ、野球は彼女に合っていた。
打者が、何を待っているのか。
投手が、何を恐れているのか。
捕手が、今どちらを選びたがっているのか。
球種より先に、心が見えた。
だが、その才は野球を有利にするだけではなかった。
俐塚は時々、誰かの悔しさを、自分のことのように胸へ引き込んでしまった。
試合に出られない選手の沈黙や、エラーをした子の震える背中。そして引退する先輩の、泣かないように歯を食いしばる横顔。
近づきすぎる。
天で言われた言葉の意味を、俐塚は少しずつ知り始めていた。
それでも、やめられなかった。
むしろ、近づくほど知れることが増えるのだと感じていたからだ。
人は、終わると知っているからこそ、今を強く握る。
その当たり前のようでいて恐ろしく切実な真実を、俐塚はグラウンドで何度も見た。
春が迎えれば、何人かがチームに入ってくる。
夏に負ければ、このチームではもう戦えない。
秋が終われば、何人かがチームから去っていく。
永遠がないから、今日の一球が重い。
二度と来ないから、今の一振りに全部を懸ける。
あの時、天で聞いた答えの意味が、ようやく少し分かった。
どうして人は、負けると分かっていても競うのか。
負けることがあるから。
終わるから。
終わるものの中でしか生まれない輝きがあるから。
それは、天では決して持てない熱だった。
俐塚は次第に、土の匂いが好きになっていった。
人間たちの汗が混じった空気は、ただの運動の匂いではなかった。
生きている匂いだった。
悔しさも、喜びも、焦りも、期待も混ざっている。
人が懸命に何かを目指したあとにだけ残る匂いだった。
神界俐塚は、その匂いを持ち帰るために生まれた。
天の器として。
神の遣いとして。
獣神を背に宿す者として。
けれど、現世で生きるうちに、彼女の中にはもう一つのものが育ち始めていた。
役目を超えた感情の芽だった。
まだ名を与えるには小さすぎる。
けれど確かに、ただ「知る」だけでは済まない何か。
土の匂いの中で、俐塚は静かに目を細める。
ここへ来てよかった。
その思いだけは、まだきっと役目の範囲内。
少なくとも、この時の彼女はそう信じていた。




