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第一話:役目



彼女が最初に知ったのは、名前ではなく、役目だった。



白い場所だった。



空と呼ぶには広すぎて、海と呼ぶには静かすぎる。


上も下もなく、ただ淡い光だけが果てなく満ちている。


影も輪郭も曖昧で、時間さえ薄く溶けているような場所。



後に言葉を知った彼女は、それを「天」と呼ぶのだろうと思ったが、生まれたばかりの彼女にとっては、それが世界のすべてだった。


そこでは、多くのものが名前より先に定められる。



何を司るのか。

何を見届けるのか。

何を運び、何を持ち帰るのか。



彼女もまた、そのひとつだった。


ただ、彼女に与えられた役目は、少しだけ特異だった。



天の者は永い。

永いからこそ、欠けにくい。

欠けにくいからこそ、失う前提で生きるものの感情を、遠くから完全に理解することはできない。



人は違う。



短く、壊れやすい。



昨日まであったものが、今日には消える。

今日まであったものが、明日には消える。



春を待ち、夏に焦がれ、秋に震え、冬に身を縮める。


そのたび、手の中にあるものが永遠ではないと

知っている。それでもなお、笑い、競い、愛し、約束を結ぶ。



その濃さを、天は必要としていた。


故に、ときどき遣いが生まれる。



現世に降り、人として生き、人の営みを自らの身をもって経験し、それを持ち帰る器。


祈りを伝えるものでも、奇跡を授けるものでもない。


ただ、人の生の熱を知るための存在。



彼女は、そのために生まれた。



まだ幼い意識だった彼女は、その役目を与えられても、すぐには何も感じなかった。嫌だとも、怖いとも、嬉しいとも、明確には思わない。


ただ、白い世界の中にいるだけでは知れない何かが、自分を待っているのだとぼんやり理解しただけだった。



 だが、そのぼんやりした理解の底には、微かな揺れがあった。


それが後に、人で言うところの「好奇心」だったのだと、彼女は長いあとになって知る。



彼女は、天から現世を眺めることを許された。



いや、降りる者ほど、降りる前に多くを見せられる。

何を知るためにそこへ行くのか、その輪郭くらいは持たなければならないからだ。



戦いの火。

祭りの喧騒。

母に抱かれて眠る子。

病床で祈る老人。

別れの朝。

再会の夕暮れ。



人の営みは、彼女の目に奇妙に映った。



どうして、こんなにも忙しいのだろう。

どうして、こんなにも泣くのだろう。

どうして、終わると知っているのに、必死に何かを成し遂げ、守ろうとするのだろう。



見ているうちに、彼女はひとつの光景に強く惹かれるようになった。



競う者たちの姿だった。



白球が飛ぶ。

歓声が上がる。

打てば喜び、打たれれば悔しがる。

敗れた者は泣き、勝った者でさえ、次の試合の不安から逃れられない。



それは野球という遊戯であり、競技であり、

戦いだった。



彼女はその競技の何に惹かれたのか、最初は自分でも分からなかった。


球を打つことが面白そうだったのかもしれない。ひとつの勝敗に大勢の衆が心を揺らすのが不思議だったのかもしれない。


だが、本当に彼女の目を奪ったのは、勝敗そのものより、その前後に露わになる人の感情だった。



打席へ向かう前に、ほんの一瞬だけ息を止める者。

マウンドで平然とした顔をしているのに、指先が震えている者。

敗れたあと、誰も見ていないベンチ裏で、声を殺して泣く者。

勝利の輪の中心にいながら、次の季節を怖れている者。



人は、ひどく複雑だった。


その複雑さが、彼女には美しく見えた。



あるとき、彼女は白い世界に問いを落とした。



「どうして人は、負けると分かっていても競うのですか」



返ってきた声は静かだった。



『負けると分かっているからだ』



その答えは、幼い彼女には難しかった。

けれど、不思議と忘れられなかった。


彼女はさらに、自らに与えられるものについても知る。



現世へ降りる遣いは、それぞれ己の最後のための力をひとつ授かる。常に振るうものではない。隠し持ち、己に必要な時だけ開かれる、神との繋がりの名残のようなもの。



彼女に与えられたのは、獣神だった。



天界一の力を持つ獣神を、その背に憑す器となること。


邪を祓い、悪意を砕き、迷いを威で押し切る白銀の(たてがみ)。その力を宿せるのは、静かで、強く、しかし情に流されやすい器だけだとされた。



「なぜ、私に」



そう問うと、白の向こうから声が返る。



『貴様は、近づきすぎる』



その意味も、この時にはまだ分からなかった。

ただ、彼女は静かに頷いた。分からなくても、受け取るしかなかった。



やがて降下の日が決まり、現世で生きるための名が与えられた。



────神界俐塚(しんかいりつか)



それが、人としての彼女の名だった。



戸籍が与えられ、家が与えられ、親が与えられ、過去が整えられる。どこで生まれ、どこで育ち、どんな少女として暮らしてきたのか、全てが不自然なく編み上げられていく。


現世にいる誰が見ても、神界俐塚は最初からそこにいた一人の人間にしか見えない。



降りる直前、俐塚は最後にひとつだけ問うた。



「私は、何を持ち帰ればいいのですか」



しばらくの沈黙のあと、答えは短く落ちてきた。



『土の匂いだ』



俐塚は目を瞬いた。



『汗と焦りと悔しさと、喜びの混じる場所の匂いを持ち帰れ。人が何を望み、何に敗れ、何に救われて前へ進むのか』



「……はい」



『そしてそれを知識ではなく、自身の中へ沈めてここに持ち帰れ。だが決して、他者の為に天の存在を露顕させるな。さもなくば、即日貴様をここへ連れ戻す』



土の匂い。



その言葉だけが、やけに鮮明に胸へ残った。



そして、俐塚は現世へ落ちる。

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