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四畳半の鏡と、片道切符の契約

家出をして数日が過ぎた。


スマホの画面は、依然として冷たい沈黙を守っている。家族の誰からも、安否を問う連絡さえこない。


私は、世の中から自分の存在が消えてしまったような錯覚を覚えながらも、平日は何食わぬ顔で会社へ通い続けた。組織の歯車として働き、夜はビジネスホテルへ潜り込む。




一泊六千円。安宿を選んでいるつもりでも、積み重なれば一か月の家賃を優に超える。


「今回の家出は、もう後戻りできない」


自分に言い聞かせるように、私は駅前の不動産屋の門を叩いた。とにかく安いアパートを、と。




【汚染された沈黙】


案内されたのは、昭和の残滓がこびりついたような「〇〇荘」だった。


道路からは入り口すら見えず、細い路地を奥へと進んでようやく、錆びて朽ち果てそうな外階段が現れた。


管理会社の若い女性社員が、事務的に鍵を開ける。




扉が開いた瞬間、私はそこに「自分の現在地」を見た。


四畳半の畳。それだけがすべてだった。


女性社員はスリッパを履き、一刻も早くこの空間から逃げ出したいと言わんばかりの動きで窓を開けにいく。彼女のその「汚染されたものに触れるような仕草」が、私の自尊心を音もなく削っていった。




窓の外には、隣家のくすんだ白いモルタルの壁が迫っている。景色などない。


「風呂はないですが、トイレはありますから」


それが唯一のセールスポイントだという。私は五分も経たないうちに、逃げるように部屋を後にした。




【刺青の老人と、未来の自分】


管理会社が車を回してくるのを待つ間、アパートの階段下で一人の老人に会った。


洗面器にシャンプーを入れ、これから銭湯へ行くのだろう。


「こんにちは」


声をかけると、彼は愛想よく会釈をして通り過ぎていった。


ふと、その後ろ姿が目に入る。首筋の、たるんだ皮膚の下に、かつては鮮やかだったであろう龍か蛇のような模様が、形を失って沈んでいた。




かつては荒々しく生きていたであろう男が、年老いて、風呂のないアパートで独り、洗面器を持って歩く。


その姿が、未来の自分と重なった。


「ああ、これが私の数年後の姿だ」


言いようのない恐怖が胸を突き上げ、私は立ち尽くした。自由を求めたはずの家出の果てに、待っているのはこの「枯れた孤独」なのか。




不動産屋に戻り、「検討します」と告げて店を出た。


重い足取りで歩いていると、スマホが震えた。ある人からの、思いがけない連絡だった。




「ワンルームマンション、貸せますよ」




大きな駅から徒歩五分。部屋の広さは15㎡、築年数は経っているが、室内は綺麗に管理され、何より風呂がある。


私はその場で、その部屋を借りることに決めた。




契約書に印を突く。


それは単なる賃貸の契約ではなかった。


「いつでも帰れる」という甘えを捨て、自らの手で自宅との距離を物理的に固定した、決別の儀式でもあった。




【今回の一訓】


「夫婦とは、互いに『帰るべき場所』を保証し合う契約でもある。だが、一度その場所が安らぎを失い、恐怖や拒絶の対象となったとき、人はどんなに惨めな四畳半であっても、自分だけの『城』を求めてしまう。物理的な壁を作ることは、心の門を閉ざすことよりもずっと、修復を困難にするのだ。」

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