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本当の死

いちこと、四話目です。

よろしくお願いします。

さよなら、と彼女が言った。雨の中遠ざかっていく背中。男は手を伸ばすこともままならないで立ち尽くしている。強くなる雨音。暗闇を照らす電灯は頼りなくその光を放っている。男のコートが濡れて色が濃くなっていく。大げさとも言えるピアノのBGMが、その悲壮感を何倍にも増幅させていた。

 まあ、なんともベタなドラマだな、と舞香は思う。とあることから知り合った男女は、日を経るにつれて互いに惹かれていく。関係が深くなるにつれて互いの価値観の違いがあらわになり、最終的に女性が誤解をして離れていくという展開だ。

 別に舞香はこういうメロドラマを好き好んでみるような人間ではない。ただ、暇つぶしにつけたテレビから流れていたこのドラマを、いつの間にか毎週見ることが習慣になっていた。

「なんでそんなの見続けてんの」

 ふと、昴の呆れるような、笑うような声が思い起こされる。その日、舞香は退屈しのぎにそのドラマの話をしたのだ。いいとは言えない評価を下す舞香に、昴が聞いてきたのだ。

「だって、あまりにベタ過ぎて、逆に何が起こるんだろうって思っちゃったんだもん」

「予想外の展開はあった?」

「今のところ何もない。大体、男のほうがヘタレすぎるのよ。そりゃあ女の人は不安になっちゃう」

「舞香はしっかりした男の方が良い?」

「そりゃあそうでしょ。やっぱり頼れる男の人の方が安心する。経済的にも精神的にも自立してて、支えてくれる人。そういう人が理想かな」

「じゃあ俺は対象外だね」

「ところがなんと、今なら昴も対象です」

「そりゃよかったよ」

 今なら、なんて余計な言葉が付いてきたが、舞香にとって昴はずっと恋愛対象だ。高い理想を達成できていなくても、不器用で優しい昴が大好きだ。

 白い部屋は暖色の照明で薄いオレンジ色に染まっている。その優しい光を見ていると、何だか気持ちが落ち着く気がした。


 入院したての頃の舞香にとって、夜は恐ろしいものだった。見慣れない白い空間に一人取り残されて夜を超す。空は太陽が姿を隠して暗闇に覆われていて、先が見通せない。自分一人の病室はひどく静かで、看護師の声もなんだか遠かった。なんだか段々自分が夜の闇に飲み込まれるような心地がして、ベッドに潜り込む。それでも恐怖心は消えない。

 抗がん剤の治療が始まった時は目も当てられないような状態だった。何をしていても痛みと気持ち悪さが付きまとう。吐いても吐き切れない。薬を飲むための水でさえ戻してしまうような状況に、気力も体力も奪われていた。

 そんな時、たった一つ救いだったのは昴からのメッセージだった。

〈眠れてる?〉

 何かに引き寄せられるように送られてきたメッセージ。その一言だけで、舞香の体を食い荒らす症状が和らぐ気がした。

 舞香は震える指で文字を打ち込む。

 〈体がしんどい。気持ち悪くて、眠れない〉

 正直にそう送ると、ピコン、とまた通知が鳴る。

 〈今からそっちに行く〉

 そのメッセージから三十分後、昴は舞香の病室にやってきた。

 「なんで、来たの…。夜遅いのに」

 息も絶え絶えな舞香に、昴はまっすぐ答えた。

 「何かできることないかって考えた時に、体が先に動いた。まあ、丁度バイト終わりで近くにいたから丁度良かったよ」

 昴のその優しい声に、痛みで悲鳴を上げていた体は簡単に涙を流した。誰かがいる。それだけのことが、こんなに心強いことだとは知らなかった。

舞香には友達がいない訳ではない。むしろ、人間関係では不利にならずに生きてきた方だ。クラスの友人は最初こそ見舞いに来たり、千羽鶴を作って持ってきてくれたりした。去り際にはまた来るね、と言っていた。だが、入院が長引いてくると段々その頻度も減ってくる。舞香の席は空白が当たり前になり、そのうち誰も気にかけなくなるのだ。そうやって〈いない日常〉が普通になっていることに悲しさを感じつつも、どこかで仕方がないと受け入れている自分がいた。

 だが、昴は違った。どれだけ入院が長引こうとも、舞香の元に足しげく通ってくれている。こうして辛い時には駆けつけてくれる。

 「どうして、そんなに優しくしてくれるの」

 舞香が聞くと、昴は少し考えてから言った。

 「大事だからだよ。舞香のことが」

 「付き合ってもいないのに?」

 「付き合っていない女子を大事にしちゃいけないなんて決まりはないだろ?」

 「…昴のそういうところ、ずるいと思う」

 「ええ?」

 舞香と昴の関係性を表す言葉は、どこにあるのだろう。恋人とも言えない、友達とも言えない。そんな曖昧な関係性は、一言じゃ到底表せないように感じた。

 舞香は昴のことが好きだ。それはずっと変わらない。出来ることなら付き合いたいし、キスだってしたい。だが、それと同じくらい、舞香の心の中には恐怖があった。

 舞香は多分、というか絶対昴より先に死ぬ。そんなことはサルでもわかる事実だ。そんな中で交際を始めれば、いつか必ず終わりが来る。終われば再び始まるだろう。舞香は死んで、昴はその後の人生を生きる。そうなれば昴に新しい相手が現れるのも時間の問題だ。舞香はそれが嫌だった。自分のことを忘れて欲しくない。だから、この名前の無い関係を続けている。はっきりとした関係をつくらなければ、昴の中にずっと残り続けるのではないか。そんな自分勝手な思いが舞香の中にあった。

 「いつか死ぬ人間にこんなに優しくできるの、昴くらいだよ」

 「人間は皆いつか死ぬだろ」

 「でもみんなそれを見ないふりして生きてる」

 「他人事なんだよ、全部」

 昴がなぜか怒ったように言うので、舞香は笑ってしまった。

 「笑うことないだろ」

 「ごめん。だってなんか、私より怒ってるから」

 きっと昴は、私の命と周りの命を比べてその不平等さに怒っている。そう考えると、なんだか愛おしかった。

 「ありがとね、昴」

 「え?」

 「私、昴のおかげで生きてられる。これは本当だよ」

 「舞香…」

 舞香は苦しい体で出来るだけ微笑む。ふと、温かい体温が体を包み込んだ。

 「昴」

 昴は舞香を抱きしめて言う。

 「これくらいなら、許してくれる?」

 舞香はおずおずと昴の背中に腕を回す。そのがっしりとした背中が、弱っている今の舞香にはとても心強くて、思わず泣きそうになった。

 「いいよ、許してあげる。」

 舞香は囁く。その夜、舞香を蝕む痛みは少しだけ和らいだ。


 

 視界にはいっぱいの白い花。聞こえるのは僧が読経する声だけだった。線香の香りが充満している。黒い服を着た人間はみなすすり泣いている。その遺影には穏やかな顔をした老婆が写っていた。

 何年前だったろうか。昴は祖母の葬式に出席した。物心ついてからは初めての葬式の経験だった。人が死ぬ。それをこんな風にまじまじと見ることに、ある種の恐怖を感じていた。

 祖母は元気な人だった。仕事を辞めてからも、年金をもらいながら習い事や趣味に励み、その足で様々なところに足を運んだ。出かけることが好きだったのだ。

 だが、それも叶わなくなる日がきた。足を悪くしたのだ。歩けなくなった祖母は、日に日に憔悴していき、そのうち喋ることもままならなくなっていった。

 「おばあちゃん」

 そう呼び掛けても、返ってくるのは何も言わない視線だけだった。昴。そう呼ぶ声はもう聴くことができないかもしれない。それが寂しくて、何度も呼んだ。

 そして、いつしか寝たきりの状態になった。酸素マスクから聞こえる呼吸音が、彼女が生きていることをかろうじて示していた。


 それからほどなくして祖母は亡くなった。想像以上にあっけない終わりだった。初めて聞いたときは信じられなかった。いつか、歩けて話せていたころに戻れると、何故だか思い込んでいたのだ。そんな保証、どこにもなかったというのに。

 亡くなってからしばらくして、祖母のベッドから遺書が見つかった。乱れた筆跡が、描いた当時の状況を想像させる。

 「もっと人を愛すればよかった。もっと自分を愛してやればよかった。もっと、旅をすればよかった」

 遺書にはそう書かれていた。死んだ人間が抱える後悔。それは、ありきたりだがどれも取り返しのつかないことだ。今、彼女の意識はどこにあるのだろう。死の先には、何が待っているのだろう。それらすべて、生きている自分たちにはわからないものだ。

 棺桶が開かれて、最後のお別れの時間になった。覗き込んだその顔は、あまりにもいつも通りの祖母の顔で、本当に死んでいるのか分からなかった。このままずっと覗いていれば、再び起きるのではないか。そんな気さえした。

 花を棺桶に詰めた後、火葬場に到着した。火葬する間、みなは乾き物を食べながら待っている。行われている作業と皆の雰囲気の不一致がどうにも気味が悪く、昴は会場を抜け出して火葬場に行った。

 火葬場は一見エレベーターのように見える。その白い空間は、静かだった葬儀場とは異なり機械の音や人の話し声が飛び交っている。他の遺族だろうか、見慣れない制服を着た昴と同じくらいの年代の少女がいるのが見えた。

扉が開く。先ほどまで厳かな儀式として扱っていた死人が、作業的に運ばれていく。ガラガラと台車に乗った骨は、人間だったころの面影を何一つ残していなかった。今、死んだ。昴はふとそう思った。

骨だけになった祖母の姿は、残酷なまでにただの〈物〉だった。数十分前まで人間の形を保っていた祖母の体は、いまや骨壺に収まるくらいの物質と化している。足、体、頭蓋骨。順番に敷き詰めていく。これは喉仏です。立派な形をしていますよ。そう言われて、自分の喉仏を触ってみる。それが焼かれて骨だけになるのを想像して、恐ろしくなってやめた。

 葬儀の日からしばらくすると、皆は祖母を死んだ人間として扱うようになる。それは当たり前だ。だって、亡くなったのだから。

 寝たきりになって明日も知れなかったときの張り詰めた空気とは異なり、亡くなってしまえば皆はある種なにかから解放されたような顔つきになった。頻繁に見舞いに行っては憔悴していた母親の姿を思い出す。そんな母親はその後の精進料理を食べる場で、祖母との思い出を笑いながら語っていた。

 人が死ぬ。それは、残される側にも大きな傷を残すことだ。祖母の死を通してそれを知った。そしてそれと同時に、亡くなってしまえばすぐに過去として扱われてしまうことにも気が付いた。人は忘れる生き物だ。それが、たとえ死であっても。薄情だな。そう思った。埋葬したら弔った気になって、本当に死ぬ瞬間を知らない。そう思うと、ひどく寂しくなる。

 舞香も死んだらあのように骨だけになって、この世から本当に居なくなる時は独りぼっちなのだろうか。そんなの、あまりにも残酷だ。骨だけになった舞香を想像するだけで胸がえぐられる感覚がした。出来ることなら、自分だって一緒に棺桶に入って燃やされてしまいたい。それで骨だけになったって、舞香と一緒にいられるのならいい。ただ、いなくなるその瞬間まで一緒にいたい。そんなささやかで純粋で悲しい願いを昴は一人抱えている。せめて、一人にしたくはない。最後の最後まで、共に。

 本当の死を知るのは、昴ただ一人だ。



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