ネバーランド
いちこと、三話目です。よろしくお願いします。
定刻を告げるチャイムが鳴る。ロングホームルームは終了の号令と共に終了し、クラスの面々が各々帰る傍ら、昴は一人頭を抱えていた。
最悪なことになった。以前舞香に話した文化祭の演劇、ネバーランド。今日のホームルームではその役を決めることになっていたのだ。役と言ってもさまざまである。華々しい主役から、ひっそりと佇む脇役。それらを支える照明や大道具など、役目は幾らでもあった。昴は適当に裏方がやれたらいいと考えていたのだ。実際、大道具に立候補した。だが、流れが変わったのだ。
主役をやりたがる人間がいなかった。敵役であるネバネバ星人は悪ふざけが大好きな男子たちで埋まったとして、それに対峙する肝心なピーターの役がいない。そこで、やや人員が過剰気味な裏方から一人、主役を選出することにしたのだ。
会議が長引いてきて早く帰りたくなってきたクラスメイト達は、口々に適当な案を言っていく。くじ引きで良いんじゃないか。じゃんけんにしよう。いや、あっちむいてほいだ。そんな言葉が飛び交う中、ふと昴はつぶやいた。
「ババ抜き、とか」
突然、昴の口を突いて出た言葉に、皆が振り返る、それはどう考えても十数人いる人間たちで行う競技ではない。口に出してからそのことに気が付き、慌てて訂正しようとする。
「あ、いや、何でもない! 聞かなかったことに、」
「いいな、それ!ババ抜きデスマッチ! 」
いつも昴がつるんでいる仲間の小林がそう言った。一体どこが琴線に触れたのか分からないが、大人数でババ抜きをするという提案に、面白そうだと思ったらしい。クラスの面々は段々と賛同していく。これはまずい。いくら相手が舞香ではなかったとしても、勝てる見込みはない。そしてその予測通り、昴は恐ろしいほどに敗北を喫することになった。
「—と、いうわけで、主役のピーターは、村内昴くんに決まりました! 」
パチパチパチ、と教室が拍手で包まれる。誰かが指笛を吹いた。黒板に名前が刻まれる。
とにもかくにも、これで昴の主役は決定してしまった。
―そして放課後に至る。
「じゃあな、ピーター昴」
「期待してるぞ、ピーター昴」
気が付けば友人たちに変なあだ名をつけられてしまったらしい。屈辱なことこの上ない。なるべく目立ちたくないと思っていた矢先に主役を手に入れてしまうなんて、何たる不幸だ。しかもよりにもよって文化祭だ。全く知らない人間が観劇するのならまだましだが、完全に身内が多数いる空間で主役を演じなければならない。それが昴にとって何より憂鬱だった。
「やった、勝った」
舞香の喜ぶ声が病室に響く。たった今、昴はババ抜きで三連敗したところだった。舞香はこういう心理を扱うゲームに強い。いや、昴が弱いだけなのかもしれない。昴は昴なりに読まれないようにするのだが、舞香に見つめられるとそうもいかない。すぐに心臓が騒いで、目が泳いでしまうのだ。手元に残ったジョーカーを見つめる。なんとも気味の悪い顔だ。
「じゃあ、今度は七並べね」
そう言いながら嬉々としてトランプを並べ直す舞香に、昴は痛々しい思いを抱いていた。舞香は自分の残り時間をわかっている。その後の自分がどのような運命をたどるのかだって、分かっているはずだ。だが、白い病室の中で勝負に躍起になっている彼女は、それでも今という時間を逃さないように必死になっているように見える。それが、昴には辛くてたまらなかった。
——本当は、生きたいんじゃないのか。
昴はいつもこの言葉を飲み込んでいる。これはエゴだ。生きていてほしい、未来を見てほしい。そう思うのは昴のエゴイズムでしかない。それがわかっているから、何も言えないのだ。あの日、昴は誓ったはずだ。残り少ない彼女の時間を、出来る限り共にすると。
ここは、静かに死を待つ部屋だった。
「そういえば」
「どうしたの?」
「俺、文化祭で主役やることになった」
「主役って、あのピーター?」
「…そう」
昴は忌々し気に話す。すると、舞香は声を上げて笑い出した。
「…あはははっ! ピーター? 昴が!?」
事の顛末を話すと、舞香は無邪気に笑い声をあげた。当の昴は完全に不本意な顔をして佇んでいる。あの時の出来事は全て夢だったのではないかと何度も頬をつねったが、残念ながら現実らしい。意気消沈する昴に、半ば面白がるようにして舞香は声を掛ける。
「でもいいじゃん、主役。演じる機会なんて人生で中々ないよ。」
「なくてよかったんだよ、こんな機会」
昴は完全に不貞腐れていた。主役を演じることになったのもそうだが、舞香と何度も対決を交わしたはずのババ抜きで負けたことも昴の心にダメージを与えていた。
舞香は嬉しそうにこちらを見ている。
「大勝負の場で、私との遊びを選んでくれたんだ」
「いや、ババ抜きくらい誰でもやるだろ」
「でも私と一番やってるよね」
「それはそうかもしれないけど」
「それならいいの。昴が選んでくれたことが嬉しいんだから」
そのあまりにも素直な言葉に、顔が熱くなる感覚があった。舞香のこういうところがすごいと思う。好きなものは好き、と嘘偽りなく言えてしまうのだから。そしてその対象が人だとしてもそれは変わらなかった。
「え、なに。照れてんの?」
「照れてないって。いちいち指摘するなよ」
対する昴は照れると素直になるどころか、かえってぶっきらぼうな態度を取ってしまう。天邪鬼、といつか舞香に言われた言葉を思い出す。自分としては自覚がなかったが、こういうところがそう言われるゆえんなのだろう。
「でも、楽しみだな。昴が世界を救うところを見るの。〈ネバーランドは渡さない!〉って」
「それどこの台詞だよ。そもそもまだ最後まで台本出来上がってないし」
「でも、そういうお話でしょ?」
「まあ、そうだけど…」
それだけでないことを舞香は知っているはずだ。最後は永遠の国を出て、納豆を広める旅にでる。ともすれば皆が永遠を捨てると言っても過言ではない。
「俺はやりたくない」
昴が強情を張っていると思ったのか、舞香は昴の手に触れて言う。
「私が見たいって言ってるんだから見せてよ。いいじゃない、見られたってどうせすぐ死ぬんだから」
「そういう言い方はやめろって」
「なら、ちゃんとやってね?」
舞香はこう見えてしたたかだ。自分の余命をちらつかせて昴をゆすることも多々ある。そして昴はその我儘とも願望とも言えないお願いを、いつだって聞いてしまうのである。
「…わかったよ」
「やった」
そう言って舞香は嬉しそうに文化祭のチラシを眺めている。その様子を見ていると、存外ヒーローも悪くはない気がしてくる。
「文化祭、行きたいな」
「来ればいいじゃん」
「この状態で?」
「その状態で」
「ちょっと、ちゃんと考えてよ」
ちゃんと考えるも何も、昴は本気だ。舞香が文化祭に行きたいというならば、どんな手を使ってでも実現させるだろう。立って歩けないのなら車いすを使えばいい。痛みが心配なら鎮痛剤を使えばいい。酸素が足りないなら酸素マスクをつければいいし、休む場所が必要なら休憩所として開放される教室を使えばいい。
「でも、色々な人に迷惑がかかるよ。倒れでもしたら騒ぎになっちゃう」
「その時は俺が言うよ。ちょっと貧血気味なので保健室に連れて行きますって」
「仮に心臓が止まったらどうするの」
「その場で心臓マッサージをする」
「演劇の真っ最中でも?」
「その時は客席に駆けつけるよ」
「劇が台無しになっちゃう。ネバーランドはどうなるの?」
「ネバーランドを救うより舞香の方が大事だ」
「ちょっと、ピーターやりたくないからって言い訳に使うつもりじゃないでしょうね」
「そんなことない!俺は本気で舞香に文化祭を楽しんでもらうために考えてて…」
途端にうろたえる昴に、舞香は吹き出した。なんだか楽しまれている気がする。
「笑うことないだろ」
「ごめんごめん。昴があんまりにも本気の顔してるから、なんか面白くなっちゃって」
どうやらからかわれていたらしい。こちらは本気で考えているというのに。
「でも、俺は本当に舞香と一緒に文化祭を回りたいって思ってる。それは本当だよ」
舞香とともに過ごす文化祭はきっと、普通の人間が思い描くそれとはだいぶ異なるだろう。それでもいい。舞香と共に過ごす時間そのものを、昴は失いたくなかった。
「そしたら文化祭の日は久しぶりに制服着ようかな。」
「いいじゃん。看護師さんに着せてもらいなよ」
「それで一緒に写真撮るの。文化祭デートってね」
デート。そう言葉で言われるとつい意識してしまう。二人はまだ交際までは至っていないが、わざわざ言葉にして気持ちを確かめなくても互いに互いを想う気持ちがあることは明々白々だ。そういう距離感を、互いに楽しんでいる節がある。いうなれば恋の駆け引きだ。そんなこっ恥ずかしい言葉、絶対に口にはしないけれど。
「デートの時はエスコートしてね」
「周りに見られたら何か言われそう」
「いいじゃない。それだけお似合いってことなんだから」
舞香は恐らく昴がからかわれることを考えているのだろう。だが、昴は違った。
先ほど挙げた通り、舞香が他の生徒と同じように自分の足で文化祭を回るのは難しいだろう。必然的に何かしらの手段を取ることになる。癌に罹った同級生が久しぶりに学校に来たその時、周囲は何と言うのだろう。車椅子を見て、可哀想と思うだろうか。繋がれた管を見て、生々しく感じるだろうか。そしてその光景を、悲劇として受け取るだろうか。そういう視線が舞香に集まることが、昴は嫌だった。
「それに、どんな時だって昴は隣にいてくれるでしょう?」
その言葉は問いかけの形をなしているが、返ってくる返事を確信しているような口ぶりだった。舞香のこういうところがずるいと思う。そう言われれば、応えるほかなくなるではないか。
「当たり前だろ。舞香の隣にいるよ」
「それならいいよ。昴さえいてくれれば」
そう呟く声はひどく穏やかだった。きっと、舞香は本当に昴が隣にいてくれれば他はなんだもいいのだろう。自分がどう見られようが、まったく気にしない。つい周囲に流されがちな昴は、舞香のそういうところを尊敬していた。舞香はいつだって一本芯が通ったような性格をしている。自分が良いと思ったならそれでいい。そう思える勇気があるのだ。
昼下がりの病院は空気が柔らかい。ここに来るまでも、共有スペースでテレビを見る人間や、編み物をしている人間の姿がちらほらみられた。外からは小児科にかかっている子供の笑い声が聞こえる。それに対して舞香は、昴が訪れるとどんなときも大抵病室で一人佇んでいることが多い。
「舞香は、何かしないの」
「何かって?」
「ほら、なんか、暇つぶしに」
「暇つぶしならこうして昴と一緒に話すだけで充分」
「でもたまには気分転換にほかのことした方が良いよ」
「何、私と話すの嫌になったの?」
「そんなことはないけれど、ずっと病室に篭ってても体に悪いから…」
「今更体のことを考えてもね」
「それでも時々頭を活性化させていかないと」
「それ。遠回しに私の頭が回ってないって言うの?」
「違うって」
舞香は昴の言葉を正面からは受け取っていない。ひらりと躱しながら逆に昴に効く一言を打ち返してくる。そうすれば困らせられることを知っているから。
「例えば?」
「え?」
「例えば、他に何すればいいと思う?」
その言葉に昴は暫し考える。
「…編み物」
「何を編むと思う?」
「なんでもいいんだよ。セーターでも、マフラーでも、何でも」
「欲しいものを言ってくれなきゃわかんない」
「じゃあ、ニット帽」
その時昴の中にはいつか見た物語が想起されていた。入院している命の短い哀れな少女が、愛する人のために必死に編み物をする。しかし完成を待たずして少女は亡くなってしまうのだ。その手元に残されているのは、完成間近のニット帽だった。恋人はそれを抱きしめながら静かに涙を落とす。そんなありきたりな話。
「手袋じゃなくていいの?」
「いい。手袋ならたくさん持ってる」
それに、手袋をつけてしまったら舞香の手に触れられなくなってしまう。それなら頭を覆い隠すニット帽の方が良いだろう。
「確かに、ニット帽の方が良いかもね。私、抗がん剤やってた時の影響で髪の毛まだ少ないし」
舞香はそういって笑っているが、どう返せばよいのか分からない。確かに癌患者にはニット帽を被る者が多い。頭を冷やさないようにしている、とどこかで聞いたことがある。
当の舞香も入院していた時は諦めを口にしていたが、どうか治療を受けてほしいと懇願する母親に根負けして半年ほど化学療法を行っていた。放射線治療と抗がん剤を掛け合わせた治療は体への負担も大きく、食事も碌にとれないどころか食べれば吐いてしまうことが増えた。口内炎が痛み、物を口に入れることもままならない。毛髪は抜け落ち、その長い睫毛まで無くなってしまった日には、舞香は声を殺して泣いていた。
「私、もう嫌だ。こんなに苦しい思いをしてるのに、ちっともよくならない」
「そんなことない。きっと今は苦しいけれど、続けていれば良くなるよ」
「そう言ってもう三ヶ月経つじゃない。なのに検査結果も良くならない。結局意味なんてなかった。それならもうやめてこの苦しみから解放されたい」
そう縋りつく舞香の体は、治療を始める前よりやせ細っていた。肉感のない骨ばった皮膚が昴の腕に当たる。ただでさえ病気の体なのに、こんな風に弱ってしまっては本当に死んでしまうのではないか。少しでも力を入れれば折れてしまいそうなその骨を見つめながら、昴は本気でそう思った。
今、舞香は緩和目的で治療を行っている。舞香が母親にもう無理だと泣きついたのだ。母親も分かっていたのだろう。抗がん剤をいくら投与したところで今の進行具合では問題の棚上げにしかならない。苦しんだ分必ず治癒が保証されているわけではないのだ。
母親は泣いていた。ごめんねえ、苦しい思いをさせて。と言いながら抱きしめるその姿には様々な思いが渦巻いているのが伝わってくる。本当は治療を続けてほしいのだろう。だが、これ以上自分のせいで舞香が辛い思いをするのを見ていられない。そんな迷いと罪悪感がその背中に滲んでいた。
「まあ、私は編み物はいいかな。不器用だし」
そういって舞香は床頭台の方を見やると、そこには何枚か重ねられた既製品のニット帽が置かれていた。抗がん剤治療を始めてしばらくしたときに舞香の母親がまとめて持ってきたものだ。可愛いクマが刺繍されているものから、シンプルに柄が付いているだけのものまで多種多様である。
「確かに、もう持ってるしな」
「まあ、もう一枚作ったっていいけど」
「どういうのが好きなの」
「私のお気に入りはこれ。耳が立ってるやつ」
そういって舞香が手に取ったのは一枚の白いニット帽だった。ぴんと二つ角が立つようなデザインの白いそれは、被ると猫の耳が生えたように見える。小さく刺繍された赤いハートがワンポイントだ。
「似合ってる?」
そう言ってこちらを見つめる瞳は、もはや一つの返答しか待っていないようだった。舞香はベッドに寝ているため、必然的に上目遣いの構図になる。その視線にいつも昴は弱くなるのだ。
「似合ってるよ」
「可愛い?」
「うん、可愛い」
「なんか嘘くさいかも」
「何で」
「だって昴って、私のことには全部肯定するんだもん。本当にそう思ってるの?」
「思ってるに決まってるじゃん」
「そっか」
確かに昴は舞香に関することならば何でも肯定する。自身でもその自覚はあった。だが、決してそれは嘘ではなかった。舞香が着るもの、身に着けるもの、それらすべては昴にとって美しさが伴う。
「舞香はいつでもかわいいよ。どんなときも」
「なんだかそれ、告白みたい」
その言葉に昴は途端に顔を赤らめる。お互い好きであることは明々白々承知の上であるが、具体的な言葉にされると途端に実感を伴う。
昴は何とか平静を保っていう。
「これのどこが告白なんだか」
「私がそう思ったからそうなの」
「そんなのあり?」
「あり。大あり」
その会話の適当さに昴は思わず笑ってしまった。それにつられて舞香も笑う。
「ねえ、昴」
「なに?」
「私のこと、置いて行かないでね」
「もちろん」
むしろ置いて行こうとしているのは舞香の方じゃないか。そう言いたくなったのを喉元で抑える。いつかやってくるその時を、互いに見ないふりしてやり過ごしている。だが、いつ終わりが来るかわからない。明日かもしれないし、今日かもしれない。そんな恐れを胸に抱きながら、白い部屋での時間は刻一刻と過ぎていく。
じゃあね。主役、楽しみにしてる。
舞香が最後に言った言葉を反芻しながら、昴は病院の敷地を出る。昼下がりの街には、買い物袋を引っさげた主婦や公園で遊ぶ子供が見られる。ビニール製のボールが跳ねるのを目で追いかけながら歩く。
世界はいつも通り回っている。いつもの朝、いつもの太陽、そしていつもの病室。こうして舞香と病室で話す日々がいつも通りの中に組み込まれたことには嬉しさと悲しさがないまぜになっていた。舞香と話すのは楽しい。顔を見せれば嬉しそうにするし、帰るときは決まって寂しそうにしている。そんな舞香が愛おしく感じる。だが、本当ならもっと―。
本当、というのは一体何なのだろう。いまこうして過ごしている日々は嘘なのだろうか。あの日から昴はずっと考えていた。舞香が病気になったこと。入院したこと。治療がうまくいかなかったこと。これらすべて、初めから決められていた運命なのだろうか。だとしたら、彼女は何のために生まれてきたのだろう。幸せになるためじゃなかったのか。病気にかかって悲劇的な人生を送らせるためなはずはないのだ。あの日から、全て、こんなはずじゃなかった。
舞香と話すのだって、今までどおり教室で、とりとめのない事ばかり話していたかった。それなのに。いつ、だれが運命を捻じ曲げたんだ。
昴は息を吐く。
二人が生きるこの世界には、静かな絶望が付きまとっていた。




