死への道
いちこと、二話目です。
よろしくお願いします。
近頃の病院にはカフェが併設されていることが多く、この病院も例外ではなかった。一時期議論の対象にもされた病院のカフェだが、使ってみると案外居心地は良いそうで、利用客は増えている。かくいう昴もその一人だった。
自動ドアを開くとコーヒーの香ばしい匂いが鼻腔を刺激する。人々の話し声と食器の音。病院という白い空間の中で唯一ここだけは色を持っていた。
病院に併設されたカフェというのは駅前にあるようなカフェとは少々異なる。その客層は普通の人間だけではない。ところどころに白い入院服を着た人間が見られた。このように、患者もそうでない人も利用できるのが、このカフェの利点だ。ところが、舞香はここに来たがらない。
「ここならコーヒーも飲めるし、ケーキだって食べられるよ」
そう言うと舞香はため息を吐きながら言った。
「なんか、駄目なの。うまく言葉にできないけれど、カフェに来る人は患者だけじゃないじゃない。それが嫌」
「どうしてさ」
「自分との違いをありありと感じちゃうから。余生短い私は数少ない娯楽としてここにきているけれど、そうじゃない人の方が多い。見てみると、オシャレな服を着てパソコンで作業してる人もいる。きっと、あの人たちには外の世界があって、その合間を縫ってここに来てる。それを見なくちゃいけないのが辛いの」
舞香の言っていることはよくわかった。カフェに来るのは患者の家族や知り合いが多いが、この病院は駅が近いので仕事前にふらっと寄るような人間もいる。そしてそういう人間は決まって生気に満ち溢れているのだ。生きていくものと、死んでいくもの。それらが交差する病院の中では、そういう人間の方が珍しい。だからわかってしまう。どれだけ大丈夫だと思っていても、〈そちら側〉に戻ることはできないのだと。それを実感したくないがゆえに、舞香はこのカフェに行きたがらないのだ。
「私だって、入院中の気晴らし以外の理由でカフェに来たい。でもこの入院服を着ている限りは無理なんだろうね」
舞香はその大きな瞳を伏せる。まるで城に閉じ込められた姫のようだ。その姿があまりに切なげで、悲しくて、昴は思わず抱きしめた。
「昴…」
昴は何も言えなかった。ただ、抱きしめた身体から伝わる温もりが、確かで、愛おしい。この温かさがどうしてずっと残らないのだろう。昴はその瞬間だけ世界を呪った。
舞香の体は、病に侵されていた。昴がそれを知ったのは今から約一年前のことだ。
その日、舞香の母親から連絡を受けた昴は髪が振り乱れるのも気にせずに駆け抜けた。病院が近づくにつれてサイレンの音が聞こえてくる。
「昴。来てくれたんだね」
そう言ってこちらを見る舞香は、あまりにもいつも通りだった。だが、違う。白いベッドの柵、クリーム色のカーテン、心電図を表示する機械。いつも通りの舞香を取り囲む物が何もかも違っていた。いつもの制服は、見たことのない寝巻に着替えられていた。
「いいんだよ。それより、舞香…」
そう言って口ごもる昴を見て舞香は寂しげに微笑んだ。
「まあ、そういうこと。聞いてるなら隠しちゃっても仕方ないもんね」
昴は俯く。どうやら舞香には全てお見通しだったようだ。
肺腺癌、ステージ三。それが、舞香につけられた病名だった。医師の話を聞くところによると、喫煙習慣を持たなくてもかかることがある肺がんらしい。その五年生存率は約三十パーセント。とてもじゃないが高いとは言えない数値に、昴は絶句した。
外はすっかり夜が空を覆い隠していた。室内の時計の音がやけに響く。その静けさが心臓を嫌にざわつかせる。
「驚いた?」
舞香はまるでサプライズでも仕掛けた後のようにこちらに問うてくる。そこには取ってつけたような道化が漂っているが、昴にとってそれは、人生史上最悪のサプライズだった。
なんとか平静を保って返す。
「驚いた、なんてもんじゃないよ。突然倒れたと思ったら入院することになっているんだし。」
「確かにそれは驚くね。」
舞香は笑う。昴は舞香の笑顔が好きだが、こんな風に辛そうに笑うのは見たくなかった。
「体調は?」
「まずまずかな。今はそんなに悪くないよ」
「ならよかった」
それは会話の体をなしているようで、どこかぎくしゃくしていた。お互いいつも通りを意識すればするほど、何も言えなくなっていく。
沈黙が病室に広がる。これ以上何も言えなかった。何を言おうとしても、それが正解だとは思えなかった。
「私、多分死んじゃうね」
舞香が呟く。そのあまりにも直球的な言葉に、昴は息を呑んだ。これまで意識的に口にしていなかった死という言葉。それを、舞香は自ら口にした。
「だって、生存率三十パーセントなんでしょう?それって、裏を返せば七十パーセントの確率で私は死ぬってこと。この確率に勝てる気なんてしないよ」
そこにいたのは、いつもの舞香ではなかった。いつもなら、何があっても気丈に振舞う舞香が、ここまで後ろ向きな発言をするのを昴は初めて見た。
舞香はどこか諦観をはらんだ笑みを浮かべる。
「でも、それでよかったのかも。ずるずると苦しみながら生きるより、すっぱり生きることを諦めた方が、気持ちが切り替わると思うの。だって、そうでしょう? 治るかもって希望を持ちながら生きたって、それはずっと不安と隣り合わせだもん。それって、生きているって言えるのかな。むしろ死んでいることに近いと思う。」
そこで昴は気が付いた。舞香は後ろを向いている訳ではないことに。むしろそれは、残酷な前向きさであった。自分に残された時間を考えて、納得しようとする前向きさ。だが、昴はそれを受け入れることはできなかった。
「何言ってるんだよ。死ぬなんて、馬鹿な事言わないでくれよ。そんなことない。舞香は生きるんだよ。だから、そんなこと言わないで」
縋るように言う。これではどちらが患者かわからない。だが、これ以上舞香の口から死の未来について聞きたくなかった。お願いだから、生きようとしてほしい。だがそれは舞香には届かないようだった。
「これからのこと、少しだけお医者さんと話したの。肺がんなら化学療法が一般的だって。抗がん剤と放射線治療をするんだって。でも、それにはお金がかかる。お母さん一人にそんな金額背負わせられないよ。それに、知ってるでしょ? 抗がん剤の副作用。髪の毛が沢山抜けて、ご飯も食べられなくなって。私、そっちの方が怖い。生きるために、どれだけ苦しまなくちゃいけないんだろうって思うと、怖くなる。それなら初めからなにもしない方がずっとましだよ。」
舞香は不思議と冷静だった。自分に残された時間も、どうすべきかも何もかもわかっているようだった。
「…そう、か」
昴は納得できなかった。納得はできなかったが、そんな舞香を受け入れようとした。舞香自身がそうしたいのなら、そうすべきだ。それを止める権利など、昴にはない。それは昴自身が一番よくわかっていた。
昴は舞香の手を握る。突然の行動に、自分でも何をしているのか分からなくなる。だが、舞香が未来を選ばないというのならば、せめて触れていたかった。
「…昴」
舞香が呟く。名前を呼ぶその声すら愛おしくて、昴は目をつぶる。そうすれば、何一つ聞き逃さないでいられる気がした。
「ありがとう、昴」
舞香はそう言ってゆっくりと昴の手を握り返す。小さく震えるその手が確かに言っていた。怖い、と。それなら、自分はその震える手を出来る限りでもでも支えよう。そう、静かに心の中で決意していた。




