第七十九話 無観測領域〈ネガティブ・オブザーバンス〉
記録層〈アーカイブ〉での戦いから三日が過ぎた。
蓮たちは再び地上――創造都市レグルスへと戻り、
新たな異変への対応に追われていた。
空は晴れ、都市は活気を取り戻していた。
人々が再び街を行き交い、子どもたちの笑い声が響く。
だが、その平穏の下に、静かに“観測不能領域”が広がり始めていた。
塔の最上階で、蓮は報告を受けていた。
「観測不能領域……つまり、記録も感知もできない“空白”が現れた?」
蓮が眉をひそめる。
「はい。最初は小規模な空間歪みでしたが、今では周囲の地形や人々の記憶すら消失しています」
ミストが立体地図を展開する。
そこには、地図の一部が黒い穴のように消えていた。
「まるで、世界の“認識”そのものが削り取られてるみたいだね」
リーナが呟く。
「“無観測領域”……。それが、“観測そのものの否定”というわけか」
イリスが静かに言葉を継ぐ。
アストレイアが椅子から立ち上がる。
「この現象は、クロノス・コードの残滓ではない。むしろ、観測そのものを“拒絶”する概念――“無”の顕現よ」
「概念が、顕現する……?」
ノアが目を丸くする。
「観測とは、存在の前提。見られることで、記録され、存在が確立する。けれど、“誰にも見られないもの”は、存在として定義されない。それが極限まで進行したのが、“無観測領域”」
「つまり、存在しているのに、誰も認識できない……」
カイエンが呟き、拳を握る。
「そんなもんが広がったら、世界そのものが消えるだろ」
「ええ。このままだと、やがて全世界が“無”に還る」
アストレイアの声は静かだが、確実に危機を示していた。
蓮は深く息を吐き、立ち上がる。
「行こう。観測不能領域の中心へ」
「でも、観測できないんでしょ? どうやって行くの?」
ネフェリスが首を傾げる。
「俺の無限アイテムボックスを使う」
蓮が微笑む。
仲間たちは一瞬きょとんとした後、ああ、と納得する。
彼のアイテムボックスは、通常の空間収納ではない。
“存在の概念”そのものに接続する、“創造主級の収蔵域”だ。
「理屈としては、“観測の外”のものも収納できる。なら、観測不能領域にアクセスすることもできるはずだ」
「それ、理屈としてはめちゃくちゃだけど……あなたならやれそうね」
イリスが笑った。
蓮は頷き、右手を掲げた。
「――無限アイテムボックス、第零位階・存在界接続モード、起動」
空間に巨大な魔法陣が浮かび上がる。
世界の基盤そのものにアクセスするような、重厚な圧力が走る。
「この感覚……まるで、世界そのものが息を止めてるみたい」
リーナが身をすくめる。
「転移準備完了。全員、覚悟して!」
ノアが指を鳴らす。
光が収束し、蓮たちは一瞬で“無”の中へと消えた。
* * *
――そこは、“何もない”世界だった。
空も、大地も、時間も、音も、すべてが存在しない。
ただ、沈黙だけが支配する。
「ここが……無観測領域……」
イリスの声すら、わずかに歪んで響く。
蓮はゆっくりと歩を進める。
足元には何もないはずなのに、確かに“地”を踏む感覚がある。
「……ここ、時間の流れすらバラバラだ」
ミストが呟く。
「私たちの存在情報が、逐次“再定義”されてる」
「つまり、この場所にいる限り、私たちは“観測対象”として成立してないのね」
イリスが言う。
蓮は無限アイテムボックスを再び展開した。
その光が、まるで灯火のように空間を照らす。
「……これは、“物語の外”にある世界だな」
その言葉に、アストレイアがわずかに頷いた。
「そう。誰も語らない世界。だが、語られないことは“存在しない”ことではない。むしろ、こここそが“始まり”なのかもしれない」
その瞬間、黒い霧が現れた。
それは形を持たない、意志の欠片のような存在。
「――“無”の代理者」
アストレイアが警戒する。
霧の中から、かすかな声が響いた。
『……おまえたちは、なぜ存在する……?』
その声は、世界の底から響くように低く、
だがどこか悲しげでもあった。
「俺たちは、選んだからだ。生きて、繋いで、語ることを」
蓮が答える。
『……語る? 語られるからこそ、存在する……? ならば――“語られぬ存在”は、どうすればいい……?』
その問いに、誰もすぐに答えられなかった。
沈黙の中で、蓮だけが一歩前に出る。
「語られなかったとしても、“感じる”ことはできる。誰かの中で、それが残るなら――それも存在だ」
『……残る……存在の証……』
黒い霧がわずかに揺れ、形を変える。
人影のような輪郭が現れた。
「……君は、“存在したかった”んだな」
蓮の声は穏やかだった。
『我ハ、“無”ナリ。見ラレズ、記録サレズ、語ラレズ、存在セズ。ダガ……今、オマエニ……“見ラレタ”』
その瞬間、霧が光に変わる。
世界が震え、黒の海が白く染まっていく。
「観測成立! “無”が、存在として確立され始めてる!」
ミストが叫ぶ。
「つまり、“無”が――“何か”として、認められたのよ!」
イリスが目を見開く。
蓮は静かに目を閉じ、手を伸ばした。
「おかえり。“存在”の世界へ」
光が完全に広がり、“無観測領域”が崩壊を始める。
しかしそれは破壊ではなく、“統合”だった。
蓮たちは光に包まれ、ゆっくりと現実世界へと戻っていく。
* * *
レグルスの空が、再び青を取り戻していた。
すべてが夢だったかのように、世界は静かに息づいている。
アストレイアが微笑んだ。
「“無”はもう、敵ではないわ。それは、“存在を見届けてほしい”という願いだった」
「存在しないものなど、もうこの世界にはない。語られ、記録される限り――みんな、生きている」
蓮が空を見上げて微笑む。
そして、仲間たちもその隣で笑った。
だが、ミストだけがひとつの警告を口にした。
「……ただし、観測が成立したということは、“次の観測者”が現れるということでもある」
「次……?」
蓮が振り返る。
アストレイアの瞳が、遠くを見つめていた。
「そう。今、どこかで新しい“観測者”が生まれた。――“物語を紡ぐ者”としてね」
風が吹き抜け、青い空が広がる。
その向こうで、確かに新たな鼓動が始まっていた。
蓮たちの物語は、まだ終わらない。
“次の語り部”が現れる、その日まで――。
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