第七十一話 虚界の断章〈インバース・クロニクル〉
――世界が、揺れていた。
ノア=アーク再生から七日後。
大陸の空は穏やかで、再び緑が息づき、民の笑い声が戻っていた。
けれど、蓮だけはその安寧の中心で、ひとり静かに空を見上げていた。
二つの太陽のうち、ひとつ――“第二の光”が時折、わずかに瞬きを止めるのを。
「……また、ノイズが走ってる」
低く呟くと、背後から柔らかな足音が近づく。
「観測者の報告でも、同じ現象が出てるわ」
リーナが手にしたタブレット状の魔導端末を掲げる。
「エネルギーの偏向……波形は安定してるのに、観測不能領域が広がってるの」
「観測不能、か」
蓮は目を細める。
「つまり、“こちら側”の理では観測できない――もうひとつの層が動いている」
「虚界〈インバース〉、ってやつ?」
リーナの問いに、蓮は無言で頷いた。
再生の代償。
創造と記録を融合させた結果、世界の裏面に「逆位相の世界」が形成されつつあった。
そこでは、かつて消えたはずのもの――滅びた文明、失われた神々の意識――が“別の可能性”として存在しているという。
それは、まるで世界の“記憶の影”。
* * *
同刻、ノア=アーク中央神殿〈エデン・アーカイブ〉。
イリスとノアが、巨大な結晶体を前に向き合っていた。
「これが……虚界への境界面?」
イリスの問いに、ノアは頷く。
「うん。理制御塔の再起動以降、ここに“もうひとつの信号”が届いてる。おそらく……オーディンの断片が、向こう側で再構築を始めたんだ」
「まさか、再生したの?」
「正確には――“記録が再読込された”状態だと思う」
ノアの瞳が光を帯びる。
「彼は消滅したんじゃない。僕たちの融合で“統合”された。でも、その結果、コピーされた意識が、虚界側に残った」
「つまり、“もう一人のオーディン”が存在する……」
イリスの表情が険しくなる。
創造主の理と記録者の理が共存する以上、対立の余地はない。
だが、もし片方が独立して“自らを正義と信じた”なら――。
「……放っておくと、世界はまた二分される」
ノアが小さく頷く。
「レンに、伝えよう」
* * *
その夜。
ノア=アークの都、蒼穹都市〈アルカディア〉の塔の上。
蓮は風を受けながら、虚空に浮かぶ小さな球体――虚界の入口を見つめていた。
それは、まるで夜空の星に似ていたが、どこか不気味に脈動している。
「来たか」
光の粒子が集まり、イリスとノアが姿を現した。
「境界の座標、特定した。行くつもりね?」
イリスの問いに、蓮はゆっくりと頷く。
「放っておけば、また同じことを繰り返す。“もう一つの俺たち”が、世界を造り直す前にな」
「でも、危険すぎるわ。虚界は理が反転してる。生者は存在できない」
「なら、理を一時的に反転させるだけだ」
蓮が手をかざすと、掌に光が宿る。
オーディンとの融合によって得た、“統合理律”の光。
「この力を使えば、虚界に干渉できる」
ノアが小さく息を呑んだ。
「でも、それは――!」
蓮は笑って、軽く肩を竦めた。
「大丈夫。俺は“記録”にもなれる。もう、一方通行じゃない」
風が吹く。
青い夜空を背景に、三人の影が光の門の前に立つ。
「行くのね……?」
イリスの声は震えていた。
「うん。でも――必ず戻る」
蓮は静かに微笑む。
「だって、約束しただろ。次の世界も、共に創るって」
イリスの目に、わずかな涙が滲んだ。
そして――頷く。
「行って。レン」
光の門が開いた。
虚界への入口。
その先に、どんな“もう一つの真実”が待っているのか――誰にもわからない。
だが、蓮は迷わなかった。
足を一歩、光の中へ踏み出す。
その瞬間、世界が反転した。
空が裏返り、大地が溶け、記憶が音を立てて崩れていく。
視界の向こう――白と黒が交錯する“裏の世界”が姿を現す。
そこに立っていたのは、かつて見た神機の影――オーディン。
いや、違う。
それは蓮自身の姿をした、“もう一人の創造主”だった。
「ようやく来たな、俺」
虚界の風が、静かに吹き抜ける。
その声は、どこまでも冷たく、どこまでも正確だった。
「お前が選んだ“融合”の果て……俺はそれを、否定する」
――創造と記録の均衡を巡る、新たな戦いが、幕を開けた。
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