第三十三話 虚神の影
黒塔が覚醒したその瞬間から、戦場の空気は一変した。
重く、冷たく、圧倒的な「死の静寂」が広がり、兵士たちの心を縛り上げる。
「……空気が、凍ってる……」
リーナが剣を握りしめ、息を詰める。
黒塔の表面から零れる赤黒い霧は、触れるだけで生命を削り取る呪詛そのものだった。
虚骸兵たちがその霧を纏い、異形の軍勢として隊列を整える。
「まるで……影が形を持ったみたいだ」
シャムが槍を構えながら呟く。
「いや、これはただの影じゃない」
ミストの声は険しかった。
「虚神そのものの“分身”……《虚神の影》よ」
◆ ◆ ◆
その言葉と同時に、黒塔の頂上に“それ”が現れた。
漆黒の人型。だが輪郭は常に揺らぎ、内部は虚空そのもの。
眼窩の奥に紅蓮の光が揺れ、見る者の心を吸い込む。
「……なんて、存在感だ……」
カイエンが歯を食いしばる。
「これが、本当に人の手で造られたのか?」
「否」
虚ろな声が、空間全体に響いた。
それは口からではなく、存在の震動そのものが発する音だった。
「我ハ“模造”ニ非ズ。虚神ノ記録ヲ受ケ継ギ、此処ニ顕現セシ真ノ影ナリ」
「まさか……模倣に過ぎないはずの黒塔が、本物の虚神の記憶を……!」
ミストが愕然と目を見開く。
「帝国が制御できるはずがない……」
ノアがタブレットを叩きながら声を荒げる。
「これは……完全に逸脱してる!」
◆ ◆ ◆
「だが、そんなものに……俺たちは屈しない!」
蓮が剣を掲げ、仲間たちを奮い立たせる。
「俺たちの国を! 未来を! 守るために!」
叫びと同時に、虚神の影が指を鳴らした。
周囲の空間が砕け、黒の裂け目から異形の巨兵が這い出してくる。
「……数が多すぎる!」
リーナが呻く。
「まるで無限に湧いてくるみたい!」
「いや、違う!」
ノアが解析の結果を叫んだ。
「奴は、異界を直接繋いでる! 向こうから“虚無の兵”を引き寄せてるんだ!」
「異界そのものを利用してるってのか……!」
カイエンが拳を握り、雷を纏わせる。
「なら……異界の門を閉じれば!」
ネフェリスが歌声で力を高め、空間の歪みに干渉しようとする。
だがその瞬間、虚神の影の瞳が彼女を射抜いた。
「歌姫ヨ。汝ノ声ハ美シイ。故ニ、我ガ虚無ニ捧ゲラレヨ」
「っ……!」
ネフェリスの体から光が奪われ、声が詰まる。
「ネフェリス!」
リーナが駆け寄ろうとしたが、虚骸兵の群れに阻まれる。
◆ ◆ ◆
「くそっ……このままじゃ!」
蓮は無限アイテムボックスに手を突っ込み、光る結晶を取り出した。
「……これは、前に星詠の神殿で手に入れた《共鳴結晶》……!」
結晶を掲げると、仲間たちの武器や魔法が光に呼応する。
まるで、全員の力を一つに束ねるように。
「行くぞ!」
蓮は剣に結晶を融合させ、虚骸兵を薙ぎ払う。
雷、歌、魔法、槍、そして剣――仲間たちの力が重なり、黒塔に突き刺さる。
轟音と共に、虚神の影が初めて後退した。
「効いた……!」
ノアが叫ぶ。
「虚神の影は無敵じゃない! 俺たちの力を束ねれば、必ず倒せる!」
◆ ◆ ◆
だが、虚神の影はゆっくりと立ち上がり、紅い瞳を再び開いた。
「愚カナリ……汝ラハ未ダ理解セズ。世界ハ既ニ“選定”ヲ終エタ」
「選定……?」
蓮が眉をひそめる。
「然リ。我ハ新タナ“主”ト共ニ歩ム。既ニ未来ハ決定シタ」
その言葉と共に、帝国の高台からシェルドンが狂笑を上げる。
「ははは! 聞いたか! 虚神は我らを選んだのだ! 未来は帝国のものだ!」
だがその瞬間、虚神の影の眼光がシェルドンを射抜いた。
そして次の瞬間、彼の体は灰と化して風に散った。
「……え……?」
戦場全体が凍りついた。
「選バレシハ帝国ニ非ズ。我ガ主ハ……未ダ此処ニ眠ル」
虚神の影が空を指差す。
そこには、星を象るような巨大な魔法陣が広がっていた。
「何が……来る……?」
リーナの声が震える。
次の瞬間、空から降臨したのは――巨大な白銀の棺だった。
棺がゆっくりと開き、その中から少年が姿を現す。
白銀の髪、黄金の瞳。
「……ルア……!」
イリスが息を呑んだ。
「まさか……彼が虚神の“主”……?」
蓮は剣を握りしめる。
世界の未来を決する、運命の戦いが、いま幕を開けようとしていた――。




