第ニ章-『名のない街の、土と灯』-
足を一歩、門の先に踏み出した瞬間、
空気が変わった。
笠間の夜は、まだそこにあるはずなのに、
目に映るすべてが、すこし“焼かれたように”違っていた。
——あたたかい。
なのに、風が頬を撫でると、ひやりとした。
足元の石畳は、見たことのない形の器のかけらを埋め込んだような模様で、
路地を照らす街灯のようなものは、天井のない小さな窯だった。
その窯の中には、ぽうっと赤く灯る火が入っていて、
その火が、この街を呼吸させていた。
目の前に広がる街は、
家も、塔も、橋も、全部が“焼き物”だった。
粘土でできた町並み。
釉薬で艶めく屋根。
軒先に吊るされた、手びねりの風鈴たちが、
やわらかな音でぼくを歓迎している。
どこからか、こつん、こつん、とリズムのある音が聞こえてきた。
——土を叩く音? いや、もっと重くて、深い。
音の方へと歩いていくと、
小さな広場の中央に、彼はいた。
ごつごつした肩。
縁が欠けかけたような丸い背中。
粘土のような肌に、ひびの入った模様が走っている。
そして、目。
ぼくのほうをじろりと見て、
どっしりと低い声で、こう言った。
「……新入りか。ずいぶん小せぇな」
まるで、どこかの鍛冶屋の親方みたいな口調だった。
でも、その姿は、まぎれもなく——壺。
しかも、すごく大きい。大甕って、たしかどこかで見た名前。
「え、えっと……ここは……どこ?」
「言葉の通じる口でよかったな。ここは“器の町”。名はねぇ。土の中から焼かれて生まれたもんに、そんなもん要らねぇんだよ」
そう言いながら、彼はどっかりと座り直した。
背中には、陶片を並べて継ぎ足したような大きな蓋。
腕も脚もあるのに、どこか器のままの質感が残っている。
「……おまえ、人間だろう。珍しいのが来やがった。
……まぁ、来るには、何かしら“欠けてる”んだろうな。器も、人間もよ」
その言葉に、胸がきゅっとなった。
ぼくは、何かを——
忘れてる気がした。
でも、それが何なのか、まだ言葉にならなかった。
「……名前、教えてくれる?」
そう聞くと、彼はちょっとだけ目を細めて、
くっと鼻を鳴らした。
「名乗るほどのもんじゃねぇがな。ここじゃ“オオミカ”って呼ばれてる。
昔は酒を仕込んだり、漬け物を詰めたり、いろいろやったさ。
今は……ま、案内役みてぇなもんだ」
「案内役……?」
「そうだ。人間がひとり紛れ込んだってことは、
この町のどこかに、まだ“焼かれてない話”が眠ってるってことだ」
焼かれてない話——
その言葉が、ぼくの胸の奥に、土と火の匂いで沈んだ。
「さあ、小僧。火の向こうの土の町、案内してやるよ。
……ったく、何年ぶりだ、人間なんざ」
そう言って、大甕はぼくに背を向けた。
背中の蓋がきしみ、少し光った。
ぼくはそのあと後ろを、夢中で追いかけた。
そう言って、大甕はぼくに背を向けた。
背中の蓋が、ぎぃ、と音を立てて揺れる。
ぼくは、そのあとを追って歩き出した。
すると——
後ろから、ちいさな“コツ”という音がした。
振り返ると、そこにいた。
焼き物の——猫。
片耳がちょっと欠けていて、釉薬の色むらが温かみを感じさせる。
白っぽい土肌に、手捻りの痕がまだくっきり残っていた。
まるで、ついさっきまで誰かの掌にいたみたいな猫だった。
何も言わず、ただこちらを見ていた。
そして、くるりと一回転すると、すっとぼくの隣に並んだ。
「ははっ、おまえ、コイツに懐かれるとは珍しいな」
大甕が、前を向いたまま笑った。
猫はそれ以上近づくことも、離れることもなく、
ただ静かに、ぼくと同じ歩幅で並んでいた。
ぼくがしゃがんで目線を合わせると、
猫はちょっとだけ目を細めたように見えて——
また前を向いた。
まるで、"話すことなんかない。ついてくるなら勝手にすれば"みたいに言っているみたいだった。
ぼくは、なぜかそれが嬉しかった。
器の町の呼吸の中で、
ぼくと猫は、音もなく歩きはじめた。




