【エッセイ】快楽についての覚え書き
人間というのは、つくづく不思議な生き物だと思う。
少なくとも僕はそう思っている。
僕たちの中には、生まれつき快楽を求める装置のようなものが備わっている。たとえばおいしい食事とか、誰かと抱き合うぬくもりとか、誰かに認められることの甘やかな感覚とか。そういったものは、あまりにも自然に、時に暴力的なまでに、僕たちの心を突き動かす。
もちろん、それ自体が悪いとは僕は思わない。
快楽というのは、人生において必要不可欠な潤滑油みたいなものだ。
何も感じず、何も求めずに生きるなんて、そんなのはあまりにも味気ないし、第一つまらない。だけど、そこに完全に身を預けてしまったらどうなるかというと、それはもう人間というよりは、ただの動物の延長にすぎなくなってしまう。欲望のエンジンにアクセルを踏ませっぱなしにして、ブレーキの存在すら忘れてしまった車みたいなものだ。
僕たちは、たぶん、そういう状態から一歩抜け出すために「人間」として生まれてきたんじゃないかと僕は思う。欲望を感じながらも、それを一度心の引き出しにしまいこむことができるかどうか。快楽の誘惑を目の前にして、それでも別の道を選び取ることができるかどうか。それが人間の器の深さってやつなんじゃないかと思う。いや、別に偉そうなことを言いたいわけじゃない。ただ、そういう風に考えると少しだけ自分を律することができる気がする、というだけの話だ。
それに、僕たちには「想像する」という能力がある。これはなかなかにすごいことだ。
僕たちは未来の自分を想像することができるし、行ったこともない銀河の果てに思いを馳せることもできる。一度も会ったことのない他人の痛みを想像して、共感することすらできる。想像力というのは、要するに、現実を一歩先回りして走る小さな魔法みたいなものだ。そしてこの魔法が、僕たちを次の段階へと導いてくれる。文明の進化とか、技術の発展とか、そういうのは全部、最初は誰かの想像から始まった。SF小説でよく見るワープ航法も、人工知能も、平和な未来さえも。想像できるということは、いつかそれが実現する可能性があるということだ。
想像の力は、いつだって現実を凌駕する。
原始時代の人が、世界の裏側に住む人とリアルタイムで顔を見ながら話す未来なんて、きっと信じられなかっただろう。でも今では、それは当たり前になっている。技術は、想像力のあとをついてくる忠実な犬みたいなものだ。ただし、その犬は、時に暴走もする。だからこそ、僕たちは考え続けなくちゃならない。この犬をどうやって導くか、どこへ向かわせるのかを。
人間の歴史というのは、快楽と欲望、そして想像と抑制のあいだを、ふらふらと行ったり来たりしている長い物語だと思う。ときどきその歩みは間違えるけれど、でもきっと、少しずつ前に進んでいる。海も太陽も、いつもそこにあるようでいて、僕たちが気づいていない秘密をきっとたくさん隠し持っている。もしそれにちゃんと目を向けることができたら、人類はまたひとつ、違うステージに進めるかもしれない。
だから僕は、想像を続けたいと思う。
そして、なるべくなら快楽の誘惑には、必要以上に身を任せたくはないと思っている。もちろん、完璧にはできない。ときには深夜にラーメンだって食べたくなるし、布団から出るのが嫌になる朝だってある。人間だもの。だけどそれでも、ほんの少しでもいいから、より良い方へ、より深い方へと歩いていけたらいい。
この文章も、いつかは消えてなくなるかもしれない。でも何かを考え、記すという行為は、確かにどこかに軌跡を残す。まるで誰かの心の中に、静かに沈む小石のように。
そしてその小石が、いつか誰かの想像を芽吹かせる種になることを、僕は静かに願っている。
あとがき
このエッセイを最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
日常の中で感じたこと、ふと思い浮かんだ思い、誰かに伝えたいけれど言葉にならなかった感情。そんな断片を言葉に紡ぎ、このエッセイにまとめました。書き進めるうちに、私自身も新たな視点を得たり、過去の自分と向き合ったりする時間を過ごすことができました。
もし、このエッセイがあなたの日々に小さな気づきや共感をもたらすことができたのなら、これほど嬉しいことはありません。
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