¶6 あんなに開戦の絶好の機会をくれてやったのに
粉々になったたくさんの破片は、地面に付くまでに溶けるように消えていった。
最初に見えたのは、突起物。そして筋骨隆々の肉体が、次から次へと現れた。全ての破片が消え失せた時には、かの鬼の姿が片手の指では数え切れないほど、躍動している。
「朝の連中でも手間だったのに……」
祐人の口から言葉が漏れ、頬を汗が伝う。
「何体いるんだ……!!?」
カツカツ、と軽く乾いた音が耳朶を打つ。中央に居た鬼たちがするすると脇に避けると、一人の男性が立っていた。
茶色系のトラベルスーツとスラックス。中折れ帽子を目深に被っており、顔を窺い知ることは出来ないが、杖に寄りかかるように立つ姿は、見る者を静かに圧倒する。
『12体、だ』
例のしわがれ声だ。あの男性のものに違いない。頭痛に囚われて祐人は一瞬、言葉の意味が取れず、先刻漏れた自分の言葉の答えだと気づくのに時間がかかった。
12体と言えば、朝の3体の4倍だ。ハッとしてエルラガルを見ると、やはりと言うほかない様子だった。体勢は相変わらずの仁王立ちながら、その眼は獲物を見つけた肉食獣のようにギラギラし、片方の口角が引きつったように引き上がっている。
「お前の方がよっぽど…………いや、なんでもない」
触れれば切れそうな目で凄まれては、祐人は引き下がるしかない。相手もいるのに、味方同士で修羅場を形成する気はさらさらない。
つくづく、どんな状況・相手でも軽口を叩ける連中がうらやましい。
「で?」
エルラガルの言葉、たった1音。だが、こんな非道で挑発的な言葉が自分に向けて発せられてたら、と思うと祐人は背筋が凍る思いだ。
だが、そう思っているのは祐人だけのようで。
『で、とは大層なご挨拶だな。言われた通りに姿を現したというのに。なぁ、お嬢さん』
「何が目的だ。朝に倒した連中の敵討ちか?」
男性の笑い声。頭の中に笑い声が充満し、祐人は顔をしかめた。
『今まで刃向かって来た奴など居なかったのでな。どんな奴等かと顔を見に来たのだよ』
「顔を見た結果、あたしたちをどうするの?」
『潰す。……とでも言うと思ったか?』
「……?」
まるで解けるはずもない謎解きを出題しているかのような口ぶりだ。
祐人の頭には疑問符が浮かんだ。
(こういう時は大概、派手なケンカになるものじゃないのか?)
そしてエルラガルが、倒した鬼共の山の頂上に立って高笑いしている姿が容易に思い描かれる。
(で、実は山の一番下になっているのは俺でした、でオチだな。近くにいる奴から仕留めていきそうだから、ちょっとエルラガルから距離を……)
などと考えて祐人が数歩距離を取るのを、向かい側の屋上にいる男性がめざとく見つけた。
『もう逃げる算段か? 選択肢として間違いだとは言わないが、小さな女の子1人残して逃げるのは戴けないな』
ゆっくりと、エルラガルが身体ごと後方を、祐人の方を振り向いてきた。
ゆっくりと、腕組みしていた腕をほどいて、祐人の方に伸ばしてくる。
ゆっくりと、エルラガルの手が祐人の頭に回って押さえつける。
ゆっくりと、エルラガルは頭を後ろに引いた。
「頭突きは止め痛ッ」
衝撃が祐人の頭部を貫いた。
ゆっくりと、世界が回転して祐人は腰から崩れ落ちる。
エルラガルが不機嫌そうに鼻を鳴らす音だけが妙に耳に残った。
「さて」
エルラガルの軽いかけ声。埃を払うように手を叩いて、向かい側の屋上を見据えて続ける。
「あんなに開戦の絶好の機会をくれてやったのに向かって来ない所を見ると、本当に闘う気がないようね。一体何のつもり?」
『一度として此方への殺気を緩めずに居ては、誰もちょっかいを出そうとは思わんだろ。その前に、先刻すでに闘うつもりなどないと言ったはずだが』
「じゃあ何? 仲間にでも引き入れよう、とでもしてるのかしら?」
蔑むように睨むエルラガルに対して向かい側の男性は、いやいや、と苦笑して首を振った。
『もう駒は揃いつつある。それに手間のかかるのを増やした挙げ句、統制を乱すようなことがあっては困る』
「解ってるじゃない。でもその口振りだと、まるで請われればあたしたちが仲間になるように聴こえるわよ。あたしが納得するだけの正当性をお前が持ち合わせてたとしても、このエルラガル=ナヴィアン=フューラー、誰かの部下になるつもりなどない」
『正当性があろうとなかろうと、必要なら部下になるし、不要なら赤の他人だ』
「そこまで自分の力に自信があるんだ」
エルラガルの勝手な言い争いをげんなりしつつ聞き流していた祐人は、はっとした。
向かい側の屋上に立ち複数の化け物を引き連れている男性は、祐人にとって(おそらくエルラガルにとっても)見ず知らず、寝耳に水の人物だ。
(謎の人物が、何が目的かは解らないが接触してきている。おそらく刃向かうなと警告しに来たんだろうが、エルラガルはそれにハイそうですか、と応じるような娘じゃない。スキあらば喉元に噛みついてやろうとするタイプだ。だから、たぶんエルラガルは相手をその気にさせて乱戦に持ち込もうとしてるに違いない)
そう考えると、エルラガルが相手を貶して見下すポーズにも納得できた。万が一にもエルラガルが負けることなど思いもつかない。
なるほど、これが拳を使わないレベルの高い闘いか、と感心して祐人が眺める先、エルラガルは低次元な言い争いに口角泡を飛ばしていた。
「あー、もういい」
そののち、エルラガルは口は交渉決裂とばかりに、態度は投げやりに、地面を蹴った。
「こうなったら、ぶん殴って、這いつくばらせて謝らせてやる!!」
「えっ」
ちょっと見直したつもりでいた祐人は、いきなりの路線変更に驚きを隠しきれない。
「高等戦術は? まさかケンカ一本?」
「ハァ? 意味解んない。よしお前、そこで待ってなさいよ。“ホンモノ”がどんだけか見せたげる」
『言葉の意味が解らんが、返り討ちにしてくれる』
祐人の問いかけに答えたのは前半だけで、後半エルラガルは全力で啖呵をきった。それに相手も乗ってくる。今ここで祐人だけが置いてけぼりだ。
エルラガルが校舎屋上の端に片足をかけた。
後ろの祐人の方を振り向く。眼がらんらんと輝いている。それを見て、見直したのは過ちだったと祐人は改めて確信する。
「祐人、行くわよ。あたしは右から、祐人は左から。大将の首は取った者勝ち!!」
「ちょっ!?」
言うが早いか、エルラガルは飛んだ。一拍遅れて、ほこりが舞う。
エルラガルを止める術を知らない祐人は、一体目が殴り倒されたのを見て、屋上の端に足をかけた。
一度深呼吸をして、前を見据える。二人目が倒された。
かの“悲劇”を思い出し、身体の隅々まで力を込めて、祐人は飛んだ。
「!!?」
そこから先は、スロー再生した無声の動画を見ているようだった。
飛び込んでくる祐人に気付いた敵三体がうなり声をあげるように大口を開いた。それぞれ身構えて、一斉に祐人の方へ飛んできた。祐人と敵の速度で、相対的な速度は増し、距離は急激に縮まる。
一体目の拳を右手で軽くいなして、二体目に向き合う。流れのまま身体を傾けつつ、足を上げて二体目の顎を蹴り払った。
その時だ。
祐人は一瞬思考が停止した。エルラガルと目があったのだ。彼女は敵の襟首を捲り上げていながら、その目は明らかに動揺で揺れていた。
祐人にはその意図が読み取れない。最初の二体はもう落下し始めており、最後の三体目を叩き落とせばもう向こう側の屋上にたどり着ける。
三体目の太い腕を掴んで振り下ろし、踏み台にしようと足を曲げ上げた。
「!!?」
――ありえない。
目の前の現実を、祐人は驚きで受け止めきれない。
顔のシワまでもはっきりと見える距離。そこに存在するにはあまりにも不自然なモノが、祐人の眼前に在った。
上下黒のスーツ。黒いサングラスで、どこを見ているのか、目は見えない。
しかし異様に目を引くのは、膨れ上がった両腕だ。肩からスーツは破れ、赤茶けた筋肉が覗いている。
大きな両手を握りしめ、黒スーツは、両腕を高々と振り上げた。
(ヤバい!!)
逃げようとするが、自由がきかない。慌てて下を見ると、三体目が祐人の片腕を掴み返していた。
これを狙っていたのか、などと深く考えている余裕などない。振り下ろされようとしている肉塊から、封じられた片手だけで頭部を防ぐだけで精一杯だ。
「チッ」
舌打ちが祐人の耳に、近くのように遠くのように響いた。
眼前を覆うのは、突き抜けるような空色。だがそれも一瞬で、鈍い痛みを残して祐人の意識は途切れた。