¶5 だって、つまんないんだもん
硬いものに固いものがぶつかる音。次いで、ガチャガチャとドアノブをひねる音。また、悲鳴のような激しい音。それが断続的に続く。
「おっかしいな……」
くぐもった、祐人の声。だんだん、その悲鳴が大きくなる。
そのうち、
「ふんっ!」
と、祐人のかけ声と共に、もうたまらずステンレスの扉が吹き飛んだ。
一歩、外へ。
今にも雨が振り出しそうな曇天に厳しい目をくれると、祐人はひとつ、ため息をつく。
すぐに振り向くと、軽く「く」の字型に曲がった扉に手を掛ける。
「蝶番がバカになってたんだな……誰も来ないことになってるからって、管理に手抜きはダメだろ」
場所は校舎の屋上。時間は昼休み。祐人の言うとおり、屋上は立入禁止ということにはなっている。だが、校則のどこにもそのことは明記されておらず、言うなれば教師と生徒の間の暗黙のルールでしかない。天気がよく、暇ならここで弁当をつつく奴らもいるし、放課後に告白するスポットになったりもしている。
祐人はその因縁のある屋上の扉をこじ開けて出てきたところだった。
さすがに、この天気では誰も屋上に上がって来る気力はなかったようで、屋上にいるのは祐人と、半透明で浮遊するエルラガルだけだ。
「眠っ」
大きなあくびをかみ殺して、エルラガルが呟いた。
エルラガルにとっても、高校の授業は眠りを誘うようで、大概寝ている。それだけならいい。他にも寝てる連中なら掃いて棄てるほどいる。だが、無性に腹が立つのは、エルラガルが祐人の席の隣、つまり窓の向こう側で、浮遊しつつ気持ちよさそうに惰眠を貪っていることだ。
「先刻まで爆睡してたろ」
何を言っても八つ当たりになりそうなので、祐人は当たり障りのない所で濁しておくことにする。
「だって、つまんないんだもん」
各方面から非難が山のように寄せられるに違いない言葉を吐き捨てつつ、エルラガルは目尻に溜まった涙をぬぐった。
それを脇目に祐人は、実体がないエルラガルがぬぐった涙はどうなるのか、などと頭の片隅で考えている。
実体のないものから出たものは実体ではないだろう。まずこれはいい。次に、涙として形成された実体のないものはどうなるのか。本体たるエルラガルは壁ぬけ、空中浮遊、何でもやってのける。その代わり、物に触れることはできないのだが。
ならば、涙は周囲の熱をも受けつけないので蒸発することもない。かといってずっと指に付着し続けておくわけにもいくまい。
とすると、『本体から切り離してその辺に放置する』か、『付着した箇所から水分を吸収する』かしかない。前者を採用すると、エルラガルはそのうち涙が枯れるか、だんだん潤いがなくなっていくことになる。転じて後者では、エルラガルの身体構造はヒトとは違うことになる(実体がない時点でヒトの身体構造とはかけ離れてはいるのだが)。
それらの案は実状とはかけ離れているとしてすべて否定するとしたら、残るのは一番自然だが到底承伏できない案が残る。それは、エルラガルが自ら
「なんか」
エルラガルが、祐人の思考に割って入った。
「ヘンなこと考えてない?」
祐人は弾かれるように声のした方を見ると、眉根を寄せた怪訝な表情がそこにはあった。
その空色の輝きはあまりにも純粋で、
「別に。先刻の英語の小テストのこと考えてただけだ」
と目線と話題を遠くに放り投げることしかできない。
エルラガルが頬を膨らませて不機嫌そうになったのは分かったが、祐人はとりとめのない話を続ける。
「山本の一芝居のせいで一時はどうなることかと思ったが、なんとかなりそうで良かったな。定期試験で赤点取っても小テストの結果次第で救済措置があるそうだから、逃したくなかったんだよ」
エルラガルの反応はない。
「拉致られた山本は結局、ほとんど復習できなかったとか言ってたが、あの様子だと間に合ったようだな。名前書き忘れてればいいのに」
愚痴るが、エルラガルは完全に無視だ。
これはマズかったか、とは思ったが自分から折れるのもしゃくなので祐人も押し黙った。
屋上の手すりに寄りかかって、別棟の校舎を越して周囲の景色を見下ろす。
祐人の在籍するこの県立丹羽高等学校は、俯瞰するとたて棒の短い『コ』の字型に見える。また、住宅地が連なる小高い丘の頂上に建っており、そこから東方面には、高層ビルの建ち並ぶ商業地が広がっている。
高層ビルを眺めつつ、気まずい沈黙が続くこと数分。
「こんなとこにいたのかよ」
振り向かずとも、声で誰かわかる。山本だ。先刻までの諸々の事情は、すっかり忘れたらしい。全く都合の良い頭だ。
「こんな天気なのに屋上で何してんだよ。飯喰おうぜ……って、あ!!」
祐人の方に歩いてきていた山本はわざとらしく、手で口を覆う。もちろん、数歩後ずさりすることも忘れない。
「内藤、黄昏てんのか?」
「……は?」
「何だ、悩み事か? 小テストの出来具合があんまりだったか? それとも金欠か? 貸すつもりはないが。いやいや、まさか、恋か、恋なのか!? 恋わずらいな痛ッ」
裏拳が見事に決まった。
早足で駆け寄って来ていた山本は、勢いそのままにすっ転んだ。それを横目に、ガシガシと髪を掻きむしる。
「何だってんだよ、騒がしいな」
山本はあくまでもわざとらしく、足元でピクピクと痙攣している。とりあえず、わき腹の辺りを蹴ってみる。
「はんのうがない。ただのしかばねの痛ッ」思い切り蹴った。
その後、2分と経たず山本は復活した。
みんなさ、と山本は切り出した。
「俺に対する扱いがヒドくない?」
「そうか? 今の対応でも皆我慢してる方だと思うぞ」
「ガマン!? 何処に!!」
「そういう、自分を完全に信じてるところは、本当に尊敬に値するよ」
「それ褒めてる? 褒めてないよな?」
「いやいや、純粋に底から羨ましいと思ってる」
「ホントか?」
「ホントだとも。強いのか、バカなのか、こればかりは判断しかねるけど」
「なっ!?」
一瞬こらえての、爆発。笑い声が寂しげな屋上に満ちる。
山本が祐人の肩をバンバン叩いてきた。
(悪い奴じゃあないんだが)
祐人にもたれかかって、他人の髪を掻き回してくる。山本は祐人より頭半分位背が高いので、とりあえず目についたことをしてるだけなのだろう。だが、ワシャワシャされてる祐人の方は腹が立つだけだ。
山本の手を払いのけると、勢いよく身体を押し返す。
「そういえば、何でここに来たって?」
「昼飯喰おうぜって」
「あーー」
祐人は即座にポケットに手を突っ込む。指は空をつかむばかりだ。途端、今朝の出来事が祐人の頭の中をよぎった。
400円。今朝、通りがかりの人生の先輩方に献上し奉った額だ。その後で、あられもない姿になった彼らに急襲されたが、その時は昼食代の回収をすっかり失念していたのだ。
余分な金は持ち歩く主義ではないので、屋上に現実逃避しに来ていたのだが、今更ポケットの中身を改めたところで金が戻ってくるわけがない。
「昼食代、来るときに落としたのか?」
「……そ、そんなところだ」
山本の絶妙な質問に、祐人はどもってしまう。返す言葉がないとはこのことだ。
気付かず、困ったような声で返していたのだろう。祐人が顔を上げると、山本の顔が曇っている。気まずい、なんてものではない。
「内藤……」
「何だその哀れみの眼は!!」
山本を軽く小突く。しんみりするなんて柄じゃない。ましてや昼食代を落としただけで。
「それよりお前、こんなとこで油売ってたら待たせてる連中、先に喰い終わるぞ」
「もうそんな時間か!? じゃあ俺は先に戻ってるぞ」
山本は3歩進んで、また戻ってきた。真面目な顔で祐人の手を取って握りしめる。
「色恋沙汰なら俺が相談に乗るからな。 間違っても早まるんじ」
「誰が早まるかッ」
祐人の拳をひょいとくぐり抜けて、山本は今度こそ屋上を後にした。
「いちいち面倒くさいヤツ」
消えた背中に、祐人は言葉を放った。そして、元から居た手すりに寄りかかる。
見上げれば、初夏のような晴天。その空色を見ていると、悩ましい出来事の数々が祐人にはどうでもよく思えてくる。
と、全てを忘れそうになる直前、違和感に襲われた。
晴天。
周囲の静けさ。
屋上。
高層ビル群。
山本の発言。
壊した扉。
揺れる空色。
数々の記憶がフラッシュバックしては流れていく。その渦巻く流れの中で突然、ガバッと跳ね起きた。
「やっぱりか」
空色は、風に舞うエルラガルの髪の色だったのだ。屋上の床から数十センチ浮き上がり、腕を組んで怖い顔で仁王立ちしていた。
(先刻ごまかしたことを怒ってるのか? なら何故誰も居ない所を睨んで……)
エルラガルの目線を追って視線を走らせた先、『コ』の字型をした学校の向かい側の屋上には何も居なかった。
そう、何も居ないハズだ。実際、アスファルト以外には何も祐人の眼に映ってはいない。しかし、自身の勘のような部分が必死にそれを否定していた。
目を凝らして眺めているうち、祐人は向かい側の屋上の一角にゆがみを見つけた。ひずみ、と言った方が正確だろうか。
その箇所と周囲の風景が微妙にズレていた。そのズレは絶え間なく揺れ続け、一度気づいてしまうと、意識の外に追いやることは不可能だった。
「エルラガル、あれ……」
最後まで言うのは叶わなかった。ひずみから突然発せられた強烈な違和感によって、祐人は無理やり口をつぐまされた。
それは長く触れていると、違和感と言うよりむしろ、本能からの忌避感とでもいうべきものだ。
尋常じゃない量の冷や汗が身体中の汗腺から溢れ出し、頬や背中を流れていく。
校舎屋上のこちら側が現実で、眼下の緑地帯を挟んだ向こう側が、有ってはならない夢の世界なのだろうか。
エルラガルがフン、と鼻を鳴らした。
「やっと気付いたの。“ごーるでんうぃーく”とやらを全部使って練習したのに、まだまだのようね」
「止めろ、思い出させるな」
「今度はもっと厳しくしないとダメね。障害物込みで10キロくらい離れてても発動が感知できるくらい」
「はぁ!?」
それは、祐人の忌まわしき記憶だ。今月初めのゴールデンウィークを丸々使って、エルラガルによって祐人は“特訓”という名目で生き地獄に放り込まれたのだった。かの休日は恐れを込めて“ゴールデンウィークの悲劇”(命名:祐人)と呼ばれている。
祐人は思い切り、頭を左右に振る。過去の出来事に囚われている場合ではない。
それを脇目に、エルラガルは前方を見据える。
祐人が気付いた時点で、もう相手に不意打ちのチャンスはない。あとは正々堂々、真っ向からぶつかるだけだ。
『やっと気づいたようだな、少年』
「ッ!!?」
しわがれ声が祐人の頭の中を埋め尽くした。頭蓋骨が内向きのスピーカーになって、脳を大音量が揺らしている。
祐人は、弱音や他の諸々が湧き上がって来ないように奥歯を噛み締めざるを得なかった。
『そちらの不思議な様子の少女は早くから気づいてたようだが、何者かな?』
また、大音量のしわがれ声。
こらえながら、隣のエルラガルに目をやる。傲然と仁王立ちして憤然と鼻を鳴らした。
「何者か? その言葉、そのままそっくりお前に返そう。追及したい事柄は様々あるが、まずは姿を現せ。話はそれからだ」
エルラガルはどうして平然と、見えない人物に対して上からものを言えるのだろうか。なるべく平穏無事になるよう努めて、日常を過ごしてきた祐人には理解できない。
しわがれ声とは別の原因の頭痛が増えた気がする。
『おぉ、怖いお嬢さんだ』
その声はまるで孫のわがままにほとほと疲れた、といった様子だ。
その時は、突然訪れた。
異常な事態の発生は見慣れて、もう驚くことはないと思っていた。だが、目の前で起こりつつある現実にただただ驚愕し、真っ向から否定しようと考えを巡らせてしまうのは、常識に縛られるが故なのだろうか。
その祐人の眼前で、向かいの屋上にあったひずみが明確にひび割れ始めていた。
一ヶ所に生まれたひび割れは、時が経過するにつれて周囲に蜘蛛の巣状に広がっていく。スロースピードカメラで撮影した、ガラス戸が割れていく映像を見ているかのようだ。
5メートルほど、ひび割れが広がっただろうか。ひび割れは植物の本能のように周囲に広がることを止め、微に細にひびが入っていった。ひびがひびだと判別出来なく、真っ白になるまで。
『さて』
再びのしわがれ声。
それに呼応して、ガラス戸のようなひび割れが、はじけた。