¶4 こういうチマチマしたこと考えるの上手よね
授業の終了を報せるチャイムが校舎中に響いた。
怠惰な時間に割かれた束の間の休憩を少しでも満足させようとするかのように、生徒が廊下に溢れ出てくる。
その時間に高校に到着するよう合わせて来た祐人は、その生徒の中に上手く紛れ込む。
「こういうチマチマしたこと考えるの上手よねー」
エルラガルは聞こえよがしに呟いた。祐人の2歩ほど後ろを、人の流れを一切無視してつかず離れずの距離を保ってついて来る。
勿論、祐人は無視する。この学校という閉じられた場所で(エルラガルは見えていないので)、独り言をブツブツ言う(ように見える)のは気が引ける。というか後々よろしくない話になるのは本位ではない。それを知ってか知らずか、エルラガルもそれ以上深くは追求してこなかった。
所属するクラスに到着したのは、2時限目が始まる3分前。急いで席に着く。
祐人は、今月の席替えくじ引き争奪戦で、窓際後方2番目という最強の布陣を手に入れていた。だが、今月もあと残すところ五日を切った。このベストポジションの返還期限が差し迫って来ている。これも世の流れ、と受け入れ……られるはずもなく、あれこれと模索中だった。
「やほー」
隣では、ぐーぱーぐーぱーしてあいさつと見える不可解な声を上げるクラスメートがいる。
「面妖な」
「あ? あぁ、おはよう」
エルラガルのつぶやきは無視して、祐人はとりあえずあいさつしておく。残念ながら、朝一番に、隣の席の女子から昨日までは影も形もなかった新しいあいさつと思われる行為に対する反応を求められて、即座に反応出来るような人間ではない。
だが、彼女は祐人に対して過大な期待を持っていたようで。
「内藤クン? 今日はノリが悪いね」
と、肩のあたりまで伸ばした髪を散らして、彼女は勝手に不平不満を押し付ける。
「無ぅ理無理。古関ちゃん、内藤はそういうの得意じゃないんだから、あんまりイジメちゃダメだよ?」
「山本ぉ」
声のした方を、声の主はだいたい予想がつくが、祐人と『古関ちゃん』と呼ばれた、隣の席の少女――名前は『紗弥』と続く――はほぼ反射的に振り返る。
「おぅやおや、内藤サン。図星を突かれてお怒りですか?」
予想に違わず、声に似合わず、解りづらい声マネをするのは、山本衛稀その人だ。
ちょっと頭に来た。何が、と特定はしないが、イラつく。
ちょうど目の高さにある、山本のみぞおちを祐人は手刀で払う。
「ぅぐほぉっ!」
みぞおちをおさえ、大げさに倒れてうずくまる山本。
この2ヶ月弱、何かある毎に繰り広げられてきた光景に、周囲の誰も、興味関心を抱く様子はない。
そうこうしている内に、授業開始を報せる、絶望のチャイムが響き渡る。
「いつまでもその辺に転がってもらっては困るんですが、山本サン。目障りなんで早々に自分の席に帰っていただけますかな」
祐人の最期通牒宣告。
しかし、山本は手刀を受けたみぞおちを庇いながら、ゆっくりと立ち上がる。
「!!?」
祐人は驚きを禁じ得なかった。その表情は、苦悶一色、というわけではなかったからだ。苦痛の中に一条、光のように、勝利を確信したような笑みが走っていた。
内藤、と言って山本は笑みを薄く浮かべる。
その声に、古関も含めたクラスメートたちまでもが一斉に振り向いた。
山本は苦い表情だが、身体を真っ直ぐに起こした。そのままの姿勢で数秒、周囲のその視線を十分に、満足するまで満喫する。そして、山本は大仰に口を開いた。
「お前は大きな間違いを犯した」
「…………は?」
あまりに突拍子もない山本の発言に、祐人は絶句した。
周囲のクラスメート達も同様のようで、教室中に時間が止まったかのような空気が流れる。
「短気は損気と言ってだな、すぐに手を出すから大切なものを失うんだ」
「……………………」
奇妙な空気が教室全体に生まれていた。
簡潔に言えば、言い負かしたい、むしろぶん殴りたい、といった衝動。
それはおそらく、4月当初から担任が事ある毎に言っていた、しかし生まれようのなかった一体感とか協調性とか、一致団結とかいうものなのだろう。だが、
(こんなことで実感しなくてもいいじゃないか)
との思いがクラスメート達の頭の中をよぎっていく。
そのうち、山本は流石に、自分を除く教室が団結していることに気づいた。
「まぁ、今日のお前は不幸だろう、ってこ、のうっ!!」
山本は変なかけ声を残して、祐人の目の前から消えた。
それと前後して現れるのは、小柄な少年。大柄な山本の体躯の後ろでは、立っているのも見えていなかったのだ。
足元を見やると、山本が奇跡的な姿勢で転がっている。
両膝の裏を一度に払われることで、身体のバランスを失って驚いている間に、背中側に崩れ落ちざるを得なくなる--要するに、山本は足カックンされていた。
「見苦しいよ、山本」
微笑んでいれば、黙っていても他人に好感を抱かせるような端正な顔立ちが、他人を愚弄する時のそれに変わる。整っている分、その蔑みの表情は、必要以上に恐怖をかきたてる。
彼の名は、寺内毅。小柄な体躯ながら大柄な山本をも御し、未だに腹の底が見えない男だ。
「寺内、キサマっ……」
「ん、口答え? チャイムが鳴ったのに、ぎゃんぎゃん騒いでるのは良くないよね」
「えっ私!?」
突然話題を振られた古関は、びくんと跳ねた。その拍子に持っていたシャーペンを取り落とした。
「!!?」
「あ、ゴメン」
簡素な凶器となったシャーペンは、未だに立ち上がらない山本のスリッパに突き刺さった。
一瞬、山本は何が起きたか解らない、といった様子を見せた。が、すぐに持ち直すと、スリッパに手を伸ばした。
「危ないじゃないか、古関ちゃん。俺が足の甲を鍛えてなかったら怪我してたかもよ」
シャーペンを手に取って手の中でくるくる回しながら、山本は言う。
「そのまま貫通してしまえばよかったのに」
「てか、足の甲なんてどうやって鍛えるんだよ」
ぼそっと寺内と祐人は毒づいた。それに目ざとく、もとい耳ざとく気づいた山本は二人を軽く睨みつける。
「ありがと」
山本から引ったくるようにシャーペンを受け取ると、古関は早口で続けた。
「そ、そうだね。いくら自習だからって騒いでたら、きっと先生に怒られちゃうよね」
普通の反応じゃないか。祐人はそう思ったが、追求するとやぶ蛇に成りかねない。
「……自習?」
呟いた祐人の疑問詞に、寺内と山本、古関はそれぞれ、別の表情にさっと変わる。状況の好転を確信する喜びと、失敗を悟る苦いものと、自らが変化させてしまった後悔とに。
3人の表情を、祐人はじっと見比べる。そちらに目線を向けると、3人それぞれ、意味合いは違うだろうが目をそらす。
「……はぁ」
と、祐人は軽いため息をもらした。
道理で、チャイムが鳴っても山本はなかなか席に戻ろうとしないはずだ。そのうえ、寺内もオマケについて来て。
しかし、祐人にはまだ解らない点がある。たかが自習で、されど重要な60分なのだが、そこまで祐人にひた隠しにしようとするのか、だ。何もせずに放置しておけば、10分、20分くらいは無駄な時間を過ごさせることができていたはずだ。
「この時間は自習なんだ?」
「お、おぅ」
山本に、至極普通の口調を装って訊いただけなのだが、その答える声はどもっていた。
祐人はますます、何かを隠している、との確信を深める。だが一方で諦めている部分があるのも事実だ。
「次は英語か……」
山本から時間割に目線をずらして、祐人はつぶやく。もちろん、視野の端に山本を置いておくのを忘れない。
視野の端で山本がほぅ、と息を吐く。それと時をほぼ同じくして、古関と寺内の顔からも緊張が解けた。古関は緊張の解けた、ふにゃふにゃの顔で机に突っ伏すと、英語の教科書を取り出した。
「おら失せろ」
シッシッ、と祐人が山本と寺内を手で追い払っている隣、教科書のページをぱらぱらめくりながら古関が憂鬱にひとりごちる。
「さぁて、私も英語の復習しないとなぁ」
引っかかった。祐人の中で異様なまでの違和感が噴出した。それで、無意識の内に祐人は言葉を繰り返していた。
「……復習?」
帰りかけた、山本の足が止まったことにすら、祐人は気づかなかった。
まず、古関は授業前に英語の勉強をするようなマジメな人間ではない。まぁ、祐人も他人のことを言えるような真人間ではないのだが。これが違和感の原因だと思った。だが、無意識に出た言葉をもう一回なぞってみる。
「今日か!? 英語の小テスト!!」
思わず出した大声に、近くの古関はびくんと跳ねた。1テンポ遅れて、盛大なため息が響いた。ため息の聞こえた方を見やると、山本が額に手をあてている。
「あぁ、もう、古関ちゃん。全部バラしちゃったよ」
「私のせい!?」
ガバッと飛び起きると、古関は山本に不平を訴えた。
「最後にバラすなんて、ヒドいよ」
「別に隠して、なんて頼まれてないし」
「でも途中まで楽しそうに参加してたじゃんかよ」
「うっ、結構傷つく」
「あのー、隠されてた俺への弁解とかは…………ありませんかね、はい。ありませんね」
後ろで傍観を決め込んでいた寺内は、山本の肩をそっと叩いた。
「内藤にみぞおちをえぐられ、クラスでは浮きまくり、シャーペンが刺さった場所は鈍痛だし、しょうもない目標は達成できず。不幸に魅入られたのは山本、君自身なんじゃない」
怒りを露わにして山本が振り返ると、寺内はもうそこにはいない。
仕方なく直った山本は、はたと気づいた。嫌な空気と、机にかじりつく古関と慌てて教科書を開く祐人と。
教室の扉がすっと開く。
ゴゴゴゴゴ、と効果音が鳴りそうな雰囲気をまとわせて、1m90はありそうな巨体が開かれた教室の扉から現れた。
「何を騒いでるッ!!」
「えっ、オレ!? 違います誤解です!!」
山本は襟首を掴まれると、教室から退場させられた。