¶9 金がないなら作ればいいじゃない
「よう、大将。今帰りか」
「マスター!? そうですけどこんな時間に出歩くなんて、お店はどうしたんですか」
「笹原さんがいたから店番任せて出てきた」
「買い物ですか?」
「う~~」
エルラガルはぶつけた鼻を撫でながら、目を瞬かせる。
祐人が誰かに気付いて急に止まったため、後ろから追ってきたエルラガルが衝突したのだ。
「豚肉とキャベツ」
「完全に私用じゃないスか」
「構うものか」
そんな彼女に目をくれることなく、祐人は談笑している。エルラガルが脇から覗くように見やると、相手はグレーの短髪に浅黒い地肌の、得体の知れない老人だった。白いシャツに黒いスラックス。目を引く赤いエプロンをつけてビニール袋を引っさげて歩く様子だけでは、容易に正体は判り得ない。
じっと見ていたのが気になったのか、脈絡なく老人はエルラガルに話しかけた。
「よう、お嬢さん」
「よう」
オウム返しで、返答する。じろじろ見るわけでなく、興味がないわけでもなく。ただただ知り合いの知り合いとしてだけの興味。
猫なで声ではないが、小さな子供にそうするように話しかける。
「どうかしたのかな」
ふるふる、とエルラガルは首を横に振ると祐人の影に隠れた。悪い人ではないのは直感的に分かったが、子供みたいに扱われたことに対する、ささやかな反抗だ。
だがその甲斐もむなしく、正確に伝わらなかったようで。祐人と正体不明の男性は揃って苦笑する。バカにされても、暴れ回るつもりはないエルラガルは唸り声をあげるだけで不満を発散させる。
「……誰?」
くいくい、と祐人の服の裾を引いて訊く。正体不明の人物にほいほいとついて行くのは良くない。普段ならいざ知らず、今は怪しい人物の襲撃があった後なのだから。
(操られてる様子はないからまだいいけど、無関係の人を必要以上に巻き込むのはデメリットが大きすぎる)
そんなことをエルラガルは真面目に考えているにも関わらず、祐人には理解されないのが現状だ。
正体不明の男性を手で指して、祐人は何にも考えていないような笑みを浮かべる。
「エルラガルは知らなかったか。マンションの裏にある喫茶店の主人、マスターだよ」
「マスター、マスター……」
なんとなく言葉の響きに親近感が湧いた。もっとあからさまに言うとしたら、食指が動いたようなものか。エルラガルは繰り返し呟く。
「何をマスターしたの?」
裏も何もない言い方。
エルラガルはただ純粋に疑問が浮かんで、それを口にしただけだ。普通なら嫌みや難題と取れてしまうような質問だとしても、すんなりと受け入れてしまう。
「コーヒーと軽食だな」
マスターは思案する間を置いて、そう答えた。
ほう、とエルラガルと祐人はそれぞれ感嘆の吐息を漏らす。
エルラガルは、これまた純粋にマスターが精通していることに感嘆していた。だが祐人は、エルラガルの意地悪にしか聞こえない言葉遊びにマスターは怒らず、大人の対応でクリーンに解答してみせたことにだ。
「あたしは水ね。能力の指向性が水系統なの」
胸を反らして、エルラガルは得意気にマスターに語る。また困らせるようなことを、と祐人は隣で脱力した。
だが、マスターには祐人のそんな気苦労も無用なものだ。
「そうかそうか。食べ物にも飲み物にも水は大切だ。水を効率良く使えるのは凄いぞ」
「そう? なら祐人に言ってやってよ。あたしの話、大概無視するの」
「それは、いかんな」
「いかんなぁ」
お互い半歩ずつズレているようだが、祐人は安心した。エルラガルの警戒は完全に解けたようで、いつもの様子に戻っている。今も、くるくると表情を変えて忙しないほどだ。
非常に心優しい、尊敬の念すら覚えるマスターに厄介なモノを押し付けることになって祐人は申し訳ないのだが。
「水ってひとまとめに言うけど、ちょっとしたことで、印象がガラッと変わるの」
「冷やすと氷、加熱すると蒸気になる」
「そうだけど、そうじゃなくって。温度は勿論だけど、圧力や溶質や接するモノによって」
ないのだが、気になった。
エルラガルがマスターと会話する中で時折、祐人の顔をちらちらと窺ってくるのだ。頻繁ではないが、目が合う。かと思えば、振り切るように目を逸らす。何をそんなに気にしているのか。
直近で思い当たることは、先刻エルラガルに強くあたったことだが。
(……まさか、な)
心の中で、祐人は首を振る。
エルラガルは細やかな気配りをするタイプの人間ではない。そもそも『人間』ではないのだが、それは脇に置いておく。祐人の見た限り感じた限りでは、他人がどう思おうが感じようが気にせずに、自身の目的にとってどれだけどの範囲まで影響を与えるか、冷徹に悪辣なまでに考えて行動する。
これを踏まえれば、羽虫程度にしか感じていない祐人に対してエルラガルが『気を遣う』ようなことはありえない。
「祐人?」
エルラガルが祐人の学生服を引っ張った。案の定、かなりの力で無理に祐人の足が止まる。
「何だよ。腕がもげるだろ」
冗談ではない。ただ、強い口調で言っても祐人の反論を基本的にエルラガルは受け付けないので、あくまでも諭すようにだ。マスターから学んだ。
「マスターのとこ、寄ってきたい」
またもや、案の定、だ。
エルラガルは自由人なのだ。これは祐人に同意を求めてるわけではなく、来い、行くぞ、という意思表示だ。楽しげに話してるのを聴いていて、なんとなく想像はついていた。
ため息をひとつ、――いいぞ、と言おうとして祐人は言い留まった。
文無しだ。
朝の出来事で昼食代を紛失していたのを失念していたのだ。おかげで昼食も食べ逃していたが、空腹も完全に忘れていた。
それに、つきあたりを曲がればマスターの喫茶店はすぐそこだ。
とにかく、祐人は一刻も早く不可能を提示するしかない。エルラガルは不可能を認めないほど横暴ではないのだから。
「悪い。金がない」
「……金がないなら作ればいいじゃない。よし、あたしの造幣局を作ろう」
表情ひとつ変えることなく、エルラガルはそう宣った。不可能は認めても、目的完遂には手段は選ばない横暴なのだった。
横暴な手段の皮算用は続く。
「まず場所の選定、人員と機械確保。同時に絵柄作成と後ろ盾も捜さなきゃならないわね。勿論、絵柄はあたしの横顔で決定だけど、かなりお金が要りそう。おっと、手持ちがなかった。だったら、あたしの造幣局を作ろう。まず、創業に必要な建物や機械を準備。横顔入りの絵柄を作ってもらって……」
「堂々巡りかッ」
あれこれと暴れ出すエルラガルの手を取り、祐人は語りかける。
「わかったわかった。家に一度帰って財布取ってくるから、マスターについて先に行って」
「……うん」
珍しく、エルラガルは殊勝に頷く。
その肩に、しわくちゃの手が置かれた。マスターだ。
「今日はオゴリだ」
「マスター!!」
エルラガルがマスターに食ってかかった。そう見えたのは祐人だけだ。彼女は正しくは、単に喜びを表現するのに抱きついていた。
端から見れば、完全に祖父と孫だ。本当、本当、と繰り返し訊いている。
祐人はエルラガルの頭越しに礼を述べる。
「すいません、マスター」
応えるマスターは、うっとうしいように手で払うのみだ。
見れば、エルラガルがマスターのエプロンを掴みながら祐人を見つめていた。一瞬目が合うと、目を細めて鼻で笑う。
(貧乏だ、器が度量が小さい、そう言いたいんだろ)
対する祐人は、マスターの手前、頬を震わせるだけで我慢する。
言い返せないのを見て満足したのか、ふい、とエルラガルはマスターを見上げて上機嫌だ。
「喫茶店、近いの?」
「すぐそこだ」
言いながら、マスターはエルラガルの肩に手を置いてエプロンから引き剥がす。そしてエルラガルは先陣を切って歩き出した。さながら部下を従え戦地を進む将軍といった様子だ。
のっしのっしと歩を進めるエルラガルに、
「おい、こっちだぞ」
祐人の声がかかった。
声につられて振り向くと、エルラガルの後方約10メートルに祐人とマスターが立ち止まっていた。
「なにが」
「なにが、って。ここが喫茶店だし」
「いくらなんでもあんまりじゃない? そこはどう見ても他人ん家よ、バカにしないで」
エルラガルは、相手にもならないといった様子で言い放つ。
彼女の言う通り、二人が立ち止まっているのは個人宅にしか見えない一軒家の前だ。大小なりともお店の持つ華美さがなければ、勿論看板もない。本当に隠れ家といった風体だ。
「老後の愉しみなんだ。流行る必要もないし新しい客も要らない」
と、マスターは言う。
だが、祐人や喫茶店の客達は知っている。新客が現れ、よく顔を見せるようになるとマスターは非常に喜ぶのだ。本人は否定するだろう。ただ、このマスターの喫茶店に居着くような物好きな客は大概マスターの人柄に惚れ込んでいる。だから分かる、とまではいかないがそう感じられる。
辛うじてそれらしい、出入口のドアをマスターが開けると、それらしく涼しげなベルが主人と客を迎えた。
内装は至って普通の喫茶店だ。茶色やグレーでまとめられた店内に、6人が座れるカウンター席と4人掛けのテーブルが2つ。カウンターの向こうには、真っ白なカップや様々な形状の食器、ウイスキーや名前の知らないような酒瓶等が並べられていた。それらの整然とした雰囲気にマスターの嗜好が感じられる。
そこにひとり、中年の男性客が座っていた。ベルの音に気付いて3人の方に振り向き、マスターを発見すると歓喜とも非難ともつかない声をあげた。
「マ、マ、マスター!! やっと帰ってきた。ちょ、ちょっと今まで、な、何してたんですか!?」
「買い物だ」
「そ、それって私用でしょ? 待ってくださいよ」
必死に食い下がるが、マスターは聞こえないフリでカウンターについた。店番を押し付けられたかわいそうな中年は押し黙る。
祐人を見上げてエルラガルはあごをしゃくる。
「アレは?」
自分より年長の男性をアレ呼ばわりだ。エルラガルにしてみたら、オドオドした彼のような人物は一様につまらない部類にでもあたるのだろうか。
祐人は注意するのも諦めて、質問に答える。
「たぶん、先刻言ってた『笹原さん』じゃないか。何度か見かけたことはあるけど、名前は知らなかったな」
「そう」
「さぁ、お嬢さんたちはあっちだ」
買い物袋を置いたマスターは、エルラガルの肩を抱いて4人掛けのテーブルへと案内する。連れられるまま、エルラガルはすとんと腰を下ろした。その向かいには、祐人が座る。
「じゃあ、コーヒーふたつ」
祐人の注文に無言で頷くと、マスターはカウンターに戻っていく。
「コーヒーって、真っ黒で泥水みたいにマズい、っていう飲み物?」
「そんな嫌そうな顔するなよ。他はそういうのもあるかもしれないけど、マスターの煎れるコーヒーは違う」
「さぁて、ね。あたしを満足させられるものかしらね」
「大きく出たな。今言ったことは撤回することになるぞ」
ハン、とエルラガルは鼻を鳴らす。だが、すぐに興味を失った顔をして、店内を見回し始めた。
目に映るのは、雑多なつながりも感じられない品々ばかりだ。世界中のどこかも見当のつかない都市や建造物、路地裏のようなところを写した写真や、幾何学模様の用途がわからないおかしな機械、民俗学的には価値がありそうなお面や構造物が整然と置かれている。
「何か気になるものでもあるのか?」
「…………いや、別に」
祐人の何気ない質問に、エルラガルは歯切れの悪い答えを返すだけだ。その言葉とは裏腹に、目が奇妙な品を追っていて興味が湧き立っているのは間違いない。