1話
その土地は、アデリス王国の辺境に位置する小さな村、エルドリス。険しい山々に囲まれたその地は、風が吹き抜ける広大な草原と豊かな森に包まれ、まるで世俗の喧騒から隔絶されたかのような静けさを湛えていた。
村人たちは季節の移ろいに寄り添いながら、農耕や狩猟を生業とし、昔ながらの素朴な暮らしを続けていた。村の中心にある古びた石造りの礼拝堂は、長い時を経てもなお村の象徴として存在感を放っていた。その横には、村で最も大きなオークの木がそびえ立ち、その根元は村人たちの思い出を静かに見守り続けていた。
オークの木の下は、リーナとカイルにとって特別な場所だった。幼い頃から何度も遊び、笑い、時には涙を流した場所。二人はそこに座り、空を見上げるのが日課のようになっていた。
ある穏やかな秋の日、黄金色に染まった草原の風が吹き抜ける中、リーナはその木の下でカイルを待っていた。彼女の手には、赤い糸で丁寧に織られた小さな護符が握られていた。やがて、カイルが姿を現した。
「待たせたか?」カイルが笑いながら声をかけると、リーナは振り返り、嬉しそうに微笑んだ。
「ううん、ちょうど今来たところ。」彼女は言葉とともに立ち上がり、カイルに向き合った。「これ、見てほしいの。」
彼女は手にしていた護符を差し出した。赤い糸で織られた小さな布に、森で拾った緑の葉と、川で見つけた小石が縫い込まれていた。
それはどこか未熟ながらも、リーナの心が一針一針に込められているのが伝わってくるものだった。
「何だこれ?お前が作ったのか?」
カイルが驚いたように問いかけると、リーナは頷いた。
「うん。上手くできてるか分からないけど…カイルに持っててほしかったの。」彼女は少し照れたように視線を下げた。
「随分と器用になったな。」
カイルは護符を受け取り、しばらくじっとそれを見つめた。
「昔は不器用で、糸を絡ませて泣いてたお前が、こんなものを作れるようになるなんてな。」
「そんな昔のこと、わざわざ思い出さなくていいでしょ!」
リーナはぷっと頬を膨らませたが、どこか楽しそうでもあった。
「ははは、悪い悪い。でも、本当にすごいよ。ありがとうな。」
カイルはそう言って護符を首にかけた。
その仕草には、まるで宝物を扱うかのような慎重さがあった。
「これで、どこへ行っても私たちは一緒だね。」
リーナはふと真剣な顔になり、カイルを見上げて言った。その言葉に、ほんの少しだけ儚げな響きがあった。
「リーナ、大丈夫だよ。」
カイルは彼女の頭に手を置き、優しく撫でた。
「俺はそんな遠くには行かないし、たとえどこにいても、ちゃんと帰ってくるさ。」
「本当に?約束だよ。」
リーナは彼の手を掴み、力強く言った。
「もちろんだ。」カイルは微笑みながら頷いた。
「お前との約束を破るほど、不誠実な男じゃないさ。」
その言葉を聞いて、リーナはようやく安心したように微笑みを返した。しかし、彼女の胸の奥には、まだ言葉にできない不安が潜んでいた。
「それにしても、この護符、本当にいいな。」
カイルは改めて護符を見ながら言った。
「お前の気持ちがちゃんと込められてるのが分かる。これがあれば、どんな場所でもお前を思い出せるよ。」
「そ、そんなこと言わなくてもいいのに…」
リーナは顔を赤らめ、慌てて視線をそらした。
カイルはそんな彼女の様子を見て、声を立てて笑った。
「照れるなよ、リーナ。本当に感謝してるんだ。」
二人はその後もオークの木の下で他愛もない話を続けた。笑い声が秋の風に乗り、草原の彼方へと消えていく。けれど、その笑顔の裏に潜む不安は、どちらも口に出せずにいた。
それは、平穏な日々が終わりを告げる前の、最後の静けさだった