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政略結婚のはずですが

作者: ユタニ



「安心したまえ、これは政略結婚だ」


何とか見繕った、よく言えば清楚、悪く言えば質素なドレスに身を包み、お嫁入りした子爵家のお屋敷の夫婦の寝室で、夫となるケント・ルード子爵は冷たい目で私に言った。


さらさらストレートの銀髪にアイスブルーの瞳、背はすらりと高く、足も長い。鍛えられた体、という訳ではないが均整の取れた体のライン。美貌の子爵様だ。


「心得ております。子爵様」

私は淡々と返す。

そう、これは歴とした政略結婚。

安心したまえ、の真意は不明だが、政略的なことは百も承知だ。


ルード子爵様と私は、子供の頃からの婚約関係だ。

財政的に苦しい我が伯爵家を、ルード家が金銭的に援助する代わりに、当時6才の私と、ルード家嫡男、10才のケント・ルード様との婚約は結ばれた。


我が家は、歴史ある格式だけは高い伯爵家で、ルード家は商家から身を興した新興貴族。

私の母は、この婚約をいつも嘆いていた。

そんな、純然たる政略結婚。


それでも、6才で始めたルード子爵様との交流は最初は温かなものだったと記憶している。

ルード子爵様は、私に対してとても優しくて、蕩けるように笑ってくれていたのだ。でも交流開始1年後くらいから、急によそよそしくなり、私を見る目は冷たくなった。


まあ、我が家に来る度に、母や使用人達から蔑まれていたので当然か。


私としては、子供ながらにルード子爵様はカッコいいと思っていたし、婚約や結婚についてピンとはきてなかったが、優しい兄が出来たみたいでそれなりに喜んではいたのだけれど。


もう爵位を返上するしかないのではないか、というのっぴきならない所までいっていた我が伯爵家の財政は、ルード子爵家の援助もあり、今は貧乏だけど何とかしばらくは潰れはしないな、という所まで回復している。

曾祖父と祖父はかなりボンクラだったらしいが、幸い父は無能な人ではないので、後は多分、何とかなるだろう。

父の後を継ぐ私の弟も、まあまあ出来る子だし。


そうして、17才になった私は本日、爵位を継いで今や子爵様となったケント・ルード子爵様にお嫁入りをした。

私は子供の頃から、大人びた、というか、ませた、というか、すれた、というか、淡々とした子供だったので、この結婚に抵抗はない。


ルード子爵様とはよそよそしくなってからも、細々と手紙のやり取りは続けていたし、誕生日には毎年プレゼントも届いていた。

真面目な方なのだ、政略的な結婚の相手の性質としては十分だし、長年の手紙のやり取りで私はルード子爵様に親しみはある。ほのかな愛情もあると思う。


情熱的な母とは違い、愛だ、恋だ、には疎遠だった私にとって、今やルード子爵様は家族以外では一番親しみのある男性となっている。

なので、私は結婚するのがルード子爵様でほっとしているのだ。



「子爵様という、他人行儀な呼び方はやめたまえ。ケント、と」

一瞬、ほんの一瞬、アイスブルーの瞳に熱がやどった気がしたが、それはすぐに消えた。


「承知いたしました、ケント様」

「よろしい、これにサインを」

ケント様が、婚姻証明書を差し出される。

既にケント様はサイン済みだ。私はさらさらとサインした。


私がサインを終えた婚姻証明書を、ケント様はさっと取り上げると、それをぎゅっと強く握りしめた。


皺がよってしまうんじゃないかな、まあ、皺がよってても受付はしてくれるか。

婚姻証明書を握りしめるケント様の顔は蒼白で、眉を寄せ、唇がぎゅっと結ばれて、激しい感情が渦巻いているように見える。


どうやら、この結婚に安心し、満足しているのは私だけのようだ。

ケント様からすると、私の実家との結びつきの為に仕方なくする結婚なのだろう。


よそよそしくなってからの10年間でケント様に会ったのはほんの数回だけ、儀礼的な顔合わせだけだった。

その間に、ケント様に真に愛する方ができていたとしても何ら不思議はない。


むしろ、見目もよく、事業を次々に成功させているケント様は社交界では中々人気があると聞く。

私は、ケント様という婚約者がいるのをいい事に社交の場にはほとんど顔を出さなかったが、噂くらいは聞いている。


格式張った伯爵家の平凡な容姿で無愛想で眼鏡な私なんかよりも、ずっと美しく愛嬌のある娘達とたくさんお近づきになっているだろうし、きっと愛だの恋だのあるのだ。


ひょっとしたら、冒頭の、“安心したまえ”は恋人に向けたものだったのだろうか?

この部屋には、私とケント様しかいないが、彼の恋人は彼の心の中に居るに違いない。


人生で初めて、これが失恋か?という胸の痛みを感じる私だが、すぐに気を取り直して、ケント様の気持ちを落ち着かせてあげようと口を開く。


「ケント様、ご心配なさらずとも、出しゃばるつもりはありません」

「どういうことだ?」

「私はお飾りの妻で充分です」

私の言葉にケント様の顔はますます険しくなる。


「エリザベス嬢、いや、これからはあなたを、エリーと呼ぶ。エリー、あなたは私の正式な妻となる。私はあなたに常識的な愛を注ぐつもりだ。お飾りになぞ、するわけがない」


真面目なケント様は、お飾りの妻、という私の言葉の裏の意味、「恋人を持っていただいても構いません」を正確に掴み、怒っているようだ。


しまったな、確かに結婚初日にそんな提案を言外にとはいえするのはよくなかった。

もう少し、時が経ち、夫婦の関係が冷めきってから徐々に匂わせていくべきだった。


「申し訳ございません」

「いや、あなたが戸惑うのは無理もない。あなたも私には常識的な愛を注ぐようにしたまえ」

「分かりました」

間髪入れずにそう答えると、ケント様は目を見開き、顔を伏せた。


「ケント様?」

「何でもない」

ケント様は卓の上にあったベルを鳴らす。

すぐによく訓練された執事が音もなくやって来た。

「これを、神殿へ」

ケント様がサインしたばかりの婚姻証明書を執事に渡し、執事はこくり、と頷くとまた音もなく部屋を出ていった。



「エリー、座りたまえ」

「はい」

勧められるままに私はソファに座る。


「…………」

流れる無言の時間。


「…………」


「あの、ケント様、この時間は一体?」

「婚姻証明書がきちんと受付されるまで待った方がいいだろう?」

「えっ?でも、受付には数日かかりますよ」

「数日も待てない。あらかじめ急ぎで処理するように手配はしてある。我が家の一番速い馬で駆けるし、半時はかからないはずだ」


半時?

通常なら数日かかる処理を、半時で?

何のためにだろうか?

ひょっとすると、ケント様は、せっかちな一面をお持ちなのだろうか。


そうかもしれない、商家から身を興したルード子爵家だ、商いは、時としてタイミングや迅速性が求められる。そういった習性が身に付かれているのだろう。

思えば、やり取りしていたお手紙では、事業の相談も多く、返事が早めに欲しい旨が示してあったりもした。


私はケント様の一面を深く心に刻む。

政略結婚の妻として、きちんと立ち回るためには大事なことだ。


「…………」


再び流れる無言の時間。


ここでふと、私は今晩の事が気になってケント様に聞いた。


「初夜は行いますでしょうか?」

そう、今晩は初夜だ。

閨の教育も受けてきたし、心構えはしてきたが、私達は政略結婚、ケント様には恋人も居るようであるし白い結婚にする可能性はある。


「エリー、その選択権はあなたにはない」

ケント様が即答する。


つまり、行わないという事だろう。

納得して私は頷く。


「分かりました。では、私は部屋に下がらせていただいてもよろしいでしょうか?」

ここは、夫婦の寝室。

白い結婚にするのであれば、長居は無用だ。侍女達に変な疑いをかけられる可能性もある。


「あなたは初夜の支度をする必要はない。そのままで充分、綺麗だ」

これにも即答されるケント様。


「あ、そうでは…………いえ、承知いたしました」

私は、しどろもどろで返事をした。


答えながら、心の中で私は頭を抱える。

なんという事だ、私の馬鹿。

私室に下がろうとしたのは、初夜の支度をしにいくため、とケント様に伝わってしまったようだ。


綺麗だ、などと、気まで使ってくれている。

今、ケント様はきっと、どのようにして私との初夜を回避するのか考えているに違いない。


完全にしくじった。

家族以外で、一番近しいと感じているケント様に早くも多大な心労をかけている。


誤解を解いた方がいいだろうか?

と迷うが、ここで、そんなつもりはなかったと言った所で、誰が信じるというのだろう。


私は大人しく、婚姻証明書の知らせを待つことにした。

それが来れば、「疲れているだろうから、今日は休みたまえ」というケント様の一言で無事に初夜の回避は出来るだろう。





半時が経ち、


控えめなノックと共に、執事が顔を出す。

髪がほんの少し乱れていて、とても急いでくれたようだ。


「旦那様、無事に神殿にて受理が終わりました」

「ご苦労、下がっていい」

ケント様の言葉に、執事はすぐに下がる。


「エリー」

執事が下がると、ケント様が熱っぽく私の名前を呼び、適度な距離のあったその座る位置をぐっと詰めてきた。


するり、と片手が私の腰に回される。

男性にここまで接近された事はない、いくら家族以外では一番親しみのあるケント様とはいっても、緊張はする。私の身はびくっと強ばった。


「エリー、これで、私のものだ」

身を固くする私を宥めるように、腰を抱いた手とは反対の手でケント様は私の頭をとても優しく撫でる。


「あの、ケント様?」

「エリー、あなたには常識的な愛を注ぐ。だからあなたも、そうして欲しいと言っただろう」

悩ましげな表情で、熱い吐息とともにケント様が囁く。

そして、私の眼鏡がそっと外される。


あれ?

なんだ、これは?


びっくり仰天している私にケント様は優しくキスをされた。


ええ!?


驚いている間にもキスは続く。

嫌ではない、不快でもない、何といっても、ケント様は家族以外では一番親しみを感じている男性なのだ。

初夜の相手がケント様で本当に良かった、と思っていた方なのだ。

私は、ただ、ただ、驚く。


えええ!?


「エリー、口を開けて?」

壮絶に色っぽい声で囁くケント様。


ええええ!?


びっくりしながらも、色気に押されて私はうっすらと唇を開く。



キスが深くなり、そうこうする内に、雪崩れるように、なし崩し的に、ケント様は私の乙女を手に入れた。












***



さて、常識的な愛とはいかに?



深夜のベッドで1人、私は考え込む。

夕方からの、人生初の行為に疲れ果てた私は早々にうとうとと眠り、目覚めると深夜、ケント様の腕の中だったのだ。


疲れ果てて、と言ったけれど、ケント様は私の事を、それはそれは優しく大切にしてくれたので、疲れたのはケント様のせいではない。


疲れてしまったのは、心構えはしていたものの、いざするとなると、緊張と不安に押し潰されそうになり、そこに初めて経験するめくるめく、アレヤコレヤが重なって、精神的な負担が大きかったせいだ。


私はケント様の腕をどけて半身を起こし、ケント様がサイドテーブルにそっと置いてくれた眼鏡をかけて、隣で眠るケント様を見てみる。


輝く銀髪、きりっと上がった眉に長い睫毛、すっと通った鼻筋、少し線の細さが感じられる輪郭。

美しい寝顔だ。

薄茶色の髪に三白眼に眼鏡の私なんかより、よっぽど美人だ。


この美人さんが言う、常識的な愛、とはいかに?


「安心したまえ、これは政略結婚だ」からの、「常識的な愛を注ぐ」


ふむ、こうして並べて一考してみると、やはり冒頭の“安心したまえ”は、心の中の恋人に向けたものではなく、私に向けたものなのかもしれない。


「これは、歴とした政略結婚であるから、それ相応のきちんとした扱いをしよう、安心したまえ」

という所か。

私の事を、“正式な妻”とも呼んでいたし、こう解釈するのが妥当だろう。

そうなると、私はケント様に正式な妻として扱われている、ように見える必要がある。

対外的には仲の良い夫婦をアピールした方がよいのだろうか。

この点については、明日、ケント様に確認しよう。


そして、「常識的な愛を注ぐ」

つまりは、正式な貴族の妻として、ケント様として最低限の扱いをするという事だろう。

きっと真面目なケント様のことだ、初夜は夫婦の義務であったのだ。


無我夢中の中、愛しげに名前を呼ばれ、切羽詰まった顔で見つめられ、ずいぶんドキドキしてしまったので、危ない所だった。


私はもうすぐで、ケント様にあっさり恋に落ちてしまう所だったのだ、何せ、ケント様は家族以外では一番親しみのある男性、恋に落ちる素地は出来ているのだから。


本当に危なかった。

これは、義務なのだから、浮わついてはいけない。

暗闇の中、私はぎゅっと拳を握る。


そうなると、“エリー”と愛称で呼ぶのもケント様の中では、常識的な愛の内なのだろう。

時々向けられる、熱っぽい瞳も、常識的な愛?

あの瞳、ドキドキしてしまうので、あれが常識的な愛の範疇であれば、この先困るかもしれない。


ううむ、困るな……。

そして、私が注ぐべき、常識的な愛についても考えなくてはいけない。


常識的、常識的、常識的?



私は明け方近くまで、常識的な愛、について考えて、そこから再び睡魔におそわれ、ケント様から人1人分の距離を取って眠った。






***


「おはよう、エリー」

次に目を開けると、至近距離で蕩けるような笑顔のケント様が、片ひじをついて私を眺めていた。

もう片方の手は、しっかりと私の体に回されている。


あれ?

ちゃんと、人1人分開けてたのにな。


「おはようございます、ケント様」

「体は平気かい?中々起きないから、昨晩は無理をさせたのではと、少し心配になっていた所だ」

ケント様は私の額に、ちゅっとキスをする。


おや?

あまりに甘い朝に、私は戸惑う。


「平気です」

「良かった。すまなかった。エリーを名実共に手に入れておかないと気が狂いそうだったんだ。加えて、あなたが白い結婚を持ち出す事がないようにしておかなければ、とも思った」


「白い結婚を持ち出す?」

「ああ、婚姻後、2年経って白い結婚を申し立てて、それが証明されれば、離縁が成立してしまう」


なるほど、せっかく政略結婚したのに、私が白い結婚を申し立て、ケント様に恋人がいるのをいいことに慰謝料まで要求する可能性は充分にある。

商人気質のケント様としては、もちろんリスクは減らしておきたい所だろう。


私が神妙な顔をしていると、ケント様は蕩ける笑顔を引っ込めた。

体に回されていた腕も、すっと、どかされる。


「ダメだな、やっとエリーを手に入れて、舞い上がっているみたいだ、喋らなくていい事まで喋ってしまったね。朝食にしよう。昨夜は私の都合で夕食を食べる暇もなかったからね」


ケント様が、ベルを鳴らし使用人達に朝食の準備を伝えた。



すぐに朝食が用意され、身支度をしてから寝室にていただく。


「エリー、あなたが私に注ぐ愛についてだが、私が出掛ける時と帰ってきた時の、見送りと出迎えを頼みたい」

朝食の席で、ケント様がそう命じられた。


つまり、ケント様は対外的には仲の良い夫婦として振る舞ってほしいという事だ。

妻による見送りと出迎え、使用人達に円満な夫婦生活を送っていると思ってもらうにはいい方法だ、さすがケント様。

急な客人と帰宅しても、妻の出迎えがあれば、客人も仲の良い夫婦だと感じるはずだ。


「分かりました」

「…………出来れば、抱擁付きで」

「抱擁ですか?」

「その、軽いものだ。ハグでよいから」

ケント様の目が泳ぐ。


「分かりました」

ハグ付きなら、より一層、仲の良い夫婦が演出出来る。

私の承諾にケント様は、とても嬉しそうに微笑んだ。


政略結婚の夫婦の滑り出しとしては、素晴らしく順風満帆な気がする。

私は平らかな気持ちで朝食を食べだす。


しばらくお互い無言で食べていると、ケント様が今度は言いにくそうに、こう切り出した。


「……夜の営みについてなのだが」

「はい」

「初夜については無理矢理、履行してしまったが、これ以後はあなたの意向に沿いたいと思っている。私達は夫婦であるのだし、もし、もしだが、エリーさえ構わないのであれば、週……いや、月に一度程度なら求めてもよいだろうか?」


ぱちくり、と私は瞬く。

じっくりと、ケント様の言われた事を吟味し、私は納得する。


どうやら、常識的な愛、には正式な妻である私が後継ぎを産む事も含まれているようだ。

わざわざ月に一度だけとは、かなり効率を重視もされている。

私は深く頷いた。


「分かりました。それなら、そのタイミングについては私からお知らせしましょう」

月のものが去ってから一週間後くらいが、身籠るに最適だと聞く。私がお伝えするべきだろう。


「い、嫌ではないのか!?」

私の返事にケント様が大きな声を出して驚く。

顔がほんのり赤く染まってもいる。


ケント様の慌てように、営みのタイミングを女の私から知らせる、というのがよくなかったかもしれない、と私は気付いた。

どうしよう、はしたない女だ、と思われただろうか。

私は焦って弁明しだす。


「さ、昨夜は恥ずかしくはありました。でも、お部屋も暗くしていただきましたし、あまり見ないで欲しい、というお願いも聞いていただけました。くすぐったい所は避けてもらいましたし、ゆっくりもしてくれて、名前もたくさん呼んでくれたし、寝付くまでは髪も撫でてくれて、あの、」

言ってて、かなり恥ずかしくなり、私はかあっと顔が火照った。


子供を為すための行為、と考えていた時は、私からタイミングを伝えるべきだ、と思っていたが、こうして昨夜のアレコレを思い出すと、あの艶かしい行為を自分から誘うなんてよく言えたものだ、と今さらながら、穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。


私はケント様を見ていられなくなって、俯く。


「その、つまり、嫌ではないけど、恥じらいはあります。タ、タイミングはやはり、ケント様から」

我ながら、訳の分からない締めくくりになってしまった。

とにかく、はしたない女ではないのだ。


「…………」


しーん。



あれ?


ケント様から何の反応もないので、そうっと顔を上げると、茹で蛸みたいに真っ赤な顔のケント様がいた。


「………分かった。では、月に一度で」

顔を上げた私と目が合い、ケント様が真っ赤なまま声を絞り出す。


「は、はい」

はしたない女の疑いは晴れただろうか。

私はソワソワしながら残りの朝食を食べた。




朝食を食べ終わると、ケント様が「エリー、この後は屋敷を案内しようと思うのだが」と提案されて、私は承諾して立ち上がる。


そういえば、まだ自分の私室の場所すら知らない。昨日は子爵家に着いてすぐに、この夫婦の寝室に通されたのだ。


私は夫婦の寝室の奥にある扉を見る。

本来なら、夫婦の寝室と繋がっているあの扉の向こうが妻の部屋なのだろう。

でも、私は所詮、政略結婚の相手だ。

きっとあそこは私の部屋ではない。


「あなたの部屋は、あそこではない」

私の視線に気付いたケント様が、ため息と共に言う。そのため息はなぜか切なげだ。


「心得ております」

「おいで、こちらだ」

そこからケント様に案内されたのは、同じ階の1番端に位置する部屋だった。夫婦の寝室からは5つほどの部屋を隔てている。

広くて落ち着いた内装の部屋には、既に私の荷物も運び込まれていた。


「同じ階なのですね」

てっきり、離れにでも案内されると思っていた私は、その意外に近い距離に驚く。


ケント様と恋人の方との逢瀬はどうするのだろうか?

邪魔をするつもりはないけれど、こんなに近いとうっかり、ばったり、なんて事にならないだろうか。


「この距離が、私が何とか許容できるぎりぎりの距離だ」

ケント様は忌々しげに言った。

どうやら、ケント様は嫌々ながらも、私の正式な妻としての立場を最大限配慮してこの近さにしてくれたようだ。


「ご配慮、ありがとうございます。今後の事情によっては部屋の移動も受け入れますので、何かあればお伝えください」

私が淡々と告げるとケント様は「そ、そうか」と顔を緩める。


よかった。

もう少し打ち解けてきたら、ケント様が罪悪感を抱かないような理由をつけて、部屋を離してもらおう、その方がケント様もやりやすいに違いない。


私としては、ケント様には心置きなく愛する人と過ごしてほしい。

何と言ってもケント様は家族以外では一番近しく、親しみのある男性だ。昨夜、優しく肌を合わせた事もあって、その気持ちは大きくなっている。

少し寂しいけれど、ケント様が穏やかに幸せになるのが一番大切なことだ。


その後も、ケント様自ら子爵邸の隅々まで案内してくれた。

「エリーの実家の伯爵家から見れば、かなり狭く感じるかもしれないが」

歩きながらそんな事を言われるケント様。


「いいえ、現実的なちょうどいい広さです。掃除も警備もしやすいですし、調度品も必要ないから経済的です」

つい食いぎみに肯定すると、ケント様が微笑まれた。

それは、昔、婚約者として交流を始めた頃の優しい笑みと同じで私は何だか胸がつまる。


「エリーは変わらないね」

「え?はい」

「昔から、かなり地に足が着いて、しっかりしていた」

「あ、はい」

それは我が家が貧乏だったからだ。

貧乏なのに、伯爵家の体面は気にする必要があったから大変だった。特に母がひどかった時期は母の浪費も重なり、私と父と弟はいつもお金の事を気にしていたのだ。

そりゃ、地に足もつく。


「その分、華やかな事は苦手なのですが」

「それは構わない。あなたはそのまま過ごしてくれたらいい」

「はい」

私はふと、ケント様の恋人は、華やかな方なのかなあ、なんて考える。

考えて…………

また胸がつまったので、それ以上考えるのはやめておいた。


屋敷を一通り案内していただいた後は、使用人一同にも紹介してもらう。


「私の妻、エリザベスだ。心を尽くして仕えるように」

ケント様が重々しく命じ、侍女の方々は口々に「よろしくお願いします、奥様」と言ってきてくれ、その目は何やらキラキラしている。


政略結婚の妻だから、と苛められたりはしなさそうだ、と私はほっとした。





***


ケント様がゆっくり過ごされたのは、結婚の翌日だけで、その次の日からはお忙しくされるようになる。


子爵家当主としてもだが、ケント様は大きな商会を1つと小さな商会を3つ持っていてそれらの代表としても働いているのだ。


ケント様は商会の立ち上げ当時より、お手紙でいろいろ知らせてくれ、それぞれの主要な商品や事業についての相談もしてくれていたので、私も何となく商会での仕事は把握していて、小さな商会の内の1つは、実家の伯爵家も共同事業者になっている。


朝、早速、仕事へと出かけるケント様をお見送りした。


軽いハグ、を心がけて、そっと腕を回す。



…………いかん。


ケント様が固まってしまった。密着し過ぎたようだ。次回はもっと軽くしよう。


「行ってらっしゃいませ」

「あ、ああ、い、行ってくる」


ケント様を扉までお送りしてから振り返ると、侍女達がにこにこしていた。

うむ、仲良さげなアピールとしては上手くいったみたいだ。


ほくほくしていると、執事のバルトさんが「奥様」とやって来る。


「本日、旦那様が仕立屋を屋敷に呼んでおります。お嫌でなければ、ドレスや普段着を数着作られてはいかがかと思うのですが」

「私にですかっ?」

いけない、驚いて大きな声を出してしまった。


「ええ、旦那様は極力奥様は外に出ないでよいように計らう、との事でしたが、ご夫婦揃っての夜会への出席を求められる事もございましょう。サイズの合ったお洋服をあつらえておかれるのがよいと思います」

にっこりするバルトさん。


決して私のドレスや服を、古臭くてボロボロだ、なんて言わないのはさすがだ。


私は花嫁衣装だけは何とか用意したが、貧乏だった実家では、ドレスなんて買う余裕はなく、また、特に必要だとも思わなかったので、家では母の娘時代のものや、祖母のドレスを着回していた。

お嫁入りで持ち込んだのは、その中でもまあまあ見れるものを選んできたのだが、どれも古さと着込まれた感が滲み出ているのは否めない。


「では、子爵様の許可を取ってから」

「奥様、旦那様が仕立屋を呼んだのです。是非、お作りください」

ずずいっとバルトさんが迫ってくる。


なかなかの気迫。

この感じ、お嫌でなければ、と言っていたが、正式な妻としてそれ相応の服をあつらえておかなければならない、という事なのかもしれない。


結婚した以上、夫婦で出席しない訳にはいかない招待もあるだろう。

そんな所へ、私が祖母の古めかしいドレスを引き摺って行くのは、ケント様までも恥ずかしい思いをさせてしまう。


私は腹を決めた。

「分かりました、作りましょう」


そうして私はドレスを2着と、普段着を2着あつらえた。

4着とも流行や年齢に左右されにくい、シックな色合いのベーシックな形にしたので、向こう10年くらい着れるだろう。


何だかどっと疲れて、その日は帰りの遅かったケント様をお迎えも出来ずに眠ってしまった。





翌朝、朝もゆっくり起きてしまった私は、大慌てで支度をして、何とかケント様のお見送りに間に合う。


玄関ホールに滑り込み、昨日の反省を活かして、昨日よりもかるーい抱擁をした。


腕に手を触れる程度の形だけの抱擁をして、ケント様を見上げると、とても不満気だ。

私は、明日からは絶対に寝坊しないぞ、と固く誓う。


「エリー、昨日は疲れが出たと聞いている。今日は無理をしないように」

不満気な様子を引っ込めると、ケント様は心配そうに言った。


「大丈夫です。昨夜はお迎え出来ず、すみません」

「いいんだ、今夜も遅いから気にせずに寝なさい」

「はい」

「それと、抱擁だが、昨日のスタイルで行うように」

「昨日の?……あ、はい」

今日のはよそよそしすぎたようだ。

加減が難しいな、と思いながら私はやり直しの抱擁を行う。


ケント様を見上げると、横を向いて、必死に何かを堪えるようにされている。

やはり密着は嫌なようだ。

明日は周囲からは親密に見えるけど、実際には触らない、みたいな抱擁を目指そう。


「行ってらっしゃいませ」

「あ、ああ、行ってくる」


ケント様を見送ると、本日も寄ってくる執事のバルトさん。


「奥様。本日は午後から旦那様が宝石商を呼んでおりまして、良ければアクセサリー類をオーダーされてはいかがかと思っております」

「私にですかっ?」

ええっ、昨日、ドレスあつらえた所だよ?


「はい、ご無理は決してさせないように、と旦那様より言われておりますので、お疲れが出るようでしたら、日程を改めてもよいかと」


「いえ、日程を改めるほどではありません。大丈夫です。あの、でも昨日ドレスを作ったばかりですよ」

「ドレスに合わせたものを選びましょう」

バルトさんがにっこりして、後ろの侍女達もにっこりする。


あれれ?

私はふと、1つの仮定を考え付いて不安になる。


「バルトさん、私、昨日は10年持たすつもりで奮発してドレスを作ったんです。我ながら中々の額を使ったはずです、そこからのアクセサリーはさすがにお金を使いすぎです。あの、これ、子爵様は本当にお許しいただいてますか?」

私は小声でバルトさんに聞いた。


「もちろん旦那様は納得済みですよ」

「本当に?バルトさんや皆さんで、夫に放って置かれるであろうお飾り妻の私を心配して、いろいろ手配してくれてるんじゃないですか?それなら心配無用、」

「そのような事を一体誰が申したのでしょうか?」

突如としてバルトさんの声が一段階低く太くなり、殺気みたいなものが放たれる。


「えっ」

「奥様がお飾り妻などと言ったのは誰です?」

バルトさんがぐりん、と目を裏返し、ぐるうり、と首を360°回して侍女達を見回す(実際には目は裏返ってないし、首が回ったのは45°くらいだ、バルトさんは物の怪ではない、執事だ。感覚的に、裏返って、360°回ったのだ)。


感覚的には物の怪と化したバルトさんに、真っ青になる侍女達。


ひえっ


「バ、バルトさんっ、違いますっ、誰にも何も言われてません。ほら!私と子爵様は政略結婚なので、政略結婚と言えば、お飾りかなあ、と私が勝手に思っているだけです!」

「左様でございましたか」

バルトさんがにっこりする。裏返った目も戻る。ほっ。


「奥様、出会いは政略的でしたが、旦那様は奥様の事を深く………間違えました、常識的に愛しておられます。ご心配には及びません」

「あ、そうなんですね」


「はい、使用人一同、奥様にお会いしてお仕えするのを楽しみにしていたのです」

「あ、そうなんですね」

さっきのバルトさんが怖すぎたので、全肯定する私。


「ですから、安心してアクセサリーをオーダーしてください」

「あ、そうなんですね、って違います。いやいや、2日連続で大金使うのはやっぱり怖いです。それに私、宝飾品なんて身近ではなかったので選べません。子爵様に適当に選んでもらうように伝えてもらえませんか?子爵様が選んでくれたものなら何でも喜んでつけます」


うん、そうしよう。

ケント様から直接は、仕立屋の事も、宝石商の事も聞いてない。

もちろんケント様に相談はしているだろうけど、昨日も今日も、手配をしてくれたのはバルトさんじゃないかなと思う。

きっと、私の実家のメンツを気にしてくれたのだ。

気持ちは嬉しいけれど、実家のメンツのためだけに子爵家のお金を使うのはしのびない。

きっとケント様なら、政略結婚の相手に相応しい物を選んでくれるだろう。それで十分だ。


「なるほど、旦那様に手づから選んで欲しい、という訳ですね?」

「え?はい、手づから?そんなにお手間はかけなくていいんですよ」

「承知いたしました」

バルトさんはそう言うと、忙しそうに、そしてなぜか嬉しそうにきびきびと去っていった。




そして、午後。


「ただいま、エリー」

ケント様が蕩ける笑顔で帰ってきた。


()()()()()


「ケント様、今夜も遅いはずでは?」

「エリーが、私にアクセサリーを選んで欲しいと言っているんだ、これ以上に優先する事などないよ?」

「えっ」

いやいや、あるよ?


「私が一緒なのは嫌がられるかと思っていたから、嬉しいよ」

とろとろのケント様だ。

色気が駄々漏れだ。


うーん、あれ?


なんだか変だな、と思いながらもご機嫌なケント様と、キラキラ光る石達を眺め、モチーフを決め、ネックレスや指輪、イヤリングやブローチがオーダーされていく。

ケント様は真剣に私の肌や髪の毛との相性を見てくれて、それはとても嬉しく、何やらくすぐったい。


うーん、でも、あれ?



ここで私は、ケント様の常識的な愛、が、まるで溺愛ものの恋愛小説のようだな、と気付く。


ほら、不幸なヒロインが冷血公爵とかと結婚させられて、怖い人なのかなーって思っていると、瞬く間に甘く愛を囁かれ、豪華なドレスにアクセサリーで本来の美しさが引き出されて、お姫様みたいになるやつだ。


私は貧乏だったけど不幸ではなかったし、本来の美しさなんてないから、そもそもヒロイン像からずれてるが、もしや…とちょっとドキドキしてしまう。

落ち着け、落ち着こう。


落ち着け私。

溺愛もので有りがちな、初夜から抱き潰される、とかはなかっただろう?

お姫様抱っこも、何ならエスコートもされていないじゃないか。


膝の上でご飯を食べさせられたりもしていないし、口元に付いたジャムやクリームを親指で拭い、それをペロリと舐められたりもしていない。


まだ3日だし、初期投資的なやつなんじゃないか?


ふむ、初期投資、これはしっくりくる。

今のところ、ケント様が私にかけているのは、優しさとお金だけだ。


つまり、これは政略結婚した妻への初期投資なのだよ、エリザベスくん。


うむ。


「エリー?私と居るのに何を考えているんだい?」

ここでケント様が、妙に凄味のある声で聞いてきた。


「初期投資です。ケント様」

「ふふ、エリーらしいね。その話はまた今度、聞かせてね。今はこのルビーに集中しよう?」

「はい」

初期投資という事なら納得だ。

私はすっきりして、ケント様にアクセサリーを選んでもらった。



この日はケント様と夕食も共にし、夕食後はケント様が部屋まで送ってくれた。


ケント様は、部屋の前で私の薄茶色の髪の毛をひと掬い手にとり、口付ける。

「おやすみ、エリー」

そして、まるで愛しいものかのように、私の名前を呼んで、切なく熱く私を見つめる。


「お、おやすみなさいませ、ケント様」

何だこの色気は、ドキドキするじゃないか。

私は赤くなって、いそいそと部屋へと逃げた。






***


私がケント様と結婚して2週間経った。

ケント様の日々は忙しく、朝早くに出掛けては、夜遅くに帰宅する毎日だ。


朝は、朝食を共にし、ハグでお見送りをしている。

周囲からは親密そうに見えるけど、実は触れてないハグを実践した所、「エリー、愛を注ぐふりは感心しないね」とケント様に怖い笑顔で言われたので、しっかりハグするに戻した。


最近はケント様も私に慣れたようで、たまにそっと抱き返してくれたりする。


日中は刺繍を刺したり、読書をしたりして過ごしていたのだが、すぐに暇になってしまった。

実家の伯爵家にいた頃は、父の領地経営を手伝い、屋敷のお金の管理も行っていたので、刺繍と読書だけでは間が持たないのだ。


本来ならここで子爵夫人として、お茶会で他家のご婦人と交流を深めたり、サロンに顔を出して新しいお友達を作るのだろうが、そういう華やかな事は実家でも一切してこなかったので、いきなりは出来ない。

人には向き不向きがある。


そういうのに向いてるのは、母のような人で私ではない。

でも、ここに母はいないのだから、私が少しずつ頑張らなくてはいけないな、とは思う。


思うけれども、慣れないお茶会は後回しにして、私は、執事のバルトさんにお願いして子爵家の家事を手伝うことにした。

屋敷の家事は夫人が担うお家もあるし、不自然な事ではない。


バルトさんは、「そろそろ奥様からそのような申し出があるかもしれない、と旦那様より言われております。まずは消耗品の帳簿付けからお願いしたいと思っております」と早速取り掛からせてくれた。


手伝いだした初日は使うお金の額が全然違って(子爵家の方が断然多い)戸惑ったが、元々実家でもやってたし少しずつ慣れてきている。


ゆくゆくは、多忙なケント様のお仕事も手伝えたらいいな、と思う。

そうなったら、ケント様の恋人が屋敷にやって来たとしても、ビジネスパートナーとして上手くやっていけるかもしれない。


ケント様は相変わらず優しいけれども、何といっても私達は政略結婚なのだから。


そう、そして、そこだ。

ケント様は優しい。そこが私は気になっている。


朝食の席でケント様は「おはよう、エリー」と蕩ける笑顔優しいし、お見送りの時も「行ってくるね、エリー」と蕩ける笑顔で優しい。


帰宅時の「ただいま、エリー」も蕩ける以下略

たまに早く帰ってきての夕食時も以下略

「今日は何したの?エリー」以下略

「それはよかったね、エリー」以下略

「何か不自由はない?エリー」以下略

「偉いね、エリー」以下略

「おやすみ、エリー」以下略


とにかくずっと、蕩ける笑顔で私の話を優しく聞き、何かある時は、翌日ケント様の命を受けたバルトさんが解決してくれる。


ケント様の、常識的な愛、がやっぱり少し、溺愛ものの小説よりだと思う。


これは……


まさか……


ひょっとすると、ひょっとして、ケント様はロマンス小説を愛読されていて、愛の常識のレベルが溺愛寄りなのだろうか。




…………。


あり得るな。


お手紙のやり取りをしていた私は知っている。

ケント様が、かなりの読書家なのだという事を。


今までのお手紙の中には、たくさんの読んだ本の感想が書かれていた。その中にロマンス小説は一度も登場していなかったが、妙齢の男性であるケント様はそれを書くのが恥ずかしかったから書けなかったのだろう。


なるほど。

きっとそうだ。


ケント様は、男性側からの常識的な愛、とはロマンス小説ばりの甘いものなのだと思っておられるようだ。


ふうむ。

私は顎をなぞる。


ケント様のこの間違いを指摘するべきだろうか?


ふうむ……。


指摘して、ケント様の蕩ける笑顔諸々がなくなるのは、寂しいな………。


というわけで、私は指摘するのは止めることにする。


「行ってくるね、エリー」

なので今日もケント様は蕩ける笑顔で、出かけていかれた。


そして今日は、母より手紙が来た。

午前中にバルトさんと仕事をして、昼食後に母からの手紙をゆっくりと読む。


相変わらず、母はこの結婚を嘆いているようだ。


〈あんな商人風情に、由緒ある伯爵家の一人娘が嫁ぐなんて、あなたが不憫だ〉

〈私が不甲斐ないばかりに、あなたにはお金で買われたような結婚をさせてしまった〉

と、つらつらと長い長い嘆きが書かれた後は、


〈子爵家で苛められていないか〉

〈使用人達に舐められてないか〉

〈あの忌々しい商人の男はあなたを大切にしているのか〉

と私を心配する文言が並ぶ。


要は私を心配はしているのだ。

昔の私であれば、かなり感情的な前半の嘆きの部分ですぐに嫌気がさして、後半は読みもしなかっただろう。


でも今の私はずいぶんと母に歩み寄れるようになっている。

ケント様を貶めているのは腹が立つが、それは私を愛するが故の事なのだ、と今は分かる。


私は母を安心させるために、返事を書く。


〈母上様、ご心配には及びません。ルード子爵家の方々は皆親切で、旦那様は日々、私に愛を注いでくれております〉


愛、の前に、常識的な、という言葉を入れるのは止めておく。

母がいろいろ誤解してはまずい。


母への返事のついでに、父と弟にも短く、元気でやっている、と書いておいた。



さてこの日、ケント様は夕方早々に帰宅され、私はケント様の執務室に呼ばれた。


「いきなり呼んですまないね、エリー。座りなさい」

もちろん蕩ける笑顔のケント様に迎えられ、私は執務室のソファに座る。


そしてケント様がパサリと出してきたのは、とある事業の概要書だった。

「エリーさえ良ければ、この事業を運営してみない?」

「えっ」

私はびっくりして目を見開く。


「家事の手伝いだけでは手持ち無沙汰のようだ、とバルトから聞いているよ」

「ええっ、いや、確かに慣れてはきましたが、私が運営なんて」

「大丈夫だよ。それにこれはそもそも、君の考えた事業だ。中を確認してみて」


「私が?」

不思議に思いながら概要書を手に取って、中身を読む。


それは、乳母の斡旋をする事業だった。

「あっ」


確かに、考えたのは私だ。母から母の友人の孫の良い乳母が見つからない、と聞いて、そういう斡旋があればいいな、と思い、ケント様へのお手紙にも書いた。


「信頼出来る乳母の集め方や、乳母からも紹介先の評価をしてもらうのも、概ねエリーの考えた通りになっている」

ざっと読むと、確かに私が提案した通りだ。

概要書には現在の収益についても書かれていて、きちんと黒字で堅実な数字を出していた。


「そして、新興貴族のルード子爵家で乳母を紹介してもあまり信用がないからね。お義父上の許可を取って伯爵家の名前を全面に出させてもらっている事業なんだ」

末尾の家門の名前の使用を許可する契約書の写しには、しっかりと父の署名が入っていた。

そして、そこにはその対価として、収益の一定割合を私に渡すことが書かれている。


「えっ、何ですかこれ」

「君の口座が作られていて、きちんとお金も入っている。お義父上がそれを望まれたんだ。そんなにすごい金額ではないのだけれど」


「………」


「エリー?」

「実家への援助もいただいているのに、アイデアを出したとはいえ、収益をいただくのは」

「家門の信用があって成功したのだから、伯爵家の名前なくしては出来なかった事業だよ。エリーにはこれ以外にもいろいろ商品や宣伝の仕方のアイデアをもらっている。女性向けのものでは特にね。手紙でいろいろ教えてくれたよね?」


「それは、母から聞いた噂なんかを元に、私なりの意見をまとめただけで、私じゃなくて母です」

「お義母上がするたくさんの話の中から、必要な情報を掴み取ったのは君だよ」


ケント様がここで私の手を取って、そっと包み込む。


「大丈夫、エリー、君なら出来るよ。最初は私も手伝うから心配しないで」


「…………」

私は一瞬、言葉を失った。


自分の考えた事が、事業として採用されていて、それなりに上手くいってるのはもちろん嬉しかったが、それよりも、私のアイデアや考え方をケント様に認めてもらえてもらえているのが嬉しかった。


おまけに、任せようとまでしてくれるなんて、

〈父の領地経営を手伝うのは楽しいです、ケント様のように事業や商品を手掛けるのも楽しいのでしょうね〉とケント様へのお手紙に書いたのを覚えていてくれたに違いなかった。


何だこれは、愛されているのか?

まさか、私はケント様に愛されているのか!?

と、動転しそうになった私は、すんでのところで気が付く。



あ、これ、ビジネスパートナーだと。


ケント様は清く正しく、私をビジネスパートナーとして育ててくれようとしているのだ。

来るべき恋人来襲の時に、私が肩身の狭い思いをしないように。

本当にどこまでも計画的で頼れる人だ。


「分かりました。ビジネスパートナーという事ですね!頑張ります!」

私は必要以上に力強く答える。

ケント様にビジネスパートナーとして扱われていることは、喜ばしいことのはずなのに、なぜか胸がつまったからだ。


でも、私のこの返答にケント様は傷ついた顔をした。


「エリー………私は君を打算的に愛している訳ではないよ?」

消え入りそうな声のケント様。


「あ、あの?」

「私はエリーに、そのままの君で、妻でいてほしいだけだ。誤解はしないで」

苦しそうにそう言うと、ケント様は私を置いて執務室から出ていってしまった。









***


私がケント様に、ビジネスパートナー、と言って、傷付けてしまってから3日経つ。

あれからケント様は屋敷に帰ってきていない。


どうしよう。

私はぐるぐると悩んでいる。


思えば、ケント様は最初から私に真っ正面から向き合ってくれていたのだ。


「安心したまえ、これは政略結婚だ」の意味も今なら分かる。

あれはきっと、「これは政略結婚だ、だが、私達は正式な夫婦になれる。安心したまえ」だったのだ。


政略結婚だけれども、きちんと愛を注ぎ合う事で、正式な夫婦になろう、とケント様は言いたかったに違いないのだ。


だから自分も「常識的な愛を注ぐ」と言い、私にもそれを求めた。

せっかくの縁で結ばれたのだし、夫婦2人で良い関係を築いていこう、そうケント様は思っていたのだろう。


私の邪推していた“恋人”も、きっと存在などしていないのだ。

私は最低だ、真面目で真摯なケント様を踏みにじっていたのだ。


ぐるぐると考えては、時々じんわりと涙が滲み、バルトさんが「旦那様と何かありましたか?」と気を遣ってくれる。


ケント様からバルトさんには連絡が入っていて、ケント様は数日の間は商会の仮眠室で寝泊まりされるつもりらしい。


「無理にお仕事されなくてもよろしいですよ」とバルトさんは言ってくれたが、私室に居ても、ぐるぐる考えてしまうだけなので、私は今日も朝から帳簿をつけている。


「ハーブティーでもお持ちしますね」

私の暗い様子にバルトさんはそう言うと、お茶を淹れに席を立った。


執務室に取り残された私は、ふとまだ振り分けられていない手紙の束に気付く。

いつもはバルトさんが、さっさとやってくれているものだ。


気を遣わせてしまったし、ここは私が、

と思って私は手紙を振り分けていく。


ほとんどが、ケント様のお仕事関係のお手紙だ。たまに私宛の家族や少ない友人からのもの。

使用人宛のものもある。

使用人宛の手紙の処理は不明なので、とりあえず私はケント様宛、私宛、使用人宛、で分ける。


ぱらり、ぱらり、と順調に振り分けていた終盤、ぴたっと私の手が止まる。


それは、花模様が透かしてある淡い水色の封筒で、宛名には女性の筆跡で〈愛しいケントへ〉とあった。


私の背筋がひんやりする。


「…………」

呆然と宛名を見て、裏返してみると、差出人の名前はなかった。


これは、恋人様?


やっぱりいたんだ。


頭をガンと打たれたような気分だった。

裏切られた、と思い、馬鹿、何を思っているんだ、と呆れる。


「やっぱり、恋人いたんだぁ」

私はことさらに軽く呟いた。


いるよね。

そらそうだ、あんなに素敵な方なのだもの。


ケント様は、一見、冷たくお堅そうだけど、細やかで優しい方だ。

婚約時代のお手紙も、事業の相談や報告の中に紛れて、私への気遣いがあったし、本の感想なんてとてもプライベートな事を書いてくれて、親密さ溢れるものだったもの。

きっと、特別な方と特別な関係を築いていける方なのだ。


私はしばらくぼんやりと、水色の封筒を眺める。

じわ、と涙が滲みそうになった。


いかん、泣いてどうする。

私はどうもケント様に、淡い恋心的なやつを抱いているようだ。政略結婚の妻、失格だ。


ぐいっと目を拭い、気を取り直す。

そして、私はこの恋人様の手紙にバルトさんが困るかもしれないな、と考え付く。

いつもの事なのかもしれないが、執事のバルトさんとしては、結婚した主人の恋人からの手紙なんて渡しにくいだろう。


それにひょっとしたら、ケント様はバルトさんから小言くらいは言われるのかもしれない。

なんだか、気の毒だ。政略結婚はケント様にはどうしようもなかっただろうに。


よし!

この恋人様のお手紙、私がケント様の私室にお運びしよう。


私はそう決意する。

そうすることで、私のケント様へのこの淡い想いも絶ち切れる気がする。


私はこそこそと執務室を出て、ケント様の私室へと向かった。


ケント様の私室は夫婦の寝室のお隣、本来の妻の部屋とは反対側のお部屋だ。


鍵はかかっていなかった。

私は不思議にドキドキしながらケント様の私室に入る。


中に入るとケント様の雰囲気が濃い。

そこかしこにケント様の気配があって、そわそわしてしまう。

目移りしそうになるのを我慢して、奥の書き物机を目指した。

手紙は机の真ん中に置いておけば絶対に気付くだろう、そう思ってそこに手紙を置いた私は、机の横に、棚に少し隠れるようにしてある扉を見つけた。


何だろう?


位置的に浴室ではない。


普段の私ならその扉を開けて足を踏み入れたりはしなかっただろう。

でも、この時の私は、水色の封筒と〈愛しいケントへ〉に動揺していて冷静ではなかった。

私はその扉を開けた。



そこは小さな部屋だった。

本棚と机があるだけの隠れ書斎のような、極めて個人的な部屋。


読書をする部屋なのかな、なんて考え方ながら一歩進んで、私は息を飲む。

部屋に入って右手前の壁に女性の絵がたくさん飾ってあったのだ。


えっ…………


掛かっている絵は、どれもスケッチブックに走り書きされただけのもので、黒炭で女性の横顔や笑顔、ふとした瞬間の様子が切り取られ、色付けはされていないものだった。


女性は1枚の紙に数カットずつ描かれていて、そういった絵が、全部で8枚、1枚1枚丁寧に額に入れられている。


これは?


見てはいけない、と思いつつも、どうしても抑えられなくて近付いてよく眺め、描かれている女性は全て同一人物なのだと気付く。


眼鏡をかけた、少し暗い髪色の、瞳の小さな………


それは、私だった。


「えっ…」

私は声に出して驚く。


「これ、わたし?」

8枚の絵を真剣に観察する。

どう見ても私だ。しかも少し幼い頃から順を追って成長している。


ええっ!?


私は部屋を見回す。

ここはケント様の私室の奥の小部屋で、だからここに入るのはケント様だけで、え?そこに、なぜ私の絵が飾ってあるんだ?


もう一度、絵をじっくり見てみる。

やはり、私だ。一番最近のものらしい絵の中の私が着ているドレスは母の若い頃のもので、襟が昔の流行りの大きいものだ。間違いようもない。


「なんで?」

混乱しながら、部屋にある他のもの達、本棚や机を見回した私は、机の上に文箱とアクセサリーボックスがあるのを認め、そして半開きの文箱から覗いている手紙が目に入った。


その筆跡は私のものだった。


まさか、と思いながらも文箱を開けて中を確認すると、果たして、そこにあったのは全て、私がケント様に差し上げたお手紙だ。

皺がきちんと伸ばされ、文箱の下から古い順番にきちきちと揃えられている。


「これは、一体」

ケント様の極めて私的な部屋が、私で埋め尽くされているように思える。


え?これは、なんだ?


何が何だか分からなくなりながら、私は文箱の横にあったアクセサリーボックスも開けた。

そう、開けてしまった。



そこには、私がこの10年間でケント様にいただいた誕生日プレゼントが入っていた。



「ひっっ」

私は悲鳴をあげた。

手が、かたかたと震え、足の力が抜けそうになる。



「エリー?」

最悪のタイミングで、後ろから私の名前が呼ばれる。


「ひいっ」

振り返った私はケント様を認め、腰を抜かせて尻餅をついてしまった。


「あっ、あの、ご、ごめんなさ」

尻餅をついて、アクセサリーボックスの蓋を抱きしめながら、あわあわと謝る私にケント様が近付く。


「何を謝るの?」

私を見下ろすケント様はとても冷たく淡々としている。初めてケント様を怖いと思った。

「あっ、へっ、た」

ダメだ、呂律が回らない。


「まさかエリーが私の部屋に入るなんてね、私に興味なんてないだろうと、油断していた」


「ごっ、ごめ、なさ」

何ということをしてしまったんだろう、と物凄い後悔が私を襲う。

ケント様を深く傷付けてしまった。

それも、何度も、何度もだ。

ケント様は家族以外では一番親しみのある男性で優しい私の夫なのに。


「部屋に入った事を怒ってると思ってるの?怒ってないよ、謝らなくていいんだよ」

「ちが、」

深い後悔と絶望で呼吸が浅くなり、体がガクガクして上手くしゃべれない。目尻にはじんわりと涙が滲んだ。


「エリー」

私の涙を見て、ケント様の声に熱が戻る。


「エリー、ダメだ、お願いだ、私を嫌わないで、私に怯えないで。そうなったら君に何するか分からない。ここに閉じ込めて鎖を付けて、君が私しか見なくなるまで責め立てる」


ケント様が膝をついて、私の上に被さるような姿勢になった。

震える手で私の顔に触れようとして、でもその手をぐっと握りしめて止めた。


「あの絵は、画家に頼んで描いてもらった君の絵だよ。年に一度、お義父上とお義母上の記念日に思い出のレストランのテラス席で食事をするだろう、その時のエリーのスケッチだ。勝手に描かせたものだけど、屋敷に忍び込んだり、尾行したりはしてない」


はっ、はっ、と私の浅い吐息が部屋に響く。

ケント様の目が私の抱きしめているアクセサリーボックスの蓋に向いた。


「それも驚いたね?エリーは私からの宝飾品を伯爵家出入りの宝石商に売っただろう?そこから子爵家に知らせがあったんだ。

お義母上は一時期かなり散財されていたからね、うちが援助している関係上、念のため宝飾品の売買は子爵家に報告されていたんだよ」


「そんな…」

ぽた、と涙が落ちた。


「エリー、私の愛しい人、初めて会った時から好きなんだ。君のその落ち着いた雰囲気に惹かれたんだよ。私の一生を捧げようと思った。

お義母上は私を気に入らないようだったけど、私の努力で何とか認めてもらうつもりだった。

エリーだけしかいらないんだ、私の唯一の人。

エリーが私を特別視してない事は知っているよ。それでもよかったんだ。君に優しくして、精一杯の愛を囁いて、たまに君がぎこちなく微笑んでくれるだけでよかった。

でもエリーの理想には近付きたくて、好きなタイプを聞いたら君は、愛に溺れる人は嫌いだ、と言った。情熱的な人や、深く愛される事が苦手だとも言ったよね。それからは君に嫌われないように努力した。

エリーが分別のある政略的な結婚を望んでいるなら、私の気持ちは邪魔だから、溢れないようにしなければと、愛するのは常識的な範囲に留めようと」


ぽた、ぽた、と私の涙の落ちる音がする。


「エリー、泣かないで。泣かれると辛いし、泣き止むまで責めてしまいそうで怖い」

「ごめ、なさい」

「謝らないで、エリー、部屋に入ったことは怒ってないよ」


「ちが、うの」

ひっと、しゃくりあげながら私はケント様の腕を掴んだ。

ケント様が、びくっとする。


ちがう、ちがうの。

部屋に入った事を謝りたいんじゃないの。

私はもっとひどい事をあなたにしてたの。

何度も何度も。



「プレゼントうぉ、うってしまってごめんなさいぃ」

嗚咽とともに私は謝った。



最悪だ。

ケント様が誕生日ごとにきちんと贈ってくれていた、髪止めやネックレス、イヤリングやブレスレットを私はほとんど全て、すぐに売っていたのだ。


実家の財政状況は悪かったし、昔の母は自身の浪費に加えて、若い男に貢いだりもしていたので、家計はいつも火の車だった。

母の浪費が少し落ち着いた後も、私とケント様の婚約関係は上手くいっているとは言えないもので、ルード子爵家からの支援も、いつまで続くかは分からい。


弟の学費だけは何とか貯めておかないと、と私は8才頃からケント様からいただいたアクセサリーを売っていた。


ケント様と会うのは、年に数回で伯爵家の応接室でだったので着飾る必要はなく、ましてや私に対してよそよそしいケント様が、私に贈ったプレゼントを気にされるなんて事はないだろう、と思い、プレゼントは数日うっとりと眺めてからお金に替えた。


それが全部バレていたなんて、しかも回収されていたなんて。


毎年、毎年、ケント様はどれ程傷付いていたのだろう。

それなのに、毎年、毎年、私にプレゼントを贈るのは、どれ程辛かっただろう。


「ごべんなさ、い、っく、ひっく……うってて、ごべ、ひっ……いぃ」


「エリー!泣かないで、落ち着いて」

「ううっ、ゲントざまをっ、きずつけてっ、わたしっ」

「エリー、大丈夫だよ。大丈夫だから」

すっかり狼狽えたケント様が、ぎゅっと私を抱きしめる。


「ごべんなざいぃ」

何とか少しでも私の後悔と反省を伝えたくて、私はケント様の肩に手を回して、すがりついて泣いた。

ぶわっとケント様の髪が逆立ったような気がした。ケント様の体が熱い。


振りほどかれるのが嫌で、私は腕に力を込める。熱いケント様を強く掴んだまま私は泣き続けた。








***


「ぐすっ、ぐすっ」

「エリー、何度も言うけど、私はそんなに傷ついてないんだよ。むしろ売られて君の役に立ったのなら嬉しいくらいなんだ。回収したのは、エリーを飾るためだったものが他の者の手に渡るのが許せなかったからで、君に怒ったんじゃない」

ようやっと、涙が落ち着いてきた私にケント様がもう何度目が分からない言葉をかける。


「ずびっ…ちょっと落ち着いてきました」

「よかった、ほら、これで拭きなさい」

私がケント様から離れると、ケント様がハンカチを差し出してくれた。

すがりついて泣いていたので、ケント様のジャケットの肩口はぐずぐずだ。


「服、すみません」

「ああ、気にしないよ。エリーの涙が熱くて、夢みたいだった」

ほう、と色っぽくため息をつくケント様。


そこで私は先ほどのケント様の告白を思い出して、どぎまぎしてきた。


今度こそ、「安心したまえ、これは政略結婚だ」の意味を私は知った。

あれは、特に裏の意味はなかったのだ。

言葉通り「安心したまえ、これは政略結婚だ」だった。


そして、常識的な愛、こちらは最低限の愛ではなく、ケント様的に私が耐えられる程度の愛の量に絞って注ぐ、という意味であったようだ。


つまり、ケント様は、私のことを私が考えていたよりずっと好きでいてくれた………

何だかくすぐったくて、もじもじしてしまう。



「エリーは、私が怖くないの?嫌じゃないの?」

私の様子に気付いたケント様が聞いてくる。


「え?」

「この部屋、エリーへの妄執でいっぱいだよ。勝手に書かせたスケッチに、君からの手紙。本棚の本は全てエリーが薦めてくれた本だよ?」

「あ、へー、そうなんですね」

どうリアクションするのが正解なのかわからなくて、私は淡々と返した。


きゃあっ、嬉しい、は絶対に違うけれど、かと言って、嫌でもない。少しなら嬉しい気もする。


「嫌ではないです」

「でも、深く愛されるのが苦手なんだろう?」

「それなんですけど、好きなタイプなんて、ケント様に聞かれた覚えがないんですが」


「好きなタイプ、と聞くのは恥ずかしかったから、将来、どんな人になりたいのかを聞いたんだよ。7才の君に」

おっと、7才の私に?


「そこは、好きなタイプでよかったのでは……」

7才だよ?


「エリーは、浮わついた所が一切ない女の子だったからそういうのは聞きにくくて。そこが好ましかったのだけど」

はにかむケント様。

いちいち色っぽい。さすが美人さんだ。


私は記憶はを辿ってみる。

「しっかり覚えてはないんですけど、なりたい人を聞かれて、

“愛に溺れる人は嫌いだ”とか、“情熱的な人”や、“深く愛される事”が苦手だとも言ったのは、母の影響だと思います。7才頃なら母が一番ひどい時期なので、私は母のようになりたくなかったから」


私の母は愛に飢えていた人だ。母は傾きつつあった伯爵家の一人娘として、婿をとって跡を継ぐべく厳しく育てられ、しかしどうやら仲が悪かったらしい祖父母からの愛情はなく、愛にしがみつく歪な性格になってしまった。


私の父からの愛が得られないと思い込み、一時期の母はそれはもうひどかった。

伯爵夫人の矜持で一線は越えていなかったようだが、美しい吟遊詩人を屋敷に囲い、年若い恋人を作って遊び歩き、私と弟には溺れるような愛を注ぐ。


この頃の母を、私はとにかく嫌いで、母のような女にはならないぞ、と誓っていたのだ。


その後、父から少しは愛されている事が分かり、母はぱったりと男遊びを止めた。

そういう所は可愛いと思えば、思えなくもない。


現在の母は、ずいぶんと落ち着いているし、私も母という人をある程度は理解し、それなりに好きではある。


「ですから、ケント様が嫌とかはないです。ケント様は、家族以外では一番親しみのある男性です」

ちらりとケント様を見ると、目を見開いて驚きながらも、頬を赤くして喜んでいる。


「それに……」

私は、さらに続けようとして、ちょっと顔が熱くなるのが分かった。

「それに?」

期待に満ちたケント様の声。


「そ、それに、私はたぶん、あなたにちょっと恋をしてます。あの水色の封筒は何ですか?宛名が〈愛しいケントへ〉となってるし、女性の筆跡です」


「ああ、エリー」

私の言葉にうっとりするケント様。

このまま溶けるんじゃないか、というくらいの蕩ける笑顔だ。


「妬いてくれているの?何て可愛いんだろう、これは、たまらないな」

ケント様が優しく私を抱き締めた。熱い吐息が首すじにかかる。


「こんな可愛いエリーを見られるなら、教えたくないよ」

「教えてくれないなら、嫌いになります」

「ふふ、それは阻止しないとね。あの水色の封筒は、デリケートな商談の情報をやり取りする時のものだよ」

「商談…」

つまり仕事の手紙だ。

ほっとした私を見て、ケント様はとても満足そうだ。


「後で中身も見せてあげよう」

「後でですか?」

「今は、この幸せを抱え込むので手一杯だよ。エリーが私に恋してるなんて。キスしてもいい?」

聞きながら、ケント様は、親指で私の唇をなぞる。壮絶に色っぽい。



「い、いいですよ」

色気に押されて答えると、すぐに唇が重ねられた。








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― 新着の感想 ―
[一言] 笑いあり、涙ありで楽しいお話でした
[良い点] ヤバいごく甘々…想像を超えてた!中盤まで(笑)って拝読させて頂いてたのに後半撃沈しました。
[一言] やはり、プレゼントを売った事を 後悔して泣いてしまうエリーに ぐっときますね٩(♡ε♡ )۶ 多分ケントも(笑)二人共お幸せに!
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