ハンカル視点 俯瞰と衝動 前編
時間軸は四年生から六年生にかけて。
ハンカルがファリシュタに対して抱く思いの変化について。
前編が六年までのまとめのようなもの、後編に動きがあります。
今思えば、なぜあんなことを口にしたのかと疑問に思う。
「……ところでディアナ、一つ聞いていいか?」
「ん? なに?」
「去年の魔石装具発表販売会で、ファリシュタが男性から手紙を貰っていただろう? あれ、どうなったんだ?」
「それは……断ったみたいだよ? 夏休みの間に断りの手紙を出したって」
「そうなのか——」
それは六年生の社交パーティの日のことだった。会場に入り社交の場に向かう途中で、俺はディアナにポロッとファリシュタのことを尋ねた。その返事を聞いて胸の中に動揺が広がるのを感じながら、よりによって一番聞いてはいけない相手に聞いてしまったと後悔する。
「なに? 気になるの?」
「あ、いや……もしその人で決まったのなら、今日紹介されるかなと思ってただけだよ」
ディアナに咄嗟に返したその言葉は本心だった。今日まで本当にそうなるだろうと予想していたのだから。しかし今ここでディアナに聞くことではない。案の定、俺の返答にディアナが僅かに眉を寄せ、なにかを言おうと口を開きかけたところで、集まっていた王族の人たちから声が掛かった。
俺は心の中で「助かった……」と呟きながら社交を始める。
今ここでディアナに追求されたら困るからな。
彼女は時に鋭かったり意外と鈍かったりとムラがあるが、ことクラブ内の人間、その中でもファリシュタに関しては喰らいつく圧が違う。それだけ彼女のことを大事に思っているということなのだが、そんなディアナにまだ自分の気持ちを知られるわけにはいかなかった。
しかし……条件がいい相手だったのに、なぜ断ったんだ?
王族との社交をこなしながら、俺はチラリと演劇クラブのブースがある方へ視線を向けた。
一年生の時に出会ってからずっと、ファリシュタは俺の中でとても大事な仲間の一人だった。ラクスと同じで、ディアナの立ち上げた演劇クラブに入り、その活動を支える仲間。出会った初めのころは高位貴族の俺にかなり緊張していたが、ディアナと過ごすうちにいつの間にか明るく前向きになったようで、俺の前でも肩の力を抜けるようになっていった。
俺の方も元平民であるファリシュタが他の貴族に置いていかれまいと努力を重ねる姿や、計算や解除の魔石術が得意で誰にでも優しく接する人柄を見て、人として尊敬の念を抱いていた。
そんな彼女に対しての想いに変化があったのは四年生の時だ。それまで音出し隊で活動していたファリシュタがヤティリの書いた脚本を読み、役者として舞台に立つと言い出した。そして、ディアナに内緒で集まった数人のメンバーの前で、歌を披露したのだ。
あれは……言葉が出なかったな。
まだ習いたてだから下手だけど、と一言断ってから歌い出したファリシュタの声に、俺やそこにいたメンバーはみんな驚きのあまり固まった。初めて聴く歌というものにどんな反応をしていいのかわからない。ただ、それが素晴らしいものであることだけはわかる。しかしそれを表現する術を今の自分たちは持たないのだ。
歌はずっと、禁忌だったから。
後々、ファリシュタの歌声がかなり特別なんだと知って「だからか……」と納得したものの、その時は受けた衝撃からなかなか現実に戻って来られなかった。それは他のメンバーたちも同じだ。
ディアナがしたかったものとは……これなのか。
俺やヤティリから猛反対を受けてもしたいっと言っていたもの、その後ディアナが諦めてもファリシュタが俺たちを説得しようとしたもの。その正体に、正直に体が震えた。
これが歌……か。一度聞いただけでこの衝撃なんだ。これがもし解禁されたら……すごいことになるぞ。
ファリシュタとヤティリは、この歌をディアナには内緒にして劇の最後に入れたいと言った。その場で様々な意見が出されたが、結果的に二つの脚本を用意することを決め、俺たちは公演会に向けて動き出したのだ。
俺がファリシュタのことを自然と目で追うようになったのはそれからだ。
いきなり裏方から表舞台に立つことになった彼女のことが心配になった俺は、それから度々彼女と話をした。
「ファリシュタ、本当に無理はしていないか?」
「大丈夫だよハンカル。ディアナも役者組のみんなも優しく教えてくれるから」
そう答えつつ「ただ台詞を覚えるのが大変だけど」と眉を下げて笑う。
「……本当に、大丈夫なのか?」
「そんなに心配そうな顔しないで。ちょっと不安になっちゃうよ」
「ああ、すまない。そんなつもりじゃないんだ。ただ俺は人の繊細なところに気付けない人間だから」
物心ついた時から常に頭の中で考え事をしてきたからか、自分は目の前にいる人の変化に気付けないことがよくある。俺がわからないだけで、ファリシュタはかなり無理をしているのかもしれない。
そういうことを言うと、彼女は少しはにかみながら笑う。
「ハンカルが、そうやって心配してくれて、嬉しいよ。でも私、ディアナのために頑張ろうって決めたんだ。だから絶対にやり切る」
その顔には目標を達成するんだという強い気持ちが現れていて、俺は少しの間、目が離せなくなった。
「……ファリシュタは、ディアナのためになにかしたいんだな。まあ、前からそうだが」
「ふふ、そうだね。ディアナを見てるとね、彼女のやりたいことを全部叶えてあげたい! って思うんだ。なぜかはよくわからないけど……」
「ああ、それは俺もなんとなくわかる。ディアナが作っていく道をこの目で見たいと思うからな」
「ディアナを研究してるんだもんね、ハンカルは」
「その研究対象が予想のつかない動きをするから大変だけどな」
俺がそう言って笑うと、ファリシュタもあはは、と声を上げる。付き合いが長くなって、ファリシュタは時々こうして屈託なく笑うようになった。貴族らしくないので他のメンバーの前ではしないが、その仕草を俺には見せてくれることを、素直に嬉しいと感じる。
そこから自分の気持ちを自覚するまで、あまり時間は掛からなかった。
気付いたところで……なにも出来ないが。
ディアナのために強くなろうとする彼女のことを好ましいと思っても、それ以上はどうしようもない。劇団を作るつもりのディアナのことをファリシュタは今後も支えようとするだろうし、自分は他国の貴族で、それに関わることは難しい。それに、自分と彼女の間には相当な身分の差があった。
仮に全ての壁を取り去れても、自分の家に彼女を連れてくることが彼女の幸せに繋がるとは思えず、俺は自分の想いに蓋をした。
ファリシュタは、アルタカシークでいい結婚相手を見つけた方が幸せになれるだろう。
そう思い、それからは彼女をそっと見守ることにした。困ってないか、悲しんでないか、無理してないか……さりげなく手助けするくらいならいいだろうと言い訳じみたことを考えながら、声を掛ける。そうやってディアナのために頑張るファリシュタを少しでも支えたかった。
それからしばらく経った五年生の魔石装具発表販売会で、ファリシュタが男性から手紙を貰ったと聞いた時も、「ああ、その時が来たのだな」と自分の中で納得させた。条件さえ合えば、彼女はその人を選ぶだろう。
……ちゃんと真面目な男であればいいが。
特殊貴族の立場は弱い。少々難があっても結婚相手に選ばざるを得ない方が多いのだ。
あまりに最低な条件であったなら一言言った方がいいか? いや、俺が言う前にディアナやザリナが許さないだろうな。しかし……立場の弱いファリシュタにそれを断ることが出来るのだろうか?
後日、練習室でそう考えながら頭を悩ましていると、誰かにじっと見られていることに気づいた。顔を向けると、ラウレッタが眉間に皺を寄せてこちらを凝視している。
「……ラウレッタ? どうかしたか」
「……いえ、なんでもないです」
「その割にすごい顔になっているが」
戸惑いながらそう答えると、ラウレッタは口を引き結ぶ。
「言いたいことがあるなら言ってくれ。俺は気持ちを察するのが苦手なんだ」
「……先輩は、なにもしないんですか?」
「なにがだ?」
「いえ、やっぱりなんでもないです」
ラウレッタはそう言ってプイッと顔を背けて行ってしまった。
彼女の機嫌を損ねることをなにかしたか?
よくわからなくて、俺は彼女の後ろ姿を見ながら首を捻った。
そして今日、ディアナからファリシュタが手紙の相手に断りを入れたと聞いたのだ。条件は良かったのに断った——と。
社交が終わって演劇クラブのブースに戻ると、俺は裏でイリーナの手伝いをしているファリシュタをなんとなく目で追った。それに気付いた彼女がこちらを向いて首を傾げる。
「ん? なにか足りないものがあった? ハンカル」
「いや……大丈夫だ。なんでもない」
「……?」
なぜ申し出を断ったんだ? なんて聞けるわけがない。
そしてその日のうちにラクスの求婚が上手くいったことを知る。前から彼の相談に乗っていた俺は、素直に彼の成就を祝った。
そうだ、彼らのように身分も条件も合っていればなんの問題もない。
自分の場合はそのどちらも合っていなかった。それだけだ。
いつものように物事を俯瞰して捉え、納得させる。だがファリシュタが結婚を選ばなかったことだけが、どうしても頭の中から離れなかった。
ハンカルはファリシュタから向けられる思いに全く気づいていません。
己に向けられた気持ちに鈍いのはディアナといい勝負です。
ちなみにメンバーたちにファリシュタの気持ちは大体バレてます。
次は 俯瞰と衝動 後編、です。