ヤティリ視点 初めての同志
時間軸は夏休みⅢの章「貴族と職人の橋渡し」後。
アルタカシークで本作りを始めたヤティリと商人との出会い。
「フヒ……フヒヒ」
薄暗い部屋の片隅に挟まるようにして、僕は肩を揺らしながら本を読む。静かで、埃っぽい空間には古い紙が放つ独特な匂いが漂っていた。なんとも落ち着くその匂いを、僕は無意識に胸の中に詰め込んで再び文字を追っていく。
作家である叔父の書庫には、大好きな空気が詰まっていた。
しばらくして読んでいた本をパタリと閉じて顔を上げると、いつの間にか本棚に並ぶ背表紙の文字が読めない暗さになっていることに気付いて、僕は慌てて起き上がる。
「まずい、もうこんな時間。早く家に帰らなきゃ……」
今日はシェフルタシュ学院に入るための勉強をするから自室に篭る、と言ってこっそり部屋から抜け出してきたのだ。そこに僕がいないと分かればトレルが大騒ぎする。
あわわ、と慌てて書庫を飛び出して叔父さんの館の裏口の扉を開け、預かっていた鍵で戸締りをし、本館へ向かって走り出したところで、目の前に目尻を吊り上げた母が仁王立ちしている姿が映った。
うひぃ、遅かった……!
「やっぱりここに居たのね。ヤティリ、ここにはもう来ないと約束したでしょう⁉ 一体どういうことなの!」
見慣れた表情にいつものヒステリックな声。それにビクリと衝撃を受けたところで、僕は目を覚ました。
「夢か……」
もぞりと体を起こして周りを見回すと、そこにはジムリア国のものではない寝具とアーチ窓から入ってくる真夏の陽光があり、僕は癖のある黒髪の根元をボリボリと掻く。ここはもうジムリアではない、アルタカシークの王都にある国の館だ。ここにはあの声は届かない。
やっとあの家に帰らなくて良くなったっていうのに、よりによって母上の夢を見るなんて。
そう思いながら僕は首を振る。夢にまで見るということは、それだけ自分にとって自宅の環境が苦痛だったということだ。
「それにしても本当にアルタカシークの夏って暑いね」
窓の外から入ってくる陽の強さを目の端に捉えつつ、僕はベッドから起き上がって大きな伸びをする。一年中雪に覆われているジムリアとはなにもかもが違う。北国出身の自分の体にはまだ慣れないが、窓を開けていれば風は通るし、建物の中は比較的涼しいので思ったよりも快適だ。
なによりあの鬱々とした国で過ごさなくていいというだけで心が軽い。
しかしそんな機嫌の良い時間はすぐに終わってしまった。そのあとの朝食時に、一緒に館に残ってくれたジムリアの成人貴族であるエイナルから商人の訪れの知らせを聞いたのだ。
「うえ、も、もう来るんですか……早いですね」
「ディアナ様の専属商人から紹介を受けたと言って昨日連絡があったんだ。さすが高位貴族……手配も専属の動きも早い。私も一応同席するが、話し合いは君がしてくれ。私にはよくわからんからな」
「うう……はい」
その言葉に僕はしょんぼりと項垂れる。このエイナルはジムリアから同行してきた執務官なのだが、学生の監督をする代表者を補佐する立場なので、あまり責任感がない。ここに僕とともに残ってくれたのも「あの寒い自国に帰りたくないから」という理由だけだ。そのため僕のやりたい本作りについても興味を示さず、問題を起こさなければ自由にしてくれ、というスタンスなのである。
一応自分と同じ中位貴族なのでこちらとしてもあまり気を遣わなくていいのは助かるのだが、大人の貴族として少しくらい協力してくれても良いのではと思う。
はぁ……やだな。あの印刷工房の職人みたいな人だったらどうしよう。
ディアナに提案されてアルタカシークの職人を使って本を作ることを決めたのは自分だが、初めて連れてこられた職人を見て僕は固まってしまった。その人は筋骨隆々の大男で、眼光も鋭く、何度も死地を潜り抜けてきたような恐ろしい顔をしていたのだ。今までたくさん読んだ物語の中に出てくる武人のような人が、いきなり目の前に現れたのである。正直ちょっとチビりそうになった。
そんな人とまともに喋れるはずがない僕は、結局その職人に自分が作りたい本の詳細を何一つ伝えられないまま打ち合わせを終えた。あまりのビビり様に同席したエイナルが「そんなのでどうするんだ? 本なんか作れるのか?」と呆れた顔になっていた。
陽の者に陰の者の気持ちなんてわかんないよ。
この世には普通に人付き合いできる人と、できない人がいる。光と陰、どちらに属するかは生まれた時には決まっている気がする。僕は物心ついた時から陰の者だった。いつでもどこでも陰に隠れていたいし、人の目に晒されたくない。常に端っこにいたいし、誰も自分のことを気にして欲しくない。基本的に放っておいて欲しい。
その生活を実現するために、自分の存在を他人に気づかれないよう気配を消すという技まで身につけたのだ。
そんな陰の者にとって他人と直接打ち合わせをし、商売をするなんてやはり無茶だったのではという思いが、その職人との顔合わせを経て大きくなった。それについてディアナに手紙で相談すると、彼女はすぐにイリーナと僕とのお茶会を決め、そこで僕たちにその解決策を提案してくれた。
それが職人との間に商人を入れたらどうかという案だったのだ。
ディアナの専属商人であるサモルという人にその場で自分の好みは伝えたが、本当に自分に合った人が派遣されるのかは疑問だった。なんせ僕は、筋金入りの陰の者だから。
「ディアナみたいな人だったら良いのにな……」
心の中で屈託なく笑う少女の顔が浮かぶ。彼女は僕の中では例外な人だった。自分にとっては苦手な陽の者だというのに、なぜか彼女に対しては忌避感がない。それはディアナがエルフだと知ったあとも変わらなかった。それ以上に興味深いのだ。
ディアナを見ていると不思議な気分になる。この人なら見たことのない世界を見せてくれるんじゃないか、物語の中のような信じられない景色を見せてくれるんじゃないかと、なぜか心がざわつくのだ。そんなことを思ったのは、初めて叔父さんの小説を読んだ時以来である。
ディアナはエルフだから特別なんじゃない、もし彼女が人間だったとしても、僕は興味を惹かれたんじゃないかな。
陰の者である僕でさえ、彼女には付いていきたいと思う。それくらいの求心力をディアナは持っていた。
そしてその日の午後、僕は紹介された商人に会うべくエイナルと一緒に談話室へと向かった。この館は他国からきた学生が滞在するためのものなので、そもそも平民と会うための部屋が用意されていない。そのため僕たちが普段使う談話室で会うことになったのだ。
夏休みの滞在用に雇ったアルタカシークのトレルが扉を開けると、談話室の中には男性が二人、すでに恭順の礼をしながら待っていた。その二人のうち代表者らしき人の姿を見て、僕は思わず口を引き攣らせる。
ちょ、ちょっと待って、またなの⁉
ギョッとする僕に気づかず、エイナルは彼らの横を通って部屋の奥へと向かい、そこに用意されたヤパンに腰を下ろした。彼の怪訝な視線を受けながら、僕も音を立てずに商人たちの側を横切り、ささっと座る。
テーブルを挟んで向かいに跪く商人にエイナルが姿勢を崩すように言って、ようやく彼らはこちらを向いて挨拶を始めた。
「初めてお目にかかります。アルタカシークの北西街の商人、ラマンと申します。以後お見知り置きを。こちらにいるのは見習いのミタです」
「初めまして、ミタでございます」
助手と言われた方はよく見るとまだ子どもだった。自分より少しだけ年下だろうか。平民は子どものころから働く人も多いと聞くけれど、こうして実際に見習いを見るのは初めてだ。
それからラマンと名乗った商人に視線を移して、僕は少しだけ肩の力を抜く。体つきこそ、この前の印刷職人を思わせる大きさだったが、顔つきはどちらかというと人懐っこい感じの部類に入る。こちらにニコリと笑いかける表情も柔らかで、安心感があった。年も二十歳そこそこくらいに見える。
なにかに似てるな……あ、あれか。
田舎の貴族の間でよく飼われている毛むくじゃらの大型の動物がいるのだが、彼の雰囲気はそれによく似ていた。
ラマンは癖のあるふわふわの白茶色の髪に緑色のクリっとした目をしていて、一見癒し系に見えるのに、顔から下は全く可愛くない男らしい体が生えている。服を着ていてもすぐにわかるのだから、相当鍛えているのだろう。
なんで商人なのにこんなにゴツいの?
エイナルがラマンに今日の打ち合わせについて話している間、僕は彼のことをつい観察する。これはもう小説を書くようになってからの職業病みたいなものだから止められない。
すると自分も疑問に思ったのかエイナルがその質問をしてくれた。
「君は他の商人と違って随分と体が大きいんだな。他に力仕事でもしているのか?」
「ああ、いえ私は元々運び屋として働いていまして、商人として働くようになったのはついこの間からなのです」
太い眉をハの字にしてそう答えたラマンは自分の父親が急に亡くなり、実家の店を継ぐために戻ってきたのだと僕たちに説明する。
運び屋とはその名の通り物を運ぶ仕事をする人たちだ。商人が扱う商品や職人が作った物を指定の場所まで運ぶ。国内を専門にしている人もいれば、他国まで行く人もいるのだという。商人の街であるここアルタカシークにとっては欠かせない職業である。
エイナルは彼の説明に納得し、僕の方を見やった。この商人なら大丈夫か? とその目が言っている。
うう、こっち見ないで。そんなにすぐに判断なんかできないよ。
そう思って目を泳がせていると、ラマンが朗らかな声で僕に問いかけた。
「貴方様が今回本を作って売ろうと考えてらっしゃるヤティリ様でしょうか?」
「う……は、はい。そうです」
ギクリとしてそう答えると、彼は少し視線を下げて僕に改めて挨拶を始める。
「アリム家の商人サモルに紹介されて参りました。ヤティリ様のご要望に応えられるよう誠心誠意努めたいと思っております。もし、対面でのお話が難しいとお思いでしたら、仕草で指示していただけたらと思います」
「え……仕草で?」
「はい。例えばそれで良さそうなら手を膝に一度ポンと置いていただくとか、駄目でしたら膝の上で手を横に振るとか……そのような合図を決めていただければ対応いたします」
その言葉に僕は思わず顔を上げてラマンを見た。彼は視線を下げたまま、僕の様子を窺っている。
あ、僕が萎縮しないように気を遣ってくれてるんだ。
僕は先日サモルに人付き合いが苦手なことを伝え、こんな自分でも一緒に仕事をしてくれる人がいいと要望を出した。目を合わせるのも嫌だというのはディアナから伝わったのかもしれない。
「あ、あの……その、話すことは苦手ですが……目を合わさなければ……大丈夫です、多分」
「ではこのままお話ししても?」
「は、はい……それで……」
「ありがとう存じます。では早速打ち合わせを進めていきましょう」
ラマンはそう言うとメモのような物を出し、僕が作りたい本について質問を始める。真面目ではあるが雰囲気が柔らかいため、僕もそれに答えることができた。その様子を見て、隣にいたエイナルが「大丈夫そうだな」と言って席を立って離れていく。最後まで打ち合わせに参加する気はないらしい。
しばらくすると、ラマンがメモをまとめて笑顔になる。
「お答えくださってありがとう存じます。ヤティリ様の望む本ができるようこれから印刷工房の方へ行って参ります。もしよろしければそこで印刷する原稿を近日中にいただきたいのですが……」
「あ、えと……今ここに持ってきてるので……ここで」
僕はそう言うとわたわたと鞄から「シャハールとマリカ」の脚本を小説風に書き直した物を机の上に出した。その紙の束を見て、ラマンが「おお……」顔を輝かせる。
「あの、少しだけここで読んでもよろしいですか?」
「へ?」
「恥ずかしながら私は小説に目がないのです」
「そ、そうなんですか。意外ですね……」
そう答えている間にラマンは恭しくトレルから原稿を受け取り、その場でいきなりパラパラと原稿を捲り出す。それを驚きながら見ていると、彼の目が爛々としていることに気づいた。どうやら相当な本好きらしい。
うう、まさかこんな目の前で読まれるなんて……!
学院で脚本を読むディアナに対して感じた羞恥心と同じものが自分の体を駆け巡る。「ひょええええっやめてぇぇぇぇ!」と叫ぶが、もちろん声には出せない。
あうあう、と身悶えていると、それに気づいた見習いのミタ少年がラマンの袖を少々強引に引っ張った。
「旦那様っそれくらいにしてください!」
「待ってくれミタ。おお……これは……ほおお……」
ミタに止められてもラマンは相手にせず小説を読み進めていく。「旦那様!」とミタはラマンと僕の顔を交互に見ながら顔を青くするが、彼は止まらない。
あ……あああ……あう……。
やめてと思っても声に出せない僕は、その後彼が小説を読み終えるまでなにも出来ず、結果的に死にかけの萎んだ魔物みたいになった。
ううう……恥ずかし死ねる……なぜこんなことに……。
ぷるぷると震える僕とは対照的に、たっぷり小説を読み切ったラマンはそのでかい図体を揺らして勢いよく恭順の礼をとった。
「申し訳ございません! つい夢中になってしまって!」
「……い、いえ……うう……」
吹けば飛ぶような状態になっている僕とは対照的に、ラマンは謝罪しながらも目を輝かせている。
え、というか……泣いてない?
僕がそれにギョッとしてると、ラマンはグイッと乱暴に目を擦って「感動しました!」と声を震わせる。どうやら「シャハールとマリカ」の物語が彼の心に猛烈に刺さったらしい。それからなんとか目を合わせないように気を遣いながら、彼は小説を賞賛し始めた。
僕と同じように死にかけた顔をしていたミタも、その話を聞いて興味深そうに彼が読んだ原稿を凝視している。
「こんな素晴らしい小説は初めて読みました……! これは、間違いなくこの世に出るために生まれたものです!」
「うへ……そ、そうですか?」
「まさかこのような物語を読めるなんて……俺は今猛烈に感動しています……!」
「あ、圧がすごい……」
かなり彼の心を打ったのはその圧や言葉遣いでよくわかった。まさか平民の彼にこの小説がそんなにウケるとは思わず、僕はただただ圧倒される。
ラマンは僕と違った理由でふるふると震え出すと、いきなり拳を握りしめて頭を下げた。
「ヤティリ様! これからも貴方様の本を私が作ることを許していただけませんか! 私には自分の力で素晴らしい本を世界中に広めたいという野望があります! 貴方様の物語にはその力があります!」
「ふえ……ええ?」
「ヤティリ様の望むことならどんなことも叶えます! ですからこれからも私と一緒に本を作っていただきたい!」
「い、一緒に本を……」
「駄目でしょうか!」
「だ、旦那様、落ち着いてください。ヤティリ様が困っていらっしゃいます!」
頭を下げたままのラマンと慌てるミタに、僕は目を瞬かせる。そんなことを言われるとは思ってもみなかったし、その真っ直ぐな言葉に胸がドキリと音を立てた。
僕の中で、前からずっと思っていたことがある。
昔、叔父さんの書庫で小説を読み漁り、その魅力に取り憑かれてやがて僕は自らペンを取った。小説を、物語を自分でも書いてみたくなったのだ。それからいくつもの作品を作り続けた。
そのうち、長年苦労した叔父さんの小説が爆発的に売れた。その時の叔父さんの嬉しそうな顔を、僕は今でもはっきりと覚えている。
僕も、そうなりたいな。
いつしか叔父さんは僕の目標になっていた。陰の者の僕にとっては大それたことだ。それでも、心の中からその思いを消し去ることはできなかった。
「ぼ、僕の本を、世界中に広めるなんて……できるんですか?」
「できます! いえ、私がやってみせます! 私は運び屋として世界中を旅してきました。世界中に売る販路はこの目で見てきています。決して不可能なことではありません」
そう真剣な顔で言うラマンは興奮していても、目線を決して合わさない。僕が嫌がることを絶対にしないという決意がそこに現れている。
まあ、圧はすごいんだけど。
そんな彼を見て「この人は信用できる」という気持ちが自然と湧いてきた。こういう風に思える人はディアナ以外では初めてだ。
僕と一緒に本を作って、売ってくれる人。僕の嫌がることをしない人。
そんな人と出会えることは、人生に何度もあることじゃない。
僕は少しだけ背筋を伸ばして、口を開く。
「あ、あの……わかりました」
「……え!」
「これからも僕の本を作ってください」
「本当ですか⁉ 私でいいのですか?」
「はい……その、よろしくお願いします」
僕がそう答えると、ラマンはローテーブルに勢いよく額をぶつけながらお礼を言った。それに苦笑しつつ、「勢いが怖い」ということだけはなんとか伝えたのだった。
超陰の者のヤティリにとって商売なんて未知の世界。
その中でサモルが紹介してくれたラマンはピュアで真面目な人でした。
これから彼とともにヤティリの小説は世界へと広がっていきます。
叔父のラティシも出す予定でしたが、彼が出ると話が伸びてしまうので割愛。