コモラ視点 一年目の夏
時間軸は序章の終わりあたり。
クィルガー邸の料理人として働くことになったコモラのある日。
人生は本当にどこでどうなるかわからないものだと、真っ青な夏の空を見てそう思う。
僕はコモラ。ひょんなことから砂漠の王国アルタカシークの、しかも高位貴族の館で料理人として雇われることになった、元冒険者だ。職業柄よく好きな食べ物はなにかと聞かれるが、自分にとっては食べられるものに優劣はない。つまり食べ物は全部好き。というか、食べること自体が好きなのだ。
僕は目の前の井戸から汲んだ水を入れた桶を持ち上げ、ほいほいっと歩いて厨房の中の水瓶に水を足していく。料理人の中で一番下っ端である自分が朝一番にする大事な仕事だ。
こうして住み込みで働くのは本当に久しぶりだなぁ。
ヴァレーリア様と出会う前、サモルの実家の大店で料理人見習いをしていたころや、冒険者になったあとに路銀稼ぎに街の料理店で働いたことはあったが、最近はその機会もなくなっていた。まさか今さらこうして定住して暮らすことになるとは、この前まで思ってもいなかったのだ。
ディアナちゃんと出会ってなにもかも変わっちゃった。
彼女と出会ってからの日々を思い返して僕はふふ、と笑う。自分にとってこの変化は予想外でとても興奮するものだった。子どもが苦手で結婚相手にも恵まれなかったヴァレーリア様がディアナと出会い、彼女を守ろうと動き出した。それから目まぐるしく事態は変わり、気がつけばザガルディからアルタカシークにやってきてクィルガー様の館の料理人として生きることになったのである。
改めて考えてもわけがわからない。だが自分にとっては大きなチャンスだった。
「コモラ、今日の食材が届いたから運んでくれない?」
「あ、おはようございます、ハシル。今運びますね」
厨房の出入り口から顔を覗かせた、茶色の髪に明るい緑の目をした女性にそう答えながらそちらに向かうと、彼女は「もう、私の方が年下なんだから敬語はいらないって言ってるのに」と肩を竦ませる。彼女はこの館の料理長の娘で、同じく料理人として働く同僚だ。彼女はそう言うが、ここでは自分の方が新参者なのですぐに言葉遣いは直らない。
料理人の世界はその国や、働く場所でしきたりが違う。様々な場所で働くうちに、こうして入りたてのころは全ての人に敬語を使っておく方が都合がいいと覚えてしまったのである。いろんなことに器用に対処できない自分なりの処世術だ。
少し離れた使用人棟の裏に積み上げられた食材の入った箱を運びながら、一緒に食材を運ぶハシルに僕は尋ねる。
「ハシル、この野菜は初めて見ました。これはなんですか?」
「カヴァックという果菜よ。硬いから生では食べられないけど、煮たり炒めたりしたら甘味のあるホクホクした食感に変わるの」
「へぇ……! 似たような野菜がザガルディにもありましたけど、こんな紫色のものは初めて見ました!」
「これが来るともうすぐ秋が来るって感じ。あとで下処理の仕方教えるわね」
「はい! お願いします!」
僕は目を輝かせてニンマリと笑う。この街に来て四ヶ月ほどだが、こうして見たことのない食材に出会うことはしょっちゅうある。
さっすが世界の中心にある国だね。集まってくる食材も面白いものばかりだ!
「もう、本当に貴方って嬉しそうにするわね。本当ならこんな下働きするような腕じゃないんでしょう? 今の状況が辛くないの?」
「いえ全然! こうして未知の食材や調理法を知れるなんて僕にとってはご褒美みたいなものですから。毎日が楽しいですよ」
「ああ、確か世界中の食材を調理するのが夢なんだったっけ」
「そうです! 僕の子どものころからの夢なんです。まさかこの歳になってそれが叶えられるなんて思いませんでした!」
「大袈裟よ。アルタカシークは確かに世界中から食材が集まるけど、全部ってわけじゃないんだから」
「それでもザガルディにいたころより多くの食材に出会えてますから」
僕はそう答えて上機嫌で食材を厨房の所定の場所へ置いていき、今日使う予定の野菜たちの下処理を始めた。ここは高位貴族の館なのでやってくる食材は最高級のものが多く、新鮮でどれも美味しそうで、野菜たちを洗いながらお腹が空きそうになる。
平民と違って氷室もあり、料理のレパートリーも増やせるのがなによりも嬉しかった。
クィルガーさんが高位貴族で良かったぁ。姐さん、最高です!
体力のある自分にとって一番下っ端で働くことは特に辛くはない。掃除、道具の整備、食材の下処理くらいならどれだけあっても苦にならない。それより新しいことを知れる方が重要だ。
そうして僕は初めてのカヴァックの調理に興奮しつつ、午前中の仕事をこなした。
サモルが厨房を訪れたのはその日の午後だった。見慣れた琥珀色の目を緩めて、彼はお昼の賄いを食べていた僕の元にやってくる。
「サモル、なんか久しぶりだね。お昼食べる?」
「いやカラバッリ様の館でもらったからいいよ。さっき姐さんに報告してきたとこ」
「そういやクィルガーさんのご両親の館に行ってたんだっけ。上手くいった?」
「ああ。高位貴族相手の商人なんてどこも似たような人たちばかりだからね。でもまあ、ターナ様の目がしっかりしてらっしゃるから、そんなに酷いやつはいなかったよ」
サモルはここの館にくる商人たちの相手をする仕事を始めた。貴族というのは体面を気にするし、流行には敏感だ。そしてその貴族たちを相手に悪どい商売をする商人たちもいる。サモルはそういう人たちの査定を行う仕事を任されたのだが、ここアリム家は厳しい目を持った人たちがいるため、そこまで変な商人はいないようだった。
「でもそれなら、サモルの仕事もすぐなくなっちゃいそうだね」
「うん、だからクィルガーさんからは今後はうちのトカルやトレルたちに俺の知識を教えてやってくれって言われたよ」
「サモルの審美眼のコツを教えるの?」
「そう。そうすれば今後はその人たちが商談に同席すればいいだろ?」
「そうだけど……それじゃあまたサモルのやることがなくなっちゃうじゃない」
「それさっき姐さんにも同じこと言われた。でもまあ、この仕事で結構まとまったお金が入るから、教えることがなくなったら店を持つよ」
「え! 自分のお店持つの? サモル」
「へへ、そう。ついに自分の店だよ、コモラ」
「うわあ! 良かったねぇ! サモルの夢だったもんね。お店持つの」
サモルは大店の息子として生まれてからずっと、世界中のいろんな商品を扱う店を開くという夢を持っていた。冒険者となってからもお店を開くための資金をコツコツ貯めていたのを知っている。
「なんだかアルタカシークにきて僕たちの夢が次々と形になってるね」
「不思議だよなぁ……ほんの数ヶ月前まで考えてもいなかった展開だよ」
「だよねぇ……」
そう言って二人でしみじみとお茶を飲んでいると、厨房の扉からオレンジ色の髪をしたトカルの女性が入ってきた。
「彼女は確かディアナちゃんの筆頭トカルの……」
「イシュラルだね、やあ、どうしたんだい?」
サモルに名前を呼ばれて、イシュラルが緑色の目を瞬いてこちらにやってくる。貴族の使用人たちが厨房にやってくるのは珍しいことではないが、その中でも彼女はかなり頻繁にこちらにやって来るのだ。
「コモラ、ディアナ様がお好きだというお菓子を作れますか?」
「ディアナちゃんの好きなお菓子?」
「……コモラ、何度も言っていますがディアナ『様』です」
「あわ……すみません、以後気をつけます」
僕がそう言って謝ると彼女は少し呆れた顔を見せる。ディアナはここに来てクィルガー様の養子になり、貴族となった。もう僕たちとは身分が違うのだが、どうしてもその呼び方に慣れず、こうしていつも注意される。
僕が怒られてしょんぼりしていると、サモルが口を開いた。
「ディアナちゃ……様が好きなものといえばコモラのジャム入りのクッキーじゃない?」
「ああ、あれかぁ。確かによく食べてくれてたね。それを作るんですか?」
「ディアナ様は先日猛勉強の末、見事学院の試験に合格されました。ヴァレーリア様がそのご褒美になにが欲しいかディアナ様に尋ねられたところ、コモラのお菓子が食べたいと仰ったのです」
「わぁ、そうなんだ。嬉しいな。あ、でも……僕まだここで一人で作っていいとは言われていなくて……」
まだ新参者の自分はこの厨房を勝手に使うことは許されていない。するとそこに話を聞いていたらしいハシルがやってきて、自分が手伝うと言い出した。
「私が一緒なら厨房も使えるし、父さんにも言い易いから」
「いいんですか?」
「コモラの作るものに興味もあるし、いいわよ。でもイシュラルも熱心ねぇ。ディアナ様の学院の準備で、貴女も忙しいんでしょう?」
ハシルが呆れながらそう言うと、イシュラルは真面目な顔をして「主のために働くのはトカルとして当然ですから」と答える。するとそれを聞いたサモルが笑い出した。
「イシュラルはすっかりディアナ様に惚れ込んじゃったみたいだね。一緒に旅をしてきた俺たちには嬉しいことだけど」
この前もディアナの好きな服についてサモルに尋ねていたことを思い出し、僕もくすりと笑う。
「イシュラルはディアナちゃ……様のことが大好きなんだねぇ。どうしてそこまで思えるようになったの?」
「……ディアナ様は我々トカルに対しても気を遣ってくださいますし、それに……とても可愛らしいですから」
最後の一言を小声で呟いて、イシュラルは少し気恥ずかしそうにする。その顔を見たサモルが一瞬固まったように見えたが、そこにハシルの笑い声が響いた。
「はははは、確かにディアナ様はとても可愛らしい方だよね。本当、あんな綺麗な顔をしたお嬢様は見たことないよ。それに私たちの作った料理をたくさん食べてくださるし、言うことないね」
「そうだねぇ、ディアナ様の食べっぷりは僕も大好きだなぁ」
「お嬢様は前からよくお食べに?」
「うん、僕の作ったものを美味しい美味しいって言って、たくさん食べてくれたんだよぉ。あの顔を見てたらいくらでも作ってあげたくなっちゃう」
「美味しそうに食べてくれる人がいるだけで元気でるよねぇ」
「そうそう、料理人冥利に尽きるっていうかぁ」
気持ちがわかってくれたのが嬉しくてハシルとそう言い合っていると、イシュラルが「お二人とも、言葉遣いに気をつけてください」と半眼になる。僕はそこでハシルに対してもいつも通りの口調になっていたことに気付いて「あ、すみません」と口に手を当てた。
ハシルは気にすることなく「その感じでいいよ。こっちも喋りやすいし」と言って僕が食べた賄いの食器を片付け始める。
「ほら、お嬢様のクッキーを作るなら早くしないと。すぐに夕食の仕込みが始まっちゃうよ」
「わわ、はい。今すぐ」
僕は慌てて彼女のあとを追い、ジャムクッキー作りに取り掛かった。
それから彼女と協力しながらクッキーを手早く作っていき、それが出来上がるころには彼女に対する敬語はすっかり取り払われてしまった。それくらい夢中になれたのだ。
「すごい……こんなに早く出来上がるなんて……」
「二人で作ったんだから早く出来て当たり前でしょ」
「いや今までもそんなことは一度も……ハシルってもしかして補助をする天才?」
「ははは、なにそれ。まあ私は料理を開発するより、こうして料理人のフォローをする方が好きだから、他の人より補助が上手いのかもね」
「そんな次元じゃないよ! 僕、ハシルがいたら今までの倍の速度で料理作れちゃうかも……!」
僕が感動して彼女の手を握ると、ハシルは目を瞬いて「大袈裟だよ」と笑う。
「ううん、大袈裟なんかじゃないよ。ハシルは僕の運命の人かもしれない……!」
「へ?」
「ハシル、これからも僕と……」
「おい、うちの娘になにやってんだ」
彼女にこの感動を伝えようとしたところで、料理長がやって来て僕をギロリと睨んだ。それを見てハシルがパッと自分の手を引っこ抜く。
「べ、別になにもしてないわよ。クッキーが上手く焼けたから喜んでただけ。ほら、父さんも味見してみて。ディアナお嬢様が好きなジャムクッキーなんだって」
「む?」
料理長は僕を睨みつけつつ、ハシルに渡されたクッキーを一口齧る。
「……確かにそこらのクッキーとは違うな」
「わ、本当ですか?」
クッキーを食べた料理長の興味はすぐに自分からクッキーへと移ったようだ。それから三人でクッキーについて語り合い、僕はそこで少しだけ料理長に認められた。
その後、そのジャムクッキーを食べたディアナがかなり感動して悶絶していたとイシュラルから聞き、僕はにんまりと笑う。今は下っ端で顔を見に行くことはできないが、いつかまた彼女の綻ぶ顔を直に見られたらと思う。
まずはおかずの一つを任されるようにならないとね。
僕はそう気合を入れて、ハシルとまたクッキー作りに勤しむ。九の月から寮生活となり、家に帰って来れなくなるディアナのために、大量のクッキーを作って欲しいとイシュラルに頼まれたのだ。
「ハシル、もうそろそろ窯の様子を……」
「もう見てきたよ。あと少しでいい温度になる」
「わは、さすが」
「こっち片付けとくね」
「うん、ありがとう」
「コモラ……早く出世してね」
「え?」
クッキー生地の型を抜きながら顔を上げると、ハシルが僕の顔を見て意味ありげに笑う。
「私、父さんを超える人じゃないと嫌だから」
「え……それってどういう……」
僕がそう言うと、彼女はパチリとウインクして洗い場の方へ行ってしまった。
残された僕は彼女の後ろ姿を見つめたまま首を傾げたのだった。
コモラとその結婚相手となるハシルとの馴れ初めと
サモルがイシュラルを意識し出した瞬間のお話でした。
このあとコモラはハシルから猛アタックされて結婚に至りますが
サモルとイシュラルはこのまま焦れったい期間が続きます。