9話
『悲劇の侯爵令嬢、静かに神の元に送られる』
そう大きく見出しが書かれたゴシップ紙を、私は安堵の思いで見つめていた。
逃げ切るための工作は考え得る限り行った。遺書もそうだが、髪をすぐ切って染めたり、早くに家を借りたりしたのも、全て捜索の手から逃れるためだった。
それでも街中で騎士を見ると、上等な身なりの人間を見ると、この人たちは私を捕まえに来た人なのではと不安に駆られていた。しかしこうして侯爵令嬢のセラフィアが死んだことで、私はやっとその不安から解放された。
セラフィアの訃報を伝えるその新聞には、彼女が妹を始めとした家族や婚約者である王太子から蔑ろにされ世を儚み死んでしまったこと、彼女を虐げた人々が辿った末路のこと、国民から厳しい目を向けられる王家のこと、真実から真偽の怪しいことまで、色々と書かれていた。
記事によるとリリアーナが強制労働施設に送られていたり、侯爵家の当主が交代させられていたり、前回と異なる部分が多々あった。
中でも特に王家については前回は私を新たな王太子の婚約者として迎え、表面上は大切に扱っていたためある程度のイメージダウンで済んでいたが、今回は相当槍玉に挙げられているようだった。なにせセラフィアは死んだのだ。死人が前のように己の心を殺して、「婚約者として殿下のお側にいられて、王家の皆さまに大切にしていただけて幸せです」と笑いかけてくれる訳がなかったのだ。
ときおり流れてくる噂から私の思っていた通りに物事は進んでいるだろうと感じていた。しかしこうしてセラフィアの死が確定するまでは、どこか落ち着ききれない気持ちで私は生きていた。
やっとだ。やっと本当の私を、「セラ」を取り戻した。私は目をつぶったまま、大きく息を吐き出した。
自分で築き上げたものを奪われた過去のこと、その先に起こった再び他人に都合のいいように自分を仕立て上げられたこと。色んなことが脳裏に思い出された。感情が荒波のように揺さぶられた。しばらく目を閉じたまま、じっとそれらの心の整理をしたあと、仕上げをするように私はそのゴシップ紙をゴミ箱に捨てた。
そこからしばらくは、ケニーと二人、慎ましやかだが堅実な生活を続けていった。あの頃のような心穏やかな毎日を私は過ごしていた。
代わり映えの少ない日々ではあったが、その中で生まれる小さな変化を私は大切に拾い集めていった。
南のパン屋さんの女将さんは私がベリーとクルミのパンが好きなことをまた覚えてくれた。薬草屋さんの看板猫も少しずつだがまた顔を見せてくれるようになった。八百屋のおじさんも献立の相談に乗ってくれるようになった。
以前と変わってしまったところもあるが、少しずつあの日失ってしまったものを取り戻していった。
そうした日々の中で私は偶然を装ってケニーをある装飾品屋に連れていったりもした。彼の店番の日は2と4の曜日なのは覚えていた。だからもちろん、私はその日を選んだ。
離れて暮らす弟への誕生日プレゼントを真剣に選ぶケニーに、彼は前回と同じく声をかけてくれた。記憶にあるよりは少し距離があるけれど、並んで話す二人の姿を私は眩しく見つめた。この先二人が以前のような仲になるかは分からない。けれど楽しげに話す二人を見ながら、今回もケニーには幸せになってほしいと私は願っていた。
そうしているうちに、私はあの運命の日を迎えた。忘れもしない、冬の薬草の採取が解禁になる今日。お昼の鐘が鳴ってしばらくしてから。商業ギルドの通りを南に下った宿屋の前。
記憶にある過去からは色々なことが変わっている。私のことはもちろんだが、私の周囲もその影響で少しずつ前回とは違っているところがあった。
だから必ずいるという確証はなかった。それでも逸る気持ちを抑えながら、私はその日、その時、その場所へと向かった。
彼が昨日まで隣町の商業ギルドにいたのは、かつて話を聞いたことがあったので知っていた。けれど私が過去より早く彼に会いに行くことで、その先のことが変わってしまうかもしれないと思うと、怖くて会いに行けなかった。
だからずっと、ずっとこの日を待っていた。けれど、そこに必ず彼がいるかどうかは分からなかった。その期待と不安を胸に、私は宿屋の前の道に出る最後の角を曲がった。
視界が開けたその先、記憶にある場所に彼は、ジルはいた。
少し癖のある赤茶の髪。細身の背の高い姿。
あの孤独な日々の中で何度も記憶をたどったその姿で、彼はそこにいた。
涙が出そうになったが、目元に力をぐっと入れて我慢をした。心臓は早鐘を打っていたが、努めて普通の表情を保った。このときほど、自分がかつて貴族の令嬢として躾られていてよかったと思ったことはなかった。
早足にならないよう気を付けながらジルの元まで行き、声が震えないよう慎重にこう声をかけた。
「あの、お困りでしょうか?」
するとジルは弾かれたようにこちらを向いた。彼が困ったときにする眉が下がった表情。懐かしさに胸が張り裂けそうだったが、にこやかな表情をなんとか保ち続けた。
「ああ、この人にさっきから話しかけられてるんだが、何を言ってるかさっぱり分からなくて」
この人、と言われた隣国から来た商人は次は私に助けを求めてきた。
『お嬢さん、あなたは商業ギルドの場所が分かりますか?このギルドのタグを持ってるお兄さんに聞いたんだけど、どうも言葉が通じてないみたいでさ』
商人が話していたのは隣国の言葉だった。ジョージア殿下の婚約者として周辺国の語学も修めていた私は、彼ににこやかに返事をした。
『私でよければご案内しますよ。この方は確かにギルドの方のようですが、お察しの通り貴方の言葉は通じておりませんでしたよ』
『おお!お嬢さんは私の言葉が分かるのですね!ぜひお願いしてもいいでしょうか?』
『ええ、もちろんです』
そこまで商人と話をしたあと、記憶にあるとおり驚き、ポカンとした顔を見せているジルにこう声をかけた。
「この方は隣国の方です。商業ギルドに行きたいようなのでご案内します」
「貴女はこの人の言葉が分かるのですか!」
「ええ、少しだけですけど」
「俺ではさっぱりだったので助かりました。商業ギルドなら俺もこれから向かうので、案内ぐらいなら俺がしますよ」
そう言ってジルは、あの頃と変わらない笑顔を私に向けてくれた。それは侯爵令嬢に戻された後、もう二度と見ることはできないと諦めてしまっていたものだった。
ああ、私の目の前にジルがいる。記憶でも夢でもなく、本物のジルが。色々とまだ不安はあったはずなのに、それらが全て吹き飛びそうなほど私の心は幸福で満たされていた。
そこからは過去と同じく彼と一緒に商人をギルドまで案内した。
「さっきは本当に助かったよ。ありがとう。えーっと、俺はジル。このタグのとおり今日からここのギルドで主に護衛の仕事をするんだ。えっと、君の名前を聞いても?」
「セラです。困ったときはお互い様ですから。お気になさらないでください」
「セラさんか。もし護衛の依頼があれば声をかけてくれよな。君の依頼を優先するよ」
「ありがとうございます。薬草採取のときにお願いするかもしれません」
「ぜひそうしてくれ!受付にも言っておくからさ!」
じゃあ改めてよろしく、と彼の大きな右手が私の前に差し出された。前回は彼の勢いに押されて、彼に言われるままに握手をした。出会ったばかりだったから当然なのだが、そのときの私の心に淡い気持ちは生まれてはいなかった。
けれど今の私は違う。私の心には彼との思い出があったし、私は彼の優しさ、仕事に対する誠実さ、ときおり見せていた子供っぽさを知っていた。
薬草採取の合間に、木陰で休憩をしながらお互いのことを少しずつ話していった記憶があった。気を許し、私をセラと呼んでくれた温かな声が耳に残っていた。仕事終わりによかったら飯でもと少し声を詰まらせながら誘ってくれたときの胸の高鳴りが、今も大切にこの胸に仕舞われていた。
この先、前と同じように彼と過ごせるかは分からない。私はかつての何も知らなかった頃の私ではないし、私の周囲も少しずつだけど前とは違っている。
けれど、会ってみて確信をしたけれど、私はジルが好きだ。彼を目の前にすると、想像していたより何倍も胸が締め付けられるような想いになった。苦しくて、嬉しくて、幸せだった。
先のことに対する不安はあるが、それはきっと誰もが抱える普通のことだ。それに彼が前と同じように私に笑いかけてくれるか分からないからといって誤魔化せるほど、彼を好きなこの気持ちは小さなものではなかった。
過去と違うことになるというのなら、前とは違った方法で彼をまた好きになり、彼との時間を積み重ねればいいだけだと私は思った。手を伸ばせば届くところに、同じ街に彼がいるし、私の未来はもう私が選びとれるものになっていた。立ち止まる理由は何もなかった。
それに変化はきっと悪いことばかりではないはずだ。ちょっとズルみたいだけど、彼がチョコレートクッキーが実は好きなことも、裏通りの静かなカフェを気に入ることも私は知っている。
期待と不安、そして前にはなかった恋心を抱えたまま、私は彼との握手に応じた。
「ええ、こちらこそこれからよろしくお願いします、ジル」
彼の手は、記憶のとおり大きく、温かかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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