6話
しかし翌日、折角離れられたというのに父が朝から私の元にやってきた。
「セラフィア、婚約おめでとう。お前が幸せを掴んでくれて私もとても嬉しいよ」
父はこの調子で、私の元に来てからずっと喜びの言葉を重ねていた。しかし彼が嬉しいのはこの婚約で私の機嫌が取れていると思っていることと、自分の家の名誉が回復することなのだろうと私は思っていた。
その証拠に父は私の気持ちなど一度も確認せず、また家を出たことにも全く触れず、めでたいめでたいと一人喜びを露にし続けていた。
そこからはしばらくは家にいた頃よりは少しは静かな生活が続いた。顔見知りでない侍女たちは私の過去を知っているため多少多めに気を使ってくるが、家の使用人たちに比べると格段に気が楽だった。
しかしそんな平穏を壊すかのように、相変わらず父は私の元に来ては、大袈裟に自分を卑下した。それは私が許す、気にしていないと言っても変わることがなかった。まるでそれは周囲の使用人たちにわざと聞かせているのではと思ってしまうほどであった。
「お前にあんなことをしてしまったのだ。ああ、この父が許せないのは当然だろう」「私にできる償いがあれば何でも言っておくれ。お前のためなら何でも叶えよう。私にはそれしかできないからな」「この髪飾り、受け取ってくれるかい?こんなことであの頃のお前に何も買ってやらなかった代わりにもならないかもしれないが」
いい加減にしてと叫ぶことも許されず、私はただ父に穏やかに彼の望む返事を答え続けた。
そういう対応は父だけに収まらなかった。
王城に住まわせてもらっているのもあるかもしれないが、陛下も王妃様も折を見ては私に声をかけてきた。そしてその度に過剰に気をつかった言葉を私にかけてきた。その終わらない気づかいが却って私の立場を悪くしていった。
さらにかつての友人から招待されたお茶会でも同じようなことが起こっていた。
どのご令嬢もかつての私への態度を涙ながらに謝罪し、私に許しを乞うてきた。それはもう哀れなほどであった。
王太子妃の覚えが悪ければ、彼女たちやその伴侶の将来に響く可能性もある。彼女たちが必死になるのは分かるが、それが必死になればなるほど、周囲の目は私に厳しくなっていった。
父も国王夫妻もご令嬢たちも自分のためにそれを行っているだけだった。自分の罪悪感を和らげたいから、私から許しの言葉を引き出したいから、力を持った私に気に入られたいから。私がどれだけもう構いませんと笑顔で返しても、謝罪を、過剰な気遣いを、へりくだった態度を続けた。
すると、いつからか周囲に私に対してこんな風に言う人が現れてきた。
「皆様にあんなに良くしてもらっているのに、セラフィア様はまだ拗ねているのかしら」「ちょっとお心が狭いわよね」「あのロゼルダ殿下にまで愛されているのにまだ何が不満なのかしら」
知らない!知らない!知らない!そう叫んでやりたかった。勝手に「許されていない」のは向こうなのだ。これ以上私にどうしろというのだ。
扱いだけが上等な孤独な生活の中で、あの頃の穏やかな生活を思って私は何度も泣いた。
私がどれだけ優しく接しても、許しの言葉をかけても状況は改善されなかった。私がどんなに言葉を重ねても、それはまるで存在しないように扱われた。それはまるでリリアーナに全てを奪われていった頃によく似ていた。
そして、ついにはある日、ロゼルダ殿下から私はこんなことまで言われた。
「セフィー、君が辛かったのは分かっているが、そろそろお父上や友人たちを許してやったらどうだい?今の状況は君の王太子妃としての未来にも影響しかねない。賢明な君なら分かるだろう?」
「父たちを、ですか」
あまりの言葉にそうこぼした私に、彼は整った顔に作り物の笑みを貼り付けながらこう続けた。
「そうだよ。もし君の心にまだ悲しみがあるというなら、その分も私が君を愛するよ」
この王太子たる私が愛してやるのだからそれで十分だろう?言葉にこそしなかったが、彼の目線が雄弁にそう語っていた。
私が愛されたいのは貴方ではない、そう叫べたらどれだけよかったか。あの淡い思い出さえなければこの状況にも耐えられたのだろうか。自分のかつての恋心を思わずそう思いかけたことが悔しく、泣き出した私を身勝手な男が何か言いながら抱き締めてきた。
好きでもない男、私を利用してくるだけの男からの抱擁。嫌で仕方なかったが、その手を振り払わないようにすることで精一杯だった私は、ただただ彼にされるがままに抱き締められていた。
そこからは心を殺して彼らの望む言葉を返すようにしてやった。
「お父様のお気持ちは十分伝わっておりますわ。もう気に病まないでくださいませ」
「皆様のせいではありませんわ。それよりこれから私と仲良くしてくださると嬉しいわ」
「ロゼルダ様、ありがとうございます。貴方にそう言っていただける私は幸せ者です」
そうやってどんなに態度や言葉を尽くしても、全ては解決しなかった。なぜなら彼らは自分たちを私にきちんと許しを乞い、そして許しの言葉を得ている存在であると周囲に示したいと思っていたのだ。悲劇のヒロインに寄り添う優しい王子様だと知らしめたいと思っているのだ。そのためにはあのパフォーマンスは欠かせなかったのだ。どれだけ私が足掻こうとも、それは解決などするはずなどがないことだったのだ。
そして、そう。昨日、この時間に戻ってくる前に私は聞いてしまったのだ。とあるご令嬢たちのこんな会話を。
「セラフィア様って未だにああやって被害者ぶってるじゃない?こうなってくると、実はリリアーナを利用して自分でこの状況を作り出したのかもしれないかもって思えてこない?だって自分は王太子妃にもなって、ご家族もご友人も彼女の言いなりでしょ?」
「確かに。リリアーナのお陰であの方恵まれた立場を手にされましたものね」
「ジョージア殿下には昔からあまり好かれていませんでしたもんね。だからロゼルダ殿下に乗り換えたとか?」
「やだ!大人しそうな振りして怖いわ!」
きゃははと笑う彼女たちの声が空洞になっていた心の中で何度も反響していた。もう磨り減ることのないと思っていたものが、さらに削られていくのを私は感じていた。
そうだ。昨日そんなことがあったのだ。もしかしたらあのことが何かのダメ押しになったのかもしれないと思った。
けれど、今はそんな考えても分からないことはどうでもよかった。それより今の私の状況だ。私は急いでこの狭い部屋に不釣り合いな大きな作業台へと向かった。
薬草や書類が積まれたその作業台の引き出しを開け、その奥から私は一冊の本を取り出した。それはかつて私がつけていた日記帳だった。ページを勢いよくめくり、最後に書かれた日付を見ると、王歴581年5月23日と書かれていた。
私の記憶にある「昨日」は王歴583年5月22日だったので、私はちょうど二年時を戻っているようだった。
あの婚約破棄は確かここから半年ほど先の出来事であったはずだ。それを確認した私は、己を鼓舞するように拳を強く握りしめた。
私はもうあの頃の何も知らなかった私ではない。私にはこの先に関する記憶と、平民として過ごしたあの日々の経験があった。
あの耐え難い日々であのときこうすればよかったと何度悔いたか分からない。あの頃は悔いても、嘆いても何も救われないと諦めていたが、過去に返った今なら色んなことを変えることができるはずだ。
この限られた時間で色々必要な準備をすべく、私はケニーにもらったパンとリンゴをとりあえず食べることにした。
手にしていたパンとリンゴは、昨日までの食事とは比べ物にもならないものであった。しかし誰に煩わされることなく静かに落ち着いて食べることができる食事は、私の心を深く満たしてくれた。
「理由は分からないけれど、やっぱりこれは喜ぶべきことよ。やるわ。私は私を取り戻す」
静かな部屋に、私の決意の言葉が響いた。
そこからはケニー以外は基本的に誰も訪れてこない静かな空間で、私は心穏やかにこの先の準備をした。
このときの父は私には無関心で、己が哀れっぽく見えるようにわざとらしく許しを乞うてきたりはしなかった。私を被害者ぶっているという目で見てくる侍女たちも、側に一人もいなかった。
お茶会で、言葉の端々で私たち許されないことをしましたものねと言ってきていたご令嬢たちからは、手紙の一通も届かなかった。
周囲がどんな目で見るかも考えず私に対して過剰に気を使う国王夫妻とも顔を合わせる必要がなかった。私に幸せな婚約者であることを無言で押し付けてくるロゼルダ殿下からお茶に誘われることもなかった。
改めて実感したが、ああ何て素晴らしいのだろう。何て心が自由なのだろう。ここでは物こそ何もないが、リリアーナの命令さえ聞き流しておけば、皆が私を放置しておいてくれる。
薄汚い小屋の中で、私は久々に感じる晴れやかな気持ちを感じながら、この先の新しい未来のための準備を粛々と進めた。