ポエム先生
その頃先生は72歳だったと思う。
私は毎週金曜日に先生の部屋を訪れた。10歳下の奥様は童話作家で、お忙しいらしく滅多に顔を合わせることはなかったが、同じ家の中の別室でいつもお仕事をされていた。
「今日も紅茶でいいのかい?」
優しく聞いてくださる先生の言葉に頷いた。薄いグリーンのカップに注いでくださる紅茶はとても香ばしく、香りの針が立つようだった。私は質問した。
「先生の視力が衰えないのはこの紅茶の効果なのかしら?」
「まさか」と先生はダンディーな皺を揺らしてお笑いになった。
先生は眼鏡をかけてらっしゃらない。私が眼鏡を使用するよりも、裸眼で遥かに目が見えてらっしゃるようだった。
「たくさんの本をお読みになるのに……。目をよくする秘訣はなんですの?」
「さあ、どうなんでしょうね」
謙遜するように白い頭を軽く触りながら、仰った。
「僕は本も読むけど、風景を眺めるのも好きだから。遠くをよく見るからじゃないですかね。さ、今日の講義を始めましょう」
窓の外には緑が溢れていた。
田舎でもなく、都会の喧騒からも謝絶された一等地。こんなところにお住みになっていると、目もよくなるものなのかしら。
先生は有名な詩人である。
とはいえ、詩がとても人気のないメディアなので、世間一般的には無名だ。
私は奥様の絵本のファンだった。そうでなければ先生に詩を習うことにはならなかったかもしれない。
先生は私が作って来た詩を原稿用紙の上に読むと、仰った。
「説明しちゃいけない。詩は説明ではないものだからね」
「理屈っぽいということですか?」
「詩はことばを自由にしてあげるものなんだ。普段、道具として人間に使われているその鎖を取り去って、自由なところへ解き放ってあげなければならない」
〜なければならない、というのが先生の口癖だった。
私はそれを聞くたびに、理由のない反抗心に駆られ、先生をからかってあげたくなった。
「では、ことばが『自由にさせられてたまるか』ともし思っていたら、閉じ込めてあげることも『解き放つ』ことのうちなのかしら?」
先生は子供を見るような笑顔でくすっと笑った。
「残念ながら、ことばに意志はないよ」
「ごめんなさい。お話を転がしてしまって」
私は先生に笑われるのが心地よかった。
「では、ことばを道具から自由にするというのは、たとえば……ことばで絵を描くということ?」
私は紅茶を手に、襟元から見える先生の白い胸毛に目をやりながら、聞いた。
「ことばを絵の具にするならやっぱり道具でしょう? そうじゃないんです。ことばそのものを絵にしてあげないといけない」
「そのものを?」
「そう。ことばで踊り子の絵を描くんではなく、ことばそのものを自由に踊らせてあげないといけないんだ」
「よくわかりませんわ」
私がそう言って苦笑しながら肩を竦めると、「じゃあ」と言いながら先生が立ち上がって、私のほうへ歩み寄って来られた。
「実践してみましょう」
先生が私の肩をお掴みになった。
「さ、立って」
先生の目の奥のほうに、緑色の玉が見えた。
いかにもな人工の美しい玉ではなくて、しっかりと汚れたところもある、天然石のような色の、緑色の、玉。
私はいつも、その玉が欲しくて、先生のところへやって来ているのだと思える。
その玉が、あっという間に先生の腰の奥に降りて、先生は緑色の玉ごと、私に腰をなすりつけて来られた。
着衣したまま、私と先生は社交ダンスを踊るように、腰と腰とを擦り合わせる。私の腰の内部には、白い繭みたいなたまごがあって、先生を感じるたびにそれが、敏感に苦しがるように痙攣する。
「奥様が……」
私は嫌がるふりをした。
「奥様が、向こうの部屋にいらっしゃいますわ」
「妻も君とのことは知っているよ」
先生はそう言いながら、私の腕を掴まれ、引き寄せた。
「妻に声を聴かせてやってくれ」
私は吐息をわざと先生の首元に当てた。私の髪を優しく掴むと先生は、私の吐息を唇の中へ吸い込んだ。
「女性って、どうしてそんな目をするんだろう」
先生は顔を離すと、私の顔の隅々まで眺め回し、最後に視線を合わせてそう仰った。
「私の……目が? どうなっていますの?」
「焦点が合ってないんだ。白痴のようでこの上なく美しい」
「自分には見えませんもの」
「まるで三角を結ぶエントロピーのような、神秘のゾーンだよ。そこへ吸い寄せられる」
私は白いブラウスを脱がされると、段々と真っ白にされて行った。先生の手と口の愛撫で、クリームのように溶けて行く。
「君ほどエロいポエムを僕は知らない」
私はおかしくて、子供のように笑ってしまった。
「ポエムはエロとは関係のないものでしょう?」
「いや、ポエムはエロそのものなんだ。君はこれから僕の目の前で、エロの化身にならなければならない」
これ以上、私は続きを書く気にはなれない。今から思えばあれは、ことばあそびのような時間だった。あまりに恥ずかしいあそび。人目に晒せば頭がおかしいと思われるに違いない。
先生との情事はポエムだった。