貴族令嬢婚約破棄編・2
令嬢は非常に満足していた。あの屋敷の者を紹介してくれた商人には、後で何か融通をしてやらねばならないだろうと鼻歌交じりだ。あの屋敷までついてきた男にエスコートされながら優雅に馬車に乗り込んだ。
「お嬢様、あれで本当に良かったのですか」
「まあ何を言うのです。これ以上ない見世物だったではありませんか」
「ですが、お嬢様は本当は」
「黒歴史というそうですわ、そういうの」
「…」
令嬢は確かに子どもの頃、ほんの少しだけ元婚約者に心を寄せたことがあった。貴族の子どもたちにとって何の制約もなく遊べる存在は貴重で、しかも将来結婚する相手だと言われていたのだ。淡い想いは幼い頃からの彼の素行のおかげですぐに冷え切ってしまったけれど、彼女の初恋はきっとそれであった。彼女もそれを否定はしない。しかし過去のことである、目の前の男だって知っているだろうにと彼女は少し憤慨した。
「それとも何です、今になってわたくしのような女は嫌だと言うの? …まあそうね、名前だけ貸して下さったらよろしくてよ。夫婦生活も無理強いはしませんわ」
「それは、困ります」
「困っているのはわたくしの方です。あんなことを言っておいて今更…」
「私は、お嬢様をお慕いしておりますので、夫婦生活を断られるのは、こ、困ります」
「わ、わたくしは、断ったりしませんわ。貴方が、その、良いのなら」
「…必ずお嬢様を幸せにしてみます。あの方のようにご心労をかけることも決して致しません。どうぞ、私を貴女の夫にして下さい」
「はい。わたくしも貴方が幸せだと思えるように、良い妻になれるように努めますわ」
「お嬢様」
「ふふ、まずはその呼び方を変える所からですね」
馬車の中、新しく結ばれた婚約を確かめるように手を握り合いながら二人は柔らかい熱を分け合った。諦めていた幸せを噛みしめる二人が、どうしてこのようになれたのかは数時間前に遡る。
―――
宣言していた通りに令嬢の婚約者だった令息は、国王陛下が出席するような大規模の夜会であったにも関わらず令嬢を迎えに来なかった。本来なら婚約者や夫人を同伴して出席することが夜会のマナーであるのに、どういう顔で恋人とやらを連れて入場したのか見てみたいくらいであった。
令嬢が内心腸を煮え返らせながらも何食わぬ顔をし、叔父に伴われ会場に入った時には既に事が始まっている最中だった。令嬢が雇ったオーウェンという獣人が幾つもの映像魔道具を作動させて、令息と国王陛下の間に立っていたからすぐに分かった。
『ああ、これは二か月前にそちらの“愛しい方”と一緒に宿泊施設から出てきた所ですね』
『ふむ、してこちらの映像は』
『そちらはつい先日、教会主殿を無理に追い出して結婚式の真似事をなさっていた時のものですね』
『…これは』
『こちらは二週間程前のものでしょう。東に名高い宝石商がおりますが、そこで結婚指輪をお作りになられたそうで』
『…分かった、ご苦労』
国王陛下は苛立ちを隠しもせず、映像魔道具を食い入るように見比べていた。令嬢を伴っていた叔父にも青筋が浮かんでいたが、どこか他人事のようにどうしましょうかと彼女がぼんやりしているとずっと黙っていた令息が叫んだ。
『そ、その者の言っていることは本当です、陛下! 私は、この女性と結婚したく思っております。どうか、現在結んでいる婚約の破棄を許可ください!』
『わ、私からもお願いします!』
この状況でよくあんなことが言えるなと、その場の全員が一瞬だけ呆れを通り越して感心してしまった。国王陛下のご尊顔は赤く染まっており、誰が見てもお怒りであることは分かるはずだろう。馬鹿は馬鹿なのだろうが、いっそのこと潔いと言えばそうかもしれなかった。
『儂は、発言を許していない』
『し、しかし陛下!』
『不敬罪である、捕らえよ』
『何故です、陛下! 愛する人と結ばれたいと思うことは罪なのですか!』
『罪である。お前はそんなことも習わなかったのか』
決して声を荒げずにそう言う国王陛下は、それでも怒りに震えていた。転がるように令息の両親が走り出てきて、国王陛下の前で額を床につけながら跪く。
『申し訳ございません、陛下! 我らの監督不行き届きでございます!』
『かくなる上は、我らに息子などおりません! どうか、どうかお許しを!』
『ち、父上、母上!?』
『ならん。その男はその女と共に鞭打ちの刑の後、鉱山に打ち捨てるがお前たちにも責を負わせる。…何、お前たちの家は先祖代々よく仕えた。一度の失敗で殺しも取り潰しもせん。貴族としての責を他よりも重く負ってもらうだけだ、沙汰を待て』
『ああ、寛大な御心に感謝致します!』
『申し訳ございません、申し訳ございません!』
令息の両親は這いつくばって、それでも国王陛下の寛大な沙汰に涙した。貴族としては最上級の屈辱であろうが、死に勝るものでもなかったのだろう。貴族としても人間としても真っ当である二人であったが、では何故あの令息はああ育ってしまったのか不思議である。一方、両親に見放された令息は絶望したような顔で騎士たちに捕らえられている。
『きゃああ! 助けて、止めて!』
『お、おい! その人に乱暴するな!』
『連れていけ』
『陛下、失礼ながらもう一度発言する権利を頂きたく』
『よい、申してみよ』
『ありがたき幸せ』
静観していたオーウェンがもう一度、発言の許可を得た。皆が皆、今度は何を始めるつもりなのだと戦々恐々としているのをものともせず、オーウェンはまた映像魔道具を取り出した。
『こちらを』
『…これは、いや、見れば分かるな』
『な、何だその映像は、う、嘘だ! そんなの噓っぱちだ! 彼女がそんなことをするはずない!』
『そう、そうよ! 騙されないで! 私には貴方だけなの、こんなの捏造よ!』
魔道具には令息が恋人だと言った人が映っていた。別の男と仲睦まじげに体を寄せ口付けをおくり合っている。別の魔道具には別の男にしな垂れかかっている姿が、また別の魔道具には楽し気に笑いあって宿に向かっている姿が映っている。令嬢は気分が悪いと扇子で顔を背けてしまったし、その場の他の人々の多くもそうした。
令嬢は令息が熱を上げている女は把握していたし、その女が他の男とも懇意にしていることも聞いていたがさすがに未婚の女性がここまでとは思っていなかった。自身もまだまだ甘いのであるなと静かに頷きながら令嬢は次の展開を待った。
『捏造ねえ、証人も証言あるが』
『だ! 大体! 貴方は誰なのよ! こんなことしてただで済むと思ってるの!?』
『私は“中央の虎”という。この度は畏れ多くも王弟殿下にこの会場の調度品を揃えよと命を頂き、この夜会には折角だからというお言葉に甘えて参上した次第だ』
『それがどうして私の結婚の邪魔をするのよ!』
『おや、おかしなことを言う。私は貴女の結婚を邪魔などしない、ただ仕事を下さった王弟殿下の兄君に真実を提示しただけだ』
『それが邪魔だって言ってんのよ!』
『煩わしい、何か噛ませよ』
『いや! やめ、うぐぅ!』
令息は顔を真っ青にして弱々しげに「やめてくれ」と言ったが、誰も彼の声など聞いていないかった。彼の“愛しい人”は猿ぐつわを嵌められてもはや罪人の様相で、令息共々、今度こそ会場から連れて行かれてしまった。いや、この時点で令嬢の婚約者だった令息は両親に見放されているから元令息と称するべきだろう。さて、これからどうするつもりなのかと令嬢は静観した。
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