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 神殿は元の静けさと明るさを取り戻していた。隅で蠢いていたもやが綺麗になくなっている分、入ってきたときよりも明るくなっているかもしれない。つい先ほどまで無数の黒い蔦が室内を覆っていたのは夢か幻かと思えてくる。

 しかし。


(花漣?)


 彼女の姿が見えない。

 呼ぶ声が聞こえない。

 右手の指先には、今も柔らかな感触が残っているのに。いつも彼女の手にあった杖が、床に転がっているのみだ。


(……いない、の?)


 花漣がいたことは間違いないのに、彼女の姿だけが見えない。

 もやに絡め取られ、消えてしまった。

 消された。

 自分の前から、消えたのだ。

 はっきりと理解した直後、唇から息がこぼれた。体の重みが増し、さらに肺から空気が溢れ、肩と腹部から力が消えていく。


(いなくなったんだ)


 理解が言葉になって胸中ではっきりと響くとともに、最後の力が抜ける。すとん、と。


 ――カシャン。


 緊張感が消えたそこへ音に不意打ちをされ、肩が瞬間的に強張った。考える余地もなく振り返る。

 そこにいたのは剣をしまう国王だった。今の金属音は刀身と鞘が立てた音だったらしい。

 彼は振り返ると、足早に近づいてきて星樹の前で片膝をついた。


「腕は動かせるようだな。どこか異常はないか?」


 問題ないと言おうとして、しかしここがいつ敵に襲われるかわからない場所であることを思い出す。いざというとき動けないのでは、致命的な失敗に結びつきかねない。


「左の脇腹の辺りが……。力を入れると、痛いです」


 国王の顔が強張った。


「触るぞ」


 断りを入れてから、星樹の左脇に手を当てた。途端、強い痛みが。軽い力で触っているのはわかるが、それでも押されるたびに息が詰まる。しかし、国王から不安げな様子が消えたのはすぐだった。


「良かった。骨は折れていないようだな」


 頬を緩めて体を離すと、星樹の髪に指を通す。


「本当に無茶をしたものだ。年頃の娘に癒えないような傷を負わせてしまったら、君の両親に申し訳ないではないか」


 手櫛で整える仕草で初めて、自分の格好がかなりひどいことになっていると気がついた。国王の手を振り払う勇気はなかったためそのままに、星樹自身はまくり上がった袖や裾を手早く直す。

 服は、繊細な生地だけにところどころ破れてしまった。せっかくの正装衣を台無しにしてしまったことに気落ちはする。だが同時に、胸には本を護れた達成感と自信がある。だからこそ、星樹は心から素直に笑顔になれた。


「ですが、大切な国宝を護ることができました。たとえ傷が残っても、お役目を果たせた証だと思えば誇りになります。ですからお気になどなさらないでください」


 しかし返されたのは、苦い苦笑。


「星樹。その責任感には心から感謝する。だがな、私は本などより人の命のほうが大切だぞ」

「――――」


 ちくん、と胸の奥が痛み、息が止まった。

 国王は星樹のぽんと手を置き、笑う。


「その本は、紙にも糸にも字を記す墨にすらも強力な護りの聖呪がかけられている。焼いても燃えない本だ。仮に損傷したとしても復元できるよう、複写本もある。そのことは君にも事前に説明があったはずだ。国宝ではあるが、君の命を天秤にかけられるほどの価値はないのだよ」


 乗せられた手が重い。押されるように頭が下がる。視線が落ちる。すると膝の上で、本に重ねている己の指先が、かすかに震えていた。


「ですが」


 絞り出した声もまた震えていた。その不格好さに苛立ちが勝る。


「護れなかったら、私は、何のためにここにいるのか……っ」


 瞬きをした拍子に、涙が転がり落ちた。

 慌てて袖でぬぐい消し、本を抱き寄せる。


「私は五歳の時に、親元を離れて聖楽院に入学しました。楽士になりたくて、両親に頼んで入った学校でしたが、時々どうしようもなく淋しくて。落ち込んでいたら、先生がいつも傍にいて、慰めてくれたんです。……とても感謝してます。両親にも、先生にも」


 きっぱりと、顔を上げる。


「国が滅んでしまったら、両親も先生も死んでしまいます。昔の私と同じように淋しくても頑張ってる子たちの夢も叶いません。そんなこと……努力が無駄になるなんてことは、絶対に赦せないんです」


 国王の手が星樹の頭から外れ、同時に彼の表情が真剣なものに変わった。その目を正面から見返す。


「この本を使う『歌姫の目』は、必要だから、ここにいるんですよね? でしたら、生まれつきの才能に甘えていい気になってる子や、国の将来がかかってる儀式を他人事としか思ってないような子に任せたくありませんっ」

「そうか」


 国王の顔に、優しい笑みが戻る。


「君は、ずっと気を張っていたのだな」

「――…………」


 星樹の驚きを気にせず、国王はその場に腰を下ろした。


「努力は尊いものだ。すべての努力が報われる、などということはありえないのが現実だが、それでもあきらめることに比べたら……、いや、比べようもないほどの価値がある。しかし、だ」


 この国で最も偉い人は、そうとは思えないほど、星樹の近くで笑っている。


「私も子を持つ親だ。君の両親が、君のことを心から誇りに思っているだろうことは容易に想像がつく。だが同時に、無事に帰ってきてほしいと毎日のように祈っている姿も、想像できるのだよ」


 長期休暇で帰るたびに、星樹の好物ばかりを用意して待っている母。学校での話を聞かせてくれと毎日のようにねだってくる父。休暇が終わって学院に戻るとき、息苦しいほど抱きしめて送り出してくれる、ふたりの笑顔を忘れたことはない。今も、帯に挟んだ横笛を通じて、両親の気持ちが傍にある。愛情と心配と祈りを実感できている。

 星樹は、帯から出ている横笛の一部をそっと手で押さえた。柔らかい白木の手触りに刺激され、目の奥がきゅうと痛い。

 少しにじんだ視界の中で、国王が静かに頷いた。


「君は、大切に思われている。君の無事を祈る人がいる。親だけではない。君の尊敬する教師や、気にかけている子供たちも、君の傷ついた姿を見たら悲しむだろう。何より、花漣が泣いてしまうぞ」


 胸がまた痛くなってきた。じくじくと、ひどい擦り傷ができたように。

 星樹は耐えきれず、国王からわずかに目を逸らした。


「確かに泣くかもしれませんが、それはあの子がただ臆病なだけですっ」

「そうだな。だが、それだけではないだろう。……君は花漣のことが嫌いか?」

「…………」

「誰にでも気の合う合わないがある。別におかしなことではない。ただ、君は少し誤解をしているように見えて仕方がないのだがな」

「……誤解なんて……」

「そうか? 君は先ほど『生まれつきの才能に甘えていい気になっている子』と言っただろう。あれは花漣のことではないのか?」


 ますます目を合わせていられない。国王の声が優しいからなおさらだった。星樹は痛いほど首を曲げ、うつむいた。反論するべきところなのだろうが、声すら出ない。

 そんな彼女に、国王はなおも微笑みまじりの声をかけてきた。


「私にはな、君が花漣を軽蔑する理由がわからないのだ。努力を尊ぶ君なら、誰よりも彼女を理解して、親身になって接する友人であってもおかしくなさそうなのに……」

「ありえませんっ!」


 とっさに叫んで顔を上げた星樹の前にいたのは、かけらも驚きを示さずに微笑む男性。

 今の言い草は、わざとだ。

 まんまと彼の策にはまって苛立ってしまった。気づいて再び顔を伏せても、時すでに遅しだ。国王がわずかに声に出して笑い、ずいと身を乗り出してくる。


「私の印象を言おうか。花漣が自身の才能に甘えているとは思えない。彼女はどちらかというと、才能を無自覚に使う人間ではないかな」

(……確かに)


 星樹に納得の気配を見て取ったか、国王が話を続けた。


「彼女がその才を見いだされたのは偶然に寄るところが大きいと、話には聞いている。だが……星樹、忘れてはいないか? 君と花漣が通う学舎は、この国の中で最も難易度の高い場所であるということを」


 その言葉に、星樹の息が、ひゅっと音を立てた。とっさに顔が上がる。

 目の前を覆っていた見えない膜が突然取り払われたような、そんな心地がした。


「なぁ、星樹よ。盲目の彼女が、そうでない人間のほうが多い場所でやっていくのは並大抵のことではないと、私は思う。……この考え方は間違っているか?」


 感情がせり上がり、止められない。どうしようもなく涙を溢れさせ、首を振って否定して、星樹は、認めた。


「いいえ……いいえっ」


 どうして気づかなかったのだろう。

 いや、きっとそうではない。自分は見ない振りをしていただけだ。目を逸らしていただけだ。

 花漣は目が見えない。教師の言葉を書き記して覚えることができない。どんなに高度な問題も、すべて耳でしか捉えることができないのだ。彼女の成績はけっして良くはない。それでも完全に置いていかれているわけではない。聞いて覚えることしかできない花漣は、落ちこぼれは退学させられる聖楽院で、今までどうやって――否、どれだけの時間を勉強に費やしてきたのだろう。想像もできない。想像する勇気もない。

 何も見えていなかったのは、自分のほうだ。


「……花漣……っ」


 臆病でいつもおどおどとしている花漣だが、彼女の姿を想像したときいちばん最初に思い浮かぶのは笑顔だ。授業を受けるときも、他の学友たちの他愛ない話に耳を傾けているときも、いつも楽しそうに微笑んでいた。教師に贔屓されていると陰口を叩かれているとも知らずに。いや、耳のいい彼女のことだ、もしかしたら知っているのかもしれない。それでも、やはり花漣はいつも笑っているのだ。楽しそうに。のほほんと。


「私、私は……っ」


 膝の上にばらばらと涙がこぼれて止まらない。顔が上げられない。その頭に、再び国王が触れてきた。


「学院長が言っていたよ。『歌姫の目』をどうしても選ばなければならないのなら、君でなければ嫌だと主張されてしまったとな」


 あれほど重かった頭が、跳ねるように上がっていた。

 固まった星樹の前で、国王の笑顔がにじむ。私が話したことは内緒だぞと、計画中の悪戯を打ち明けるように。


「君の成績が優秀だったこともあって任せることにしたそうだが、いつも控えめな娘が強情に言い張るものだから驚いたそうだ」


 両手で星樹の頬を包み込み、国王は微笑む。


「花漣は君を信頼している。きっと今も君が助けに来てくれることを信じているだろう。ならば、その信頼に応えるのは君でなければならない。……わかるな?」


 言葉の違和感。気づいたのは少し経ってからだ。


「生きて、る?」


 星樹は己の体が震えるのを感じながら口を開いた。


「でもっ、さっき蔦に絡まれて……」

「花漣は、生きている」


 国王が明確に、疑う余地を消すように、大きく頷いた。


「もし喰われたのならば何かしらの痕跡が出る。それに、蔦に完全に包まれて消えるまで彼女は君の名前を呼んでいた。苦痛ゆえの悲鳴もなしに、だ。蔦のほうも、もやに戻ったあとで神殿の奥へと消えていったことに気づかなかったか? おそらくは連れ去ったのだ。理由はわからないが、敵に花漣をすぐ殺す意志はない。急げば間に合う」


 たくさんの理由が積み重なり、それは現実味へと変わる。心が動く。


「生きてる……花漣……っ」


 また溢れた涙を優しくぬぐうと国王が、一挙動で立ち上がった。そして大きな手を差し伸べてくる。前へ進もう、花漣を助けに行こうと、促している。わかる。だが、いまさらどんな顔をして花漣に会えばいいのか。


「大丈夫だ」


 それを見透かしたように、国王は星樹の手を取り、強引に引っ張り立たせた。


「努力は尊い。そして、いつから始めても遅くはないものだ。そうだろう?」


 じんわりと痛い胸は、苦しいからではない。痛いからでもない。暖かいからだ。


「……はいっ」


 国王に支えられ、星樹はゆっくりと歩き出した。拾った花漣の杖を、本と一緒に抱きしめて。

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