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 馬車が王宮の門を通ってから何分経っただろう。深い森のような庭を進む中、不意にその建物は現れた。

 古い建築様式の建築物である。だが老朽化している様子は感じない。おそらく物質保存の力に護られているのだろう。頑丈そうな石造りの外観だが、想像とはだいぶ違っていた。第一印象は貴族の別荘に近い。普通の住宅と唯一違う点は、窓がひとつもないことくらいかもしれない。


(これが神殿……?)


 思うも、建物のあちらこちらから国中を覆い尽くしつつある黒いもやが漏れ続けており、入り口前に多くの人間が集まっていて、さらに馬車がその近くで停車するに至り、疑う余地はなくなっていたのだが。

 そのとき、袖が引っ張られた。見れば、花漣が眉を情けない形にして、星樹の袖の端を握っている。


「星樹。何か、音が聞こえるわ。向こうの、奥の方から……」


 言って指差した方向にあるのは神殿である。

 盲目ゆえか、花漣は常人より遙かに耳がいい。つまり、彼女に聞こえている音の出所はひとつだろう。

 星樹は不意打ちの驚きで固まりかけていた息を意識して吐くと、花漣の手をやや強引に外した。


「きっと起きた魔物が立ててる音でしょうね。でもあなた、わかってるの? 私たちはこれからそいつのところに向かうのよ。歌姫がいまさら怖がらないでちょうだい」

「う、うん……」


 道の脇で控えていた初老の侍従官が馬車に寄ってきた。踏み台を用意してから扉を開け、恭しくお辞儀をする。


「ようこそお越しくださいました。国王陛下がお待ちになっております。どうぞこちらへ」


 しかし、怯えているのか、それともわかっていないのか、花漣は神殿のほうに顔を向けたままいっこうに立ち上がろうとしない。まさか歌姫でない自分が先に降りるわけにもいかず、星樹は再度彼女を促す。


「花漣、何をしてるの。降りて」

「え……? あ、あぁ、うん。ごめんなさい」


 花漣は我に返った様子で首を振るとようやく腰を上げ、侍従官の手を借りて降りていった。


(いくら目が見えないからって、どうして私が言ってあげなきゃ何もできないのよ……)


 苛立ち紛れに、小さなため息をひとつ。

 気を取り直すと星樹は、ふかふかの椅子から立ち上がって馬車の外へと出た。

 地に足をつけた瞬間、ふるり、と体が震えたのは、森の冷気ゆえか緊張ゆえか。それとも、二人が姿を現すとともに始まった音楽の美しさゆえか。聖楽院で聞いた歌の何倍も上質な『守護の聖歌』に感嘆の息を禁じ得ない。

 片手を胸に押し当て、体の芯に残る震えを抑える。そうして花漣とともに歩き出し、神殿の巨大な扉前に立つ、濃紫色の正装衣をまとう人物の前へと進み出た。

 腰に剣を下げた、黒茶色の髪の男性である。空色をした目の輝きは明るく、四十歳を少し越えたばかりの体はがっしりと大きく、星樹と花漣を迎えるように広げられた両手は人の手の温かさを容易に思い出させる逞しさだ。


「姫たち、よく来てくれた。初めまして。私が銀珠国第十八代国王、遼輝(りょうき)だ」


 一週間前に王位を継いだ新国王は、国の頂点に立つ者の威厳はそのままに、穏やかな笑顔を見せていた。

 少しだけだが、雰囲気が父に似ている。庶民である父と国王を比べるなど失礼極まりないのは重々承知だが、向けられている微笑みの柔らかさと、どんなに怖い場所でもこの人と一緒なら平気に違いないと思える頼もしさ。そういったものがどことなく似ているのだ。きっとあの手は父の手と同じように、森の冷気を吹き飛ばしてしまうほど温かいのだろう。

 星樹はお約束の礼儀作法でも義務でもなく、心からの敬意と親愛の心でもって、新しい国王にお辞儀をした。それに続いて、花漣が控えめな声を発する。


「国王様、初めまして。わたしは、花漣、といいます。ご覧の通り、わたしは目が見えません。そのせいでたくさんのご迷惑をおかけすると思います。ですが、歌姫の役目、精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」

「ああ」


 国王が花漣に歩み寄り、彼女の正面に立った。そして両手で花漣の手を取り、ぽんぽんと励ますように撫で叩く。


「私は聖歌が不得手だから、君の歌はとても心強い。目が見えない不利は私が補おう。だから君は存分に歌い、助けてほしい。頼りにしているぞ」


 わずかな間。そのあとで、花漣の頬から緊張が抜けた。ほんわりと笑顔になる。


「はい、国王様」


 その顔を見て強く花漣の手を握りしめると国王は、彼女から離れ、星樹へと視線を移してきた。目が合う。

 反射的に背筋が伸びたのは、王者の貫禄というものゆえだろうか。星樹は改めて、美しく見える角度に頭を垂れた。


「お目にかかることができ、身に余る光栄でございます。このたび、歌姫の目として同行させていただくこととなりました、星樹と申します」

「顔を上げなさい」


 促され、姿勢を正す。すると、国王がしっかりと星樹に向かって目礼をした。


「よくぞ引き受けてくれた。君の勇気と誇りに、国のすべてを代表して敬意と感謝を贈ろう」


 そして側近と思われる人物から一冊の本を受け取り、それを星樹へと差し出してくる。


「君に、国宝『国守の書』を預ける。私たちとともに、国のため戦ってほしい」


 古い本だが損傷はない。金の箔押しをされた細かな装飾も、時間の経過とともにかすれて色あせた紙の風合いも優しく、美しいその本を、星樹は両手で受け取った。胸に抱く。


「まだまだ未熟者ですので、無事にお力添えができるかわかりませんが、懸命に務めさせていただきます」


 これで一通りの挨拶は済んだ。安堵で少しばかり肩から力を抜く。すると、何やら楽しげな国王と目が合った。


「確かに謙虚であることは美徳だが、二人とも謙遜が過ぎるとみえる。特に、星樹。評判は学院長から聞いているぞ? 歌も楽器演奏も優秀な、聖楽院きっての才姫であるとな」

「えっ、そのような――――」

「そうなんですっ。星樹、何でもとっても上手なんですっ!」


 思わず謙遜の言葉を出した星樹の声をかき消さんばかりの勢いで、花漣が力いっぱい頷いた。


「歌も上手ですけど、笛がとっても素敵なんですっ。それと読み聞かせも! 特に童話は、聞いているとお話に入り込んでしまったような気分になれるくらい、とってもとっても上手なんです!」


 いきなりの力説に驚いて放心状態に陥ったのは、そこまでだ。


「ちょっと待って」


 楽士を目指している星樹たちが受ける授業は歌と楽器演奏で、読み聞かせの勉強はない。それは、聖歌とは違い文字を力として扱う聖呪(せいじゅ)の領分。歌い手や弾き手ではなく、語り手の領分である。なのになぜ、しかも童話と特定できたのだろうか。幼等部で『自主学習』の名目で子供たちの遊び相手をしてることは、花漣はもちろん、誰にも話したことがない。事情を知っているのは恩師だけであるはずなのに。


「あなた、どうして私が童話を読んでるところを知ってるの?」

「――……あっ」


 花漣があからさまにうろたえた。

 後ろめたさと失態への動揺だ、これは。わかりやすすぎて腹が立つ。それ以上に、己の隠し事をいつの間にか掴まれていたことに対する恥辱で怒りが煽られる。

 星樹は体ごと彼女に向き直り、一歩詰め寄った。

 が、


「なるほど。ならばまさに適役だな」


 国王の声が星樹を我に返らせた。


「しかも歌姫の信頼も篤いと見える。ならばこれほど頼もしい協力者もいまい。胸を張れ、星樹」


 彼の言葉に仲裁の色を感じ取るのは容易だった。当然だろう。これから何が起こるかわからない場所へ向かおうというときに仲違いした状態では、それこそ何が起こるかわからない。万難を排するのは当たり前である。

 そう理解できるだけの理性が残っていたため、星樹はあえて苛立ちを飲み込んだ。花漣に向けていた足先を前へ戻し、礼を取る。


「恐れ入ります」


 口から出た礼は、いくら好意的に取っても口先だけにしか聞こえないものだった。しかし国王に機嫌を損ねた様子はない。ただ、ちらと楽士たちへと目をやった。

 もうすぐ歌が終わるのだ。

 出発の時である。


「花漣」

「は、はい」


 やや驚き、杖を握りしめた彼女に、国王が右手を差し出す。


「手を引いてやろう。さぁ、左手を」

「えっ」


 提案に、星樹も花漣も驚く。


「でも、国王様のご迷惑に……」


 花漣は単に申し訳ないという理由だけで遠慮の言葉を口にしたようだった。しかも弱い。

 そんな彼女に呆れながら星樹は、もっともな理由――客観的に見て却下すべきであるという理由を追加した。


「それでは国王陛下の片手が塞がってしまいます。神殿の中ではいつ何が起こるかわからないのですから、陛下がとっさに動けない状態でいらっしゃるのは望ましいことではないと思います」

「……確かにそうかもしれんな」


 言って、国王は手を下ろした。

 納得してくれたようだ。

 ほっと息をつく。そこへ、


「では、星樹。君が花漣の手を引いてやりなさい」


 思わぬ反論がやってきた。

 二の句が継げないところへ、さらに言葉が重ねられる。


「君の言う通り、中では何が起こるかわからない。目が見えないのではとっさに動くことは難しいだろうからな」


 正論だ。冷静に考えればそれが最善の方法でもある。さらに、ここで星樹が頷かなければ、国王が手を引くことになるのは目に見えている。そうなればもう、やめさせるのは不可能だ。


「わかりました」


 星樹が了承するなり、隣で花漣が安堵の息をついたのが、少し腹立たしい。

 しかし外には出さずに、彼女の左手を取る。

 国王が大きく頷いた。


「よし、では行くとしようか」


 衛兵たちの手によって、神殿の扉が開けられる。

 黒々としたもやが噴き出したその中へ、国王に続き、花漣の手を引いて足を踏み入れた。

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