われても末に あはむとぞ想う
死とは、生とは。
大切なものこそ失くして気づくことができるものだと
ボクは思う。
もう戻ってきてほしいなんて言葉は遠くにいってしまったとてもじゃないが
聞こえやしないだろう。
ボクはじいちゃんの涙は一度も見たことがなかった。
それほど強く、男らしかった人を心の底から尊敬し愛していた。
元軍人のじいちゃんは他人に優しく、身内に厳しい人だった。
もっとも厳しかった相手は、ばあちゃんだった。
昔ながらの考えを貫き、本当に三歩後ろを歩かせた。いつも口調は命令に近く、亭主関白の教科書は家の中にいた。そんな命令口調にも、亭主関白にも、文句言わずニコッと笑顔で答えるのはいつもばあちゃんだった。
ボクは信じられなかった。なぜ、文句を言わないのか、なぜ、別れたいと思わないのか。すごく疑問を抱いていたが、答えを聞くのがどうしても怖く、最後の最後まで聞けなかった。そしてそのままばあちゃんはこの世との別れを迎えた。
ボクはじいちゃんとは違い、情けなくてちっとも男らしくない人間だった。
ばあちゃんの葬式にはたくさんの人が参列した。
近所の人、ばあちゃんの友人、じいちゃんの元会社の人達、
人望というものはこの瞬間が一番わかりやすい時かもしれない。
そう思いながら参列者にボクとじいちゃんは頭を下げた。
ばあちゃんは最後まで優しい笑顔だった。
苦しい顔とは程遠い、安心した顔をしていて、孫のボクが見ても美しかった。
そして、お経と共に焼香が始まった。
その最中気になったことが一つだけあった。
それはじいちゃんの背中が小刻みに震えていたのだ。
ボクは目を疑った。じいちゃんが泣いているのか?
そう思いながら焼香台の前へと向かった。
その時見た、じいちゃんの顔は今まで見たことがないほどの
しかめっ面で、怒りという感情が帯びていた。
そしてじいちゃんは動く気配がまるでしなかった。
最後の一人が終わった瞬間じいちゃんがすっと立ち上がり焼香台の前に行き、少し大きな声で
「約束はどうした」
しかめっ面のまま重たい一言を残し、そのまま出て行ってしまった。
家族は唖然としたが、誰もその背中を止められるものは
ここにはもういなかった。
田舎の鳥の声がよく響く家は長年住んだ痕を根深く残していた。
じいちゃんのお気に入りの場所は晴れた日の縁側。
そこで太陽からエネルギーを貰っていると小さい頃は信じていた。
悲しいお別れがあったあの日から、じいちゃんの人生はさらに無口な人生になってしまった。娘であるボクの母親とは折り合いが悪く、あまり話さない。
ボクは家族の中だと一番話す方だけど、今のじいちゃんとは話題を見つけるのが困難だった。
「じいちゃん、今日なにすんの?」
「・・・」
可愛い孫の気遣いの問いかけはじいちゃんの耳に入ることなくすーっとどっかの山に吸収されたみたいだ。
母が無理やり外に出そうとした日もあったが、石のように体を固め、全く動こうとしなかった。
よく口喧嘩に発展していた。
その姿はまるで中身がすっからかんの石像だった。
ジリリリリン ジリリリリン
ある日、オンボロの黒電話が鳴いた。
母が出ると、じいちゃんを呼んだ。どうやら定年まで働いた会社の元同僚からの電話らしい。
「もしもし・・・」
珍しく話し込んでいる、その横で母はなにか言っているみたいだ。
「じゃあ来週の日曜日で。」
ガチャ
どうやらゴルフの誘いだったようだ。そして、それを断ろうとするじいちゃんを母は必死に説得していたらしい。
結局、気分転換を理由にじいちゃんは
晴れた日曜日にゴルフに出かけることになった。
カントリークラブで友と待ち合わせをした。
会うなり、昨日話していたみたいに昔話込みのゴルフが始まった。
「俺なんかさあ、いつも邪魔者扱いだぜ」
友は定年退職してからずっと家にいるため、妻には邪魔者扱いされているみたいだった。
「お前が一人になっちまって寂しがってるだろうから誘ってやったんだよ」
そんな友の言葉に救われている自分がいたが、
友の愚痴には少し羨ましくも聞こえた。
「で、最近落語にハマってるんだよ、今度一緒に行かねえか?」
「昔から勉強は嫌いで難しいことはわからん」
「いいんだよ、雰囲気だけでも楽しめば」
友の強引な誘いに断る方が面倒になっていた。
そのまま勢いに飲まれ、
そこそこのスコアと来月の落語がこの日のハイライトだった。
じいちゃんは今日落語に行くらしい。家族にとっては大事件だった。
あの父さんが落語・・・
と一番びっくりしていたのは無理やり外に出そうとした母だった。
ボクは少し、よそ行きの格好で出ていくじいちゃんを玄関で見送った。
「気をつけてね」
約束の場所に着いた。友が時間通りに現れ、パンフレットを渡しながら、説明を受けた。よくわからないが、少し有名な落語家らしく友は張り切ってプレゼンしていた。
前座が終わり、最後のトリになった。
その落語家がするのはどうやら崇徳院という落語らしい。
百人一首の
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末にあはむとぞ思うふ」
を題材にした古典落語と友に教わった。
現代語訳すると
川の瀬の流れが早く、岩にせき止められた急流が2つに別れている。しかしまた一つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかきっと再会しようと思っている。
崇徳院が終わり会場がパッと明るくなった。
なぜか最後の崇徳院が心の何処かに引っかかっていた。
どうも初めて聞いた一首ではない気がしてならなかった。
そして悶々としたまま帰路についた。
帰ってきたじいちゃんはどこか様子がおかしかった。初めての落語で満足しなかったのだろうかと心配していたが、
帰ってくるなりボクに崇徳院って知っているか?と訪ねてきた。
ボクはどこかで聞いたことがある気がしたけど記憶はぼんやりしていて、ヒントにはならなかった。
そして自分の部屋の中で探し物を始めた。
不思議に思い
「なにを探しているの?」
と聞いてみた。
「んー・・・」
どうやら本人も分かっていないらしい。
何もしないのも居心地が悪くなって、
じいちゃんを横目にボクも「何か」の捜索活動に参加した。
ガサゴソ、ガサゴソ
しばらくするとじいちゃんの動きが止まった。
何かを持ってじっと見つめている。
それはばあちゃんが大切に持っていた箱の中からでできた
一枚のかるただった。
葬式で見た背中がまたそこにあった。
そしてあの時と同じように小刻みに震えていた。
ボクはかける言葉も見当たらず顔も見ずに、その場去った。
それから数ヶ月経った。
じいちゃんは体調を崩し、入院していた。癌が複数個みつかったらしい。医者はもう長くはないと家族に説明した。みんなは出来るだけいつもと同じように振舞おうとしていた。
だけど、あれだけ仲が悪かった母が気持ちが悪いぐらい優しくなっていた。
ボクは医者より先にじいちゃん本人にもう長くはないと伝えた、
というか隠す意味はないと考えた。
余命宣告をした時のじいちゃんはショックを受けるわけでもなく、どこかワクワクしているように思えた。
だからどうしても気になっていたことを聞いておきたかった。
「あの時言った「約束」ってなんだったの?」
ばあちゃんの時に聞けなかった後悔をもう二度としたくない一心に
思い切って聞いた。
その答えは案外すんなり返ってきた。
「俺よりも先に死なないこと」
これがばあちゃんと交わしていた唯一の約束だった。
そしてその「約束」をばあちゃんは紙を破るみたいに
笑顔でビリビリに破った。
そしてあの時、見つけたものを聞こうとしたが、
教えてくれそうにないので
少し遠回りして質問をしてみた。
「じいちゃん探し物は見つかったの?」
無口で頑固な口が珍しく口角をあげ
「もう少しで見つかる」
と言って、その一週間後この世を去った。
じいちゃんは最後までその札を持っていた。
そしてその札はボクに渡ってきた。じいちゃんの宝物。
花だらけの箱の中に入れてあげようかとも思ったけど
受け継ぐものだと考えた。
札握りしめ、涙で前が見えなくなりながら、
じいちゃんを見送った。
ボクは入院中の病室でもずっと、じいちゃんの手を握っていた。
どうしても離れたくなくて、
どうしてもまだ教えてもらわなきゃいけないことがある気がして。
でもじいちゃんは病院の真っ白な天井を見上げて、言った。
「お前は俺のようになるなよ」
じいちゃん、ボクはまたじいちゃんと
会いたいよ。
われても末に あはむとぞ想う
じいちゃん、ばあちゃんとは
直接繋がっているわけではありません。
間接的な関係だからこその距離感があります。
しかし、愛があり、甘えがあります。
世代を超えた愛のバトンを渡していきます。
どうか、生きている間に感謝は伝えましょう。
盆栽




