落ちてきた〈異形〉 2
「何、これ……夢、かよ……?」
何度己の目を疑ったところで、目の前にいるソレは、決して消えはしなかった。トカゲの姿をした怪物。もしも多少なりファンタジー系統の知識がある人間ならば、彼の事はこう呼ぶだろう。『リザードマン』と。
あまりにも理解を超えた光景に、蒼河の脳も今度こそ本格的な現実逃避を試みる。だが、夢にしてはリアルな感覚があることもまた、理解してしまっていた。
死んでいるのだろうか、と思った。しかし、目をこらせば、呼吸に合わせて身体が上下している。間違いなく、ソレは生きていた。
「……う……」
「!」
トカゲが動き始めて、蒼河は思わず身を固めた。何しろ異形の存在だ、友好的であるとは限らない。――逃げなければいけないのではないか、しかしここで逃げれば母や近所の住民が襲われるのではないか、ならば辺りに危険を知らせて回るしかないが間に合うのか――などと、半ばパニック状態の思考に捕らわれて逆に動けなくなっていた。そして、トカゲの口が開く。
「い……いったぁ……」
(……ん?)
――少し高めの、男性の声。どうやら頭を打っているらしく、伸びた右手でさすっている。
「うう……な、何が、起こったの……?」
(…………んん?)
小さく呻きながら、上体を起こしていく。痛みに顔をしかめ、目を閉じているために蒼河にはまだ気付かない。よほど痛かったのか、その目には涙が溜まっていて――
予想と反する展開に、蒼河は思わず思いきり首をひねった。自分よりも体格の良いトカゲの化け物。しかし、その口から出てきた言葉は、そしてその仕草は、見た目に全くそぐわない――ひとことで片付けると、あまりにも子供っぽい――ものであった。
声も蒼河より少し高い程度で、多分に少年らしさを残している。何よりも重要なのは、『彼が何を言っているのかはっきりと理解できる』ということだった。
「あれ……き、君は?」
「あ……」
そうこうしているうちに、トカゲ男がその縦に割れた瞳を開いた。特に敵意もない様子の、どちらかと言えば大人しそうな口調。
「どうして僕の部屋に……僕の……」
そのままぼんやりとした視線を蒼河の部屋中に放り出していた彼は、だがしかし数秒経ってから、目を大きく見開いた。
「って、ちょっと……ここ、どこ!?」
ようやくトカゲ男の思考も少しだけ回ったらしい。自分が全く見知らぬ部屋にいることに気付いた彼は、ものすごい勢いで飛び上がる。
が、その勢いで後頭部を本棚にぶつけてしまい、トカゲ男は再び沈黙した。悲鳴すら上げずに倒れた辺り、打ち所が悪かったらしい。
(今のは痛い……)
「~~~~っ!!」
尻尾がバタバタと暴れ、悶絶しているトカゲ。リザードマンと言えば、人間より遥かに強靭な肉体を持っているのが常だが、少なくとも目の前の彼は、本棚でも十分にダメージを受けるらしい。
「……だ、大丈夫か?」
「ご、ごめん……大丈夫じゃ、ない……ちょっと、待って……うぅ」
そんな様子のせいか、思わず声をかけてしまう蒼河。さすがに警戒したままではあるものの、どことなくコミカルなトカゲ男の言動に、最初に抱いた『危険なモノじゃないか』という印象は急速に薄れつつある。よくよく考えれば、衣服を纏っている時点で文明的な生き物なのではないだろうか。
それに対する相手の返答には数秒の間があった。本人はそれどころではなさそうだが、やはり穏やかな少年の口調だ。さすがにまだ、近付いて介抱する気にはなれない。
「く、クラクラする……何なのさ、いったい……」
起き上がるまでには1分ほどかかった。その見た目は確かに爬虫類だが、純粋にトカゲかと言われればそうでもなく、ワニや恐竜のようにも見える。頭頂部から背中にかけては赤い毛が伸びていて、後ろを少し結んでいる。恐らく今まで『自分の部屋』にいたのだろう、服装もゆったりとしたジャージだ。
もしもトカゲの特徴を取っ払えば、その辺りを歩いていそうな普通の青年にしか見えなかった。無論、そのトカゲの特徴が凄まじく大きな要素ではあるのだが。
追加の痛みにまた涙目になっているトカゲ男は、改めて周囲を見渡し、最後に蒼河のほうを向いた。反射的に蒼河は少し後ろに下がり、その反応に相手も身を固めた。
「え、えーっと、ここは……どこ、でしょう?」
「そ、その。ここは俺の部屋で、君はいきなり、出てきたん、だけど……」
「……いきなり? いきなり……って」
「あの、さ。君は、どうして、俺の部屋に……いるんだ?」
もっと他に聞くことがあるような気がしてならなかったが、相手の質問に合わせるように、まず出てきたのはそれだ。
蒼河の言葉を聞いた相手は、自分が不法侵入の立場であることを悟ったのだろう。顔からさっと血の気が引いた……ように蒼河には感じた。鱗が鮮やかな翠色なので実際は分からない。
「ご、ご、ごめんなさい! そ、そんなつもりは無かったんだけど、何か……そう、事故みたいで! そ、そんなに怖がらないで、怪しい者じゃないから!?」
「い、いや……(と言うか、完全に日本語……)」
これがもしも、全く未知の言語を扱う存在であれば、蒼河は恐慌にかられて逃げ出していたかもしれない。しかし、彼の口から出てくるのは、蒼河にとっても慣れ親しんだ言葉であり、意味も分かる。
「って、人の家に勝手に現れたんだから、そりゃ、怪しい……よね。す、すぐ出て行くから!」
どうやら、向こうもパニック状態らしい。慌てて弁明しつつ部屋から出ていこうとするが、そこで蒼河も我に返り、呼び止める。
「あ、ま、待った!」
「え、え?」
このトカゲ男が街に出ていけばどうなるか。考えるまでもなく、大混乱が起こる。彼に誰かを害するような雰囲気は無いが、どう転んでもろくな事は起きないであろう。
蒼河は少しずつ冷静になってきた。衝撃が大きすぎて、逃げたりするタイミングを逃したせいもあるが、そのおかげかゆっくりと事態を呑み込め始めた。呑み込まざるを得ないと言うべきか。――無論、あくまで少しずつであり、混乱中なのは間違いないが――
「ま、待って。その、君が今出ていったら大変な事になるから……」
「大変なこと? ……外で何かトラブルでも起こってるの?」
「そ、そうじゃなくて、君が人に見られたら大変だろ!?」
「え、ええ?」
蒼河の言葉に、相手が真剣な表情になる。どうやら、自分が原因となり大変なことが起こるという可能性がすっぽ抜けているらしい。
状況を理解しきれていない相手と、そもそも理解できない事態が連続している蒼河。だが、蒼河はここが自宅であり、自分が一人暮らしでないことを失念していたようだ。
「どうしたのぉ、蒼河?」
「あ……!」
母の声が聞こえてきたことに、蒼河は声を上げる。トカゲ男も、第三者の声に、扉の方へと向き直る。そして、制止する間もなく扉が開く。
『………………』
母とトカゲ男の目が合う。そのまま数秒ほど時間が静止した。何となくまずそうな空気を察している様子のトカゲ男と、入ってきたままの状態で止まっている母。蒼河が何とか取り繕う言葉を必死で思考している中、真っ先に沈黙から解けた母の開いた口から出た言葉は。
「あらあら、蒼河。お友達が来ているなら早く言ってくれたら良かったのに」
『…………………………』
こうして、母のせいで一気に弛緩した流れのままに、トカゲ男はいったん客室へと招かれることとなった。