落ちてきた〈異形〉
「それでは、今日はこれで終了。資料を配るので、来週までにレポートを……」
(……どうするかなあ)
東京の一角にある、とある平凡な国立大学。
本日最後の講義が終わり、学生達が思い思いに散り始めた講義室。そんな中、青年は席についたまま、ぼんやりと考え事をしていた。
その青年を一言で形容してしまえば、どこにでもいそうな男、である。中肉中背、そこそこに整った優しげな顔立ち、少しクセのある健康的な黒髪は染めた経験などない。流行りの服などには疎く、冬場の今は適当なインナーにパーカーを羽織っただけ、という格好が多い。
全体的に中の上だが、これといった特徴もない。だからと言って存在感がないと言う事もなく、友達思いな性格から交友にはなかなか恵まれている、そんな青年だった。
「はあ……」
「相葉、何やってんの? もう終わったぞ」
「ん……? ああ、いや、ちょっと考え事しててさ」
同期生達の声で我に返り、机の上を片付け始める。だが、その作業をするだけでも心ここにあらずといった様子で、腕を止めては溜め息をついている。露骨に様子が変な青年に、友人達も困惑気味だ。
(結局、この三日間くらい、何も分からないままだなあ。さて、どうしたもんだか……)
「おい、相葉! 相葉ってば……」
「あ……っと、ご、ごめん」
「ほんとに上の空じゃんか。なんだ? 女の子とトラブルにでもなったんか?」
「天野がいるからそりゃ無いだろ。あ、それとも天野とケンカしたか? この甲斐性なし! って」
「いや意味分かんないから……待たせたな、行こう」
裏声で彼の幼馴染みを真似てくる友人を小突きながら、相葉と呼ばれた青年は立ち上がる。体調が悪いわけでもなさそうだ。
「けど実際、何か困ってんの? 今回のレポート難しすぎ、とか?」
「お前じゃねえからそりゃねえだろ。いっつもコピーなり丸写しなりのくせに」
「いやいや、それはそれで交渉が必要なんだぜ? 賄賂渡したりで金もかかるし」
「仕送りで全部済ませてるボンボンが何言ってんだ! 実家通いでもちゃんとバイトで稼いでる相葉を見習えっての」
「つってもこの前辞めたんじゃん? だから今は同レベル……って、んなことより悩みでもあんなら聞くぜ?」
「逃げやがったなこいつ」
「あー、うん、そうだな……ひとつだけ聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
いつも通りの軽口の中、やはり心配はされているらしい。少しだけ考え込む素振りを見せた青年は、どうせなら数撃ってみることにした。二人の友人に向かい、こう投げ掛ける。
「〈架け橋〉って何か……知らないか?」
『………………』
数秒の沈黙。聞かれた二人は顔を見合わせるが、青年が特に言葉を続けないのを確認して、片方がおずおずと返答する。
「架け橋は……橋じゃ、ねえの?」
「……うん、まあ、そうなるよな。悪い、気にしないでくれ」
「お、おう……?」
細かく説明する必要はなさそうだと悟り、青年は話を打ち切った。意味が通じる相手なら、今の質問だけで反応を示すはずだと言うのが、青年にこの質問を託した『彼』の見立てであった。
――青年がいったい何をここまで悩んでいるのか。
その理由は、先週末にまで遡る――
土曜日の夜。青年・相葉 蒼河は、休日を自分の部屋でのんびりゲームしながら過ごしていた。
決してインドア派というわけではないが、本を読んだりゲームをしたり、ゆっくりと遊ぶのも昔から好きだった。特に好んでいるのはRPGや冒険小説などで、現実離れしたような物語ほど、逆にその世界に入り込みやすかった。
今プレイしているのは、蒼河が小学生の頃からやっていたシリーズの最新作だ。先週に発売されたばかりのそれを発売日に買ってきてから、学業の合間に日課のように進めている。
「……おっ、落ちた! これで依頼達成っと……」
目当てのアイテムがドロップしたことに、思わず独り言が漏れる。今はサブイベントを消化していて、報酬がとても美味しいぶん手間のかかるレアアイテムをいくつも要求されていた。一時間近い格闘の末に、その最後のひとつが手に入ったのだから喜びもひとしおだ。
こういう時にはまず落ち着いてセーブが基本だ。喜びいさんでクエスト達成しようとした時に限って、よく分からないミスや突然のボス戦などで泣く泣くリセットする羽目になることはよく知っていた。
(ふう。ちょっと休憩するかな)
一段落ついたので、セーブが完了してからいったん電源を落とす。蒼河はもたれかかっていたソファから身体を起こして、飲み物でも取りに行こう、と起き上がった。母が冷蔵庫にジュースを入れたと言っていたのを覚えている。
時刻は午後8時。明日も休みなので、夜ふかしをしても特に困ることはない。先月にバイトを辞めてから、生活リズムが瞬く間に崩れてきた事に危機感がないわけでもないが、せっかくなので次の仕事を見つけるまで自由を謳歌しよう、という開き直りの方が強い。
平凡で、退屈で、それでも悪くない日常。蒼河はそれが好きだったし、飽き飽きもしていた。何か面白いことが起きないかな、などとたまに思考を巡らせてみても、家でゲームしてて変わったことなんて何が起きるんだよ、と苦笑する。
今日もまた、そんないつも通りの日々が終わっていく。はず、だった。
(…………ん?)
突然、何となく奇妙な感覚にとらわれ、蒼河は動きを止めた。耳鳴りのような、どことなく不快な何か。長いことゲームしていたから立ちくらみでもしたかな、と軽く首を振る。
しかし、違和感は消えない。と言うよりも、どんどん強くなっていく。明らかに耳鳴りや目眩とは違う、と蒼河が気付くのに、そこまで時間はかからなかった。
(何、だ……?)
そして、奇妙な感覚が強くなると共に、『どこから』それを感じ取れるかも分かってきた。吸い込まれそうなその気配は、間違いなく『上』から――
「…………え」
――蒼河の部屋の天井から――より厳密に言えば、そこに『ある』モノから、その感覚は発せられていた。そして、そこにあるモノを見てしまった蒼河は、思わず間抜けな声を漏らした。
(何、だよ……コレ)
天井を見上げたまま、固まる。蒼河には、そこで起こっている現象を、正しく言葉にすることができなかった。衝撃に思考が麻痺する。幻覚かと思って一度目元をぬぐってみても、光景は変わらなかった。
敢えて見たままに言うならばこうだ。『天井で、淡い青色の光が渦巻いている』。
それが果たして本当に光と呼んで良いのかは、蒼河にも分からない。青白く小さなスパークを起こしているそれの周囲には、溢れた光が球状になって回転している。それはどこか、以前に宇宙の本で見た、ブラックホールに似ているような気がした。
(この部屋の電気、こんな仕掛けあったっけ……って、そんなわけあるか! じ、じゃあいったい……)
あまりの事態に現実逃避しそうになるが、頭を振ってそれを振り払う。あれは電灯の光などとは根本的に違う、もっと異質な何かだ、ということだけは直感的に分かった。だが、事態は蒼河がそれ以上を考える時間を与えてはくれなかった。
「……あっ!?」
何かが、渦から出てきた。それに気付いた直後には、それはそのまま重力に従い、蒼河の部屋へと落下する。かなり激しい音が、部屋に響いた。幸い、下には何もなかったので被害はない、が。
「――――!!」
何かを落としてから間もなく、光の渦は役目を終えたと言わんばかりに霧散する。しかし、蒼河の視線は既に天井から離れていた。
蒼河は最初、それを人間だと思った。ヒトが光から落ちてきた、と。それだけでもパニックを起こしそうなものだが、すぐに彼の思考はそれを通り越して完全に凍りついてしまった。
「な、なぁ……」
不可思議な光の渦から降ってきたモノ。それは確かに、ヒトの形をしている。衣服を纏い、二足歩行するであろう骨格に、蒼河より少し大きい程度のサイズ。だが、蒼河がそれを人間であると思えたのは、ほんの一瞬。
(……と、かげ……?)
――どこからどう見てもトカゲの頭部。身体を覆うエメラルドのような色の鱗に、逞しく太い尻尾――その全身に表れているのが、まごうことなき爬虫類のそれであったからだ。