すべての始まり
高い足音が、辺りの空間に響く。
白い回廊を静かな足取りで歩く一人の女性。建物の中には、肌で感じられるほどに荘厳な空気が満ちている。だが、彼女にはそれに物怖じする様子は見られない。
否、彼女がいるからこそ、宮殿が神々しく見えるのかもしれない。そう思わせる程に、女性は高貴な気配を漂わせていた。
(ここに来るのも、久しぶりですね。正確には、外に出ることが、ですが)
知人を訪ねることすらままならない自分の身に小さく息を吐くが、今はそれを気にしている場合ではない、と思い直し、足を進める。この宮殿の構造は細部まで記憶していた。やがて彼女は、絢爛な装飾がなされた扉の前で足を止めた。
「私です。入っても構いませんか?」
彼女の声は、その外見にふさわしく、聖母のような慈愛に満ちたものだった。そして、返事の代わりに扉がゆっくりと開く。
扉の中は、煌びやかな大広間であった。その美しさは、どこぞの王宮にも劣らないだろう。その部屋の最奥には、短い金髪に蒼い瞳、きらびやかな衣装を身にまとった美しい青年が佇んでいた。
「よくぞいらっしゃいました、我らが主よ」
青年は立ち上がると、女性の前まで歩を進める。そして、その端正な顔に笑みを浮かべ、彼女に対して低頭した。
「そう畏まる事はないと、いつも言っている筈ですよ。頭を上げて下さい」
「承知。……突然の事で、驚きました。わざわざ足を運ばせてしまい、申し訳ございません」
「いえ。こちらこそ、事前に連絡もせず来てしまってごめんなさい」
礼節は保ったまま、男性は少しだけ口調を崩す。二人は長い付き合いであり、お互いの性格もよく理解していた。男性が立場を重んじる事も、しかし女性が堅苦しすぎる振る舞いを苦手とする事も。だから、二人は付き合いの中でお互いに程よい距離感を見付け、それを保っている。
「しかし、今日はそちらの姿なのですね。最近はその方が多いと、従者の方も言っていましたが」
「宮殿で暮らす分には、こちらの方が都合が良いですから。私達の一族を奉る為の建築物とは言え、人の手で造られた以上は仕方ないのでしょう」
「ふふ。あなたの噂を聞いてやって来た者は、今のあなたを見たら卒倒するのではないですか?」
「……私は別に見世物ではないのですがね。しかし、主よ。今日は如何されたのですか?」
しばし、穏やかな空気の中で二人の会話は続く。だが、青年のその問いが、そんな時間に幕を引いた。女性の雰囲気が、がらりと変化する。
「何者かが、〈狭間〉から力を抽出した痕跡が見付かりました」
「…………!」
男の表情が、一気に険しくなる。女性が発した言葉の意味を、すぐに理解する事が出来たからだ。
「ここ最近、おかしな気配を感じてはいたのです。本来はこの世界に有り得ないような、力の流れを……それが確かなものとして感じられたのは、数時間前の事です」
「……しかし、狭間は我らにすら制御出来はしないもの。何者が、そのような事を?」
「分かりません。ですが、このまま放置すれば、恐らくはさらに大きな力を求めるでしょう。予感があるのです……世界のどこかで、ひたすらに強まっていく悪意を」
彼女の『予感』が、他の者が語るようなそれとは全く違う意味を持つ事を、男は知っている。だからこそ、事の重大さは嫌でも察するしかなかった。
「今日、ここに来たのは他でもありません。ゲートの封鎖の為、あなたに力を貸して欲しいのです」
「! …………確かに、私と貴女ならばそれも可能ですが……いえ、分かりました。すぐさま、準備を行いましょう」
少しだけ躊躇うような様子を見せながらも、すぐにそれしか方法が無いだろうと思い直し、青年は女性の頼みを了承する。それに礼を返しつつ、女性は言葉を続けた。
「〈架け橋〉には連絡を行いますが、相手がどこに潜んでいるか分からない以上、最低限に済ませるべきでしょう。そして、封鎖が成立するまでの間、境界は不安定になる。乱れた時空に飲まれる者が出ないよう、細心の注意をお願いします」
「そうするしかありませんか……万全を期して、信頼出来る配下に手を回しておきましょう」
「頼みましたよ、人々の安全が第一です。私は、独自に相手の事を探るつもりです。貴方も、何か異常を感知したら、すぐに報告してください」
「御意」
封鎖は、敵に次の手を打たれない為の手段にすぎない。同時に、相手もこちらの動きにはすぐに気付くだろう。これから始まる事の重さを考え、女性が軽く俯いた。
「恐らく、人々の間に混乱は避けられないのでしょうね。私の勝手な判断で世界を混乱させるなど、本来は許されない事ですが……」
「しかし、その者を放置すれば、何が起こるか分かりません。だからこそ、貴女も決断したのでしょう?」
「ええ。しかし……やはり、悔しくもあります。人々に語られる程の力が私にあれば、或いはもっと上手く解決に導く事も出来るかもしれないのに」
「それは私も同じ事です。貴女が悔やむ必要はない、主よ。貴女は、世界を護る為に力を尽くしているのですから。それを責める資格など、誰にもありはしない」
「……ごめんなさい、弱音を吐いてしまいましたね、ゼオ」
女性が侘びると、ゼオと呼ばれた青年は、無言で首を横に振った。彼は彼女の立場を理解し、その心情を誰よりも察している。むしろ、そんな彼女が自分に弱音を吐くほど信頼されている事は、彼にとって誉れだった。
「では、準備が完了したら、連絡を下さい。私も支度をしますので、名残惜しいですが、これで」
「はい。……いえ、少しお待ち下さい」
立ち去ろうとする女性を、男が何かを思い出したように引き止める。怪訝な顔をする彼女に近付いたかと思うと、男は懐から取り出したものをその首にかける。
「これは……」
「このような時に引き留めて、申し訳ありません。しかし、次にお会いした時に渡そうと思っていたもので。会える機会も、少ないですからね」
男の手から渡されたそれは、ペンダントであった。銀色のチェーンに、何かの鱗のような物が取り付けられている。だが、その鱗は、どんな宝石でもかなわない程の美しさを持ち、太陽の如く眩い輝きを放っていた。
「無礼だとは思いましたが……貴女の為に作ったものです。私の代わりとしてお持ちいただければ、光栄です」
「……ありがとうございます。無礼などとは思いませんよ。凄く、嬉しいです」
女性は輝きに見入るかのように、そのペンダントを眺めている。彼女には、この鱗が何であるかが分かっていた。だからこそ、彼の想いが伝わり、嬉しいのだ。
「私が主たる貴女に尽くすのは、当然の事ですが……喜んでいただけたのならば、光栄です」
「主、ですか。それだけ、なのですか?」
「……貴女の為に生きるのが、私の望み。それでは、御不満でしょうか」
「……いえ。無粋な事を言いましたね。忘れて下さい」
彼女の意図に気付きながら、青年はあくまでも従者として女性に接する。それが今の自分達のあるべき関係なのだと、そう言い聞かせて。女性も、自分の役割と彼の立場は分かっているのだから、それ以上を求めはしなかった。ただ、最初にここに来た時と同じような、慈愛に満ちた笑みを返す。
「私達の世界を護る為、互いに力を尽くしましょう。頼みましたよ……〈霊獣皇ゼオグラント〉」
「御意。御身に星の加護を、アルフィナ様」
二人の決断が招くものを。そして、彼らが阻止すべき、世界に忍び寄る悪意を。この時はまだ、誰も知りはしなかった。