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四章  あいする

 一度崩壊したものは、もう元には戻らない。


 時は瞬く間に過ぎ、色づきはじめていた木々は、鮮やかに色を変え、そして、落ちていく。そして、外を見れば雪がしんしんと降る季節になっていた。

「ウェルリーズ様。」

 読みかけの魔道書を膝に乗せたまま、窓の外を見るともなく見ていたウェルリーズは、その声に引かれるように、そちらの方を見た。

「エレイン。」

 ウェルリーズはほと微笑んで、茶をのせた盆を持つ侍女を部屋へと向かえた。彼女は、あの秋の日を契機にウェルリーズの元へとやって来た、王妃付きの侍女だ。なんでも、女だてらに剣や魔術の腕が立つらしく、寝所まではおいそれと踏み込めない兵たちの代わりに、とウェルリーズに宛がわれたらしい。もっとも、彼女が王妃付きとなって、早数ヵ月が経っているが、未だにその「腕が立つ」場面に、ウェルリーズが遭遇したことはないのだが。

 だが、それ以外、つまり侍女としても彼女は非常に有能で、ウェルリーズの信頼の寄せる近しい侍女の一人になっていた。

「何を見ておられたのですか?」

 エレインがゆっくりと茶の準備をしながら、ふと思い出したようにウェルリーズに訪ねた。

「特には。……ただ、月日が経つのは早いなぁ、って。」

 リアンが矢で射られ、そしてエレインと会ったのは秋口のことだ。それが、外を見れば真白の世界が広がっている。

 結局、リアンを射た首謀者はまだ分かっていない。いや、実行者は見つかったのだが、見つかった時にはすでに死体となっていたらしい。口封じとして雇い主から殺されたのだろう、とされている。まだ調査は続いているらしいが、その成果は芳しくないという。

 その時、ふとテーブルに目をやると、カップが二つ用意されている事に気が付いた。エレインに問うような視線を投げると、彼女は何も言わず微笑んだ。

「……そう。」

 困った様な、それでいて嬉しいような声で、エレインに頷く。その微笑みだけで、彼女が何を言いたいのかなど分かる。

 彼女は知っている。ウェルリーズとリアンの間に横たわる、不毛な関係について。

 茶器の用意を終えたエレインが部屋を出て行くのを見送ると、ウェルリーズも膝の上の本に栞を挟んで、別の所へ置いた。

 そしてほどなくして、部屋の扉が静かに開けられる。ウェルリーズは思わず立ち上がって、そこから部屋の中へと歩み寄る、優しい闇色を見つめた。その瞳が優しく笑みを湛える。

「リアン。」

「会いたかった、リーズ。」

 口付けを交したあの日以来、彼だけが呼びはじめたウェルリーズの愛称を、リアンはひどく愛おしげに呼び、一瞬後には、ウェルリーズはリアンに腕を引かれ、彼の腕の中へと収まっていた。

 リアンはウェルリーズの頬に軽い口付けを落とす。そして、もったいぶるように一拍おいてから、その唇を彼女のそれに重ねた。啄むようなそれだけをして、リアンはウェルリーズの手を引いて奥のソファに腰を下ろす。そしてウェルリーズも隣に引き寄せる。

「今日はどうしたの?」

「会いに来ては駄目?」

 甘い声でそう囁きながら、リアンはウェルリーズの手を、壊れ物でも扱うかのようにそっと持ち上げて、その指先にまた唇を落とす。

 あの日以来、リアンはこうしてウェルリーズに愛を囁き、軽い触れ合いをする。彼なりに一線を引いているのか、これ以上のことはされなかったが、くすぐったいものは感じていた。屈託の無い好意は、はじめはウェルリーズを戸惑わせ、そして、次第にそれを嬉しく思うようになっていた。

 だが、それでもリアンの「会いたかった」などと言う言葉に、「私も」という簡単な言葉すら、返すことを躊躇って、未だに何の言葉も返せていない。

「駄目ではないの……。」

 ウェルリーズは自分の手に触れるリアンの指を見つめながら、小さく首を振った。

 今だって、「来てくれて嬉しい」、そう言えないのだ。

 もしこのまま平穏が続くなら、いつかはこの言葉に、気持ちを返せるようになるかもしれないのに。

 ウェルリーズはリアンに抱き寄せられるまま、その胸に身体を預けて目を閉じた。

 きっとこの平穏は続かない。

 リアンが射られたあの日、今まで抽象的に、漠然と抱いていた不安が、確かな命の危険という具体的なものとして、ウェルリーズに襲ってきた。それから、ウェルリーズは王家に対する占いの頻度を増やした。無意識だったが、数えてみると倍ほどに増えていた。

 平穏は続かない。それはこの占いの結果としても、確かに出ている。王、アザリス、リアン、そしてウェルリーズ自身、その四名共に、今から近い未来に、大小はあれど、良くない未来が待っていると出るのだ。

 誰かに相談しようかと思ったこともある。だが、口に出せば本当になりそうで、怖かった。だから、今上の占い嫌いを理由に口を噤んでいた。

 今、ゆっくりとウェルリーズの髪を撫でるリアンの手。それを失わないためには、どうしたら良いのだろう。

「……リーズ。」

 その時、ふとそのリアンの手が止まり、ウェルリーズの名を呼んだ。ウェルリーズは閉じていた目をうっすらと開けて、もそりと身体を起こした。

「『今日はどうしたの』って、聞いたね。」

 ウェルリーズはぱちぱちと目を瞬かせた。その問いの意味を推し量れぬまま、ええ、と困惑気味に頷いた。

「頼みがある。」

 ウェルリーズは、改まってどうしたのか、と思いつつも、うん、と頷いた。

 だが、リアンはすぐに本題に入ろうとはせず、ウェルリーズの瞼に触れて、ぎゅっと抱きしめた。そして、耳元に顔を寄せ、その行為に似つかわしくない苦い声音で、『頼み』を囁いた。

「明日、アブミット公と会ってほしい。」




「ご機嫌麗しゅう、王太子殿下。御加減はいかがですかな。」

 そう言いながら入ってきた壮年の男を、アザリスは自室へと迎え入れた。まだ昼前の時間であったが、血縁者故にこの時間に王太子の自室まで入る事を許されている。

 男の名はアブミット公爵ロドリスと言った。男は王妃ウェルリーズの父親。つまりアザリスにとっては外祖父にあたる男だった。

「御久し振りです、アブミット公爵。」

 アザリスは笑顔だけ浮かべ、祖父であるこの男を迎える。ロドリスもアザリスに笑顔を向け、その視線に答える。

「殿下、そんなに他人行儀にならずとも、昔のように呼んで下さってよいのですよ、おじい様、と。」

 アザリスはその言葉に笑顔を向けるだけで、何も答えなかった。

 白々しい……。

 アザリスはあくまで笑顔を崩さぬままではあったが、そう眼前の男の胡散臭い笑顔を見ながらそう思った。

 アザリスはこの男が嫌いだった。

 いつからこれほど嫌悪感を抱くようになったのかは覚えていない。確かに昔「おじい様」と呼んでいたころは、男の視線に落ち着かなくはあったが、嫌い、ではなかったはずだ。

 だが、いつだったか、男が自分を見る目は、愛孫を見る目、ではなく、都合の良い道具を見る目であることに気が付いてから、対面を避けるようになった。幸いアザリスには、病弱、という理由があった。

 体調を気遣い、近況を尋ねあう。それをどこか茶番のように感じながら、アザリスは上辺だけはにこやかに祖父と会話を交わしていた。

「ところで……、今日はどういった御用件で登城なさったのです?」

 アザリスは何気なさを装い、そう尋ねる。一番尋ねたい事ではあったが、何気ない世間話の一つとでもいうように見せかけるため、前に用意されている茶を一口含み油断させるように微笑む。

「貴方の様子を見に来た、とは思っていただけないので?」

 含むような笑いを浮かべ、ロドリスはそう言った。

 アザリスはその問いに嘲笑を浮かべそうになるのを、なんとか押しとどめ、可愛らしく小首を傾げ、そうなのですか、と言う。

 内心は嗤いだしたくなる気持ちでいっぱいだった。

 何の意図もなく、お前が登城したことがあったか、と。

 確かに、まだアザリスが幼かった頃は、頻繁に顔を見に来てはいた。だが、それにしても、「病床の孫を見舞う、優しい祖父」という印象を植え付けたかったからだろう。それに気が付いた時から、病気をうつしてはいけない、と理由をつけて、この男を遠ざけるようになった。

 それに気が付いて以来、注意深くこの男を見るようになれば、直ぐにこの男の目的など悟ることが出来た。

 この男はいずれ王となったアザリスの外祖父として、実権を握りたいのだ、と。そのためにはアザリスは「愚か」でなければいけない。アザリスが男の望む「愚か」な人間ではないと知れれば、この男は何をするか分からない。だから、アザリスは進んで「愚かな孫」を演じていた。

 こうして微笑んでみせるのも、その一つだ。

 ロドリスはいかにも残念げに溜息を吐く。

「いえ、実はこの後に予定がありましてね。……貴方の母君に面会を申し立てたのですよ。」

「………母上?」

 アザリスは思わず怪訝な顔で問い返す。

 この男が母上に用事……?

 アザリスは眉間に皺を寄せそうになるのを何とか押しとどめた。

 それくらい、予想外の事だった。

 アザリスの覚えている限りで、ロドリスがウェルリーズに個人的に会いに来たことはない。決して仲が悪い、という事では無い。アザリスを見舞いに来たロドリスと、ウェルリーズが同席する場面は今までに何度もあったが、険悪な空気など一切感じない。周りの目には、おそらくは親子仲が悪くはないと思われてたに違いないが、身内として二人を見てきたアザリスは、少し見解が違った。

 仲が良い、悪い、ではない。

 他人。

 その言葉が一番しっくりくる。「親子関係」ということに首を傾げたくなるほど「他人」なのだ。まるで、初めて会った、とでもいうように。

「殿下。貴方はあの方に関する噂、何か聞き及んではいませんか?」

 アザリスの怪訝な表情を気にした様子もなく、ロドリスはいかにも余裕、と言った様子でそう聞いてくる。アザリスは笑顔を浮かべたままのロドリスの真意が読めずにいた。

 今あの方、つまり王妃ウェルリーズに関する噂で、この男が気にしそうなことなど、一つしかなかった。だが、それは口にするのは憚られる類のものだ。その上、今はまだ、確証の取れぬしがない噂、というものに留まっているはずだ。

 それとも、アザリスが思っている以上に、広まってしまっているのだろうか。

「噂とは何のことですか?」

 動揺に震えそうになる声を落ち着け、どうにか平然としたまま尋ねる。

 あの噂、ではないと良い、そう祈るように思いながら。

 だが、その期待は儚く裏切られる。御存じありませんか、と薄ら寒い笑顔を浮かべたロドリスの目が、獲物を狙う猛禽のような鋭さをおびた。

「つまらぬ噂ですよ。……王妃はどこぞの男に懸想しておられる、という、ね。」

 アザリスは言葉に詰まったまま、男を見つめていた。

 どこか満足げに見えるその表情は、この部屋で守られるだけの愚鈍な王子に育っている事への満足感だろう。何も知らぬのか、と嘲笑う声が聞こえるような気がした。

 もちろん知らぬわけではなかった。相手の「男」が誰なのかも。

 ただ、もう言い逃れできぬところまで、あの二人は行ってしまったのか、と思ったのだ。




 アブミット公と会ってほしい―――

 昨日、リアンにそう言われたウェルリーズは、言われた通り大人しく、アブミット公爵、父ロドリスの到着を待っていた。

 とても気が重かった。それをごまかすためにために早めに客室に腰を落ち着けて、エレイン特製の良い香りのする茶を啜っていた。

 今はアザリスと会っているらしく、それが終わり次第来るとの連絡があったが、時間が遅々として進まない。かなり時間が経ってしまったような気がしているのだが、未だ湯気があがる茶は、そう時間が経っていない事を告げていた。

 暗い表情になっている事もウェルリーズ自身気が付いていたが、どうしても零れる溜息を抑えられなかった。

「お嫌ですか?」

「え?」

 ウェルリーズは隣に控えるエレインを見上げた。

 先程から頻りに溜息を吐いていたことが、当然ながらばれていたのだろう。こちらを見る彼女の目は、気遣わしげだ。

「……嫌、というのとは少し違うのかもしれないわ。」

 もちろん、父ロドリスの事だ。

 嫌、ではない。そもそも、嫌、になりようがないのだ。

「思えば、こうして二人で対面、だなんて初めてかもしれないわ。」

 ほとんど会ったこともないの、と続けると、エレインが息をのんだ。驚くのも無理はない。ウェルリーズは肩を竦めた。

 ウェルリーズはアブミット公爵の正妻の子だ。普通ならば、家の中で大切に養育されてもおかしくない立場。エレインの反応がまっとうな反応だ。

 だが実際は違う。ウェルリーズは五歳を数える頃には呪術寮管轄の、身寄りのない大きな力を持て余す子供たちが共同で暮らしている、いわば孤児院のような施設に暮らしていた。保護者が存在する子供がそこで暮らすのは、異例であるにもかかわらず。ウェルリーズはそこで力の使い方は勿論、読み書き、計算、そして貴族の娘ということで特別にあてがわれた講師に、上流貴族としての教養マナーなどを学んだ。

 これが、表向きのウェルリーズの経歴である。実際、五歳以降については全く偽りはない。

 だが、五歳以前、ずっとアブミット公爵領にいたとなっているそれは、偽りである。ウェルリーズがそこを離れたのは、三歳にも満たない時の事である。

 ウェルリーズは類稀なる呪術の才があった。もう物心つく前、いや立って歩けるようになるころには、すでに呪術を我が物として扱っていたらしい。

 だが、そんな娘の様子を気味悪がったロドリスは、娘を人として扱わず、三歳になる前に、乳母を一人つけて、遠い北の地に、乳母の生まれ故郷であったそこに、ウェルリーズを送った。

 五歳になって王都へと呼んだのは、貴族の娘としての利用価値に気付き、今のままでは使えない、と判断したからだろうと、ウェルリーズは思っていた。

 呪術寮にいたころは、本当に幸せだった、とウェルリーズは今も自信を持って言える。

 そして、家を出て以来、初めて父と対面したのが、十四の少し前の頃。つまりは、今上への輿入れが決まった時だ。

 その時の事は今でも忘れていない。

 ただ、この男が「父」なのか、と何の感慨もなく思った、あの瞬間の事は。

 何も感じなかったのだ。怒りや憤りさえも。あったとすれば、水に墨を落としたように広がる不快感。

 ただ、それだけ。

 それは、今も変わっていない。

 ウェルリーズはふぅと息を吐いて、こわばった身体から力を抜いた。

 その時、扉の戸が叩かれ、彼の男の来訪が告げられる。

 得体の知れぬ笑顔を浮かべた男が部屋へと入ってくる。

 背にじっとりとした汗が伝うのを感じた。




 ―――それでは期待していますよ。

 そう言って出て行った男を見送ると、ウェルリーズは身体から力が抜け、座っていたソファに深く沈みこんだ。

「なんてこと……。」

 顔を覆った手は、いっそ憐れなほど震えていて、ウェルリーズの激しい動揺を如実に表している。

 暖かく整えられているはずの部屋で、ウェルリーズは凍えてしまいそうだった。このまま倒れてしまえれば、どんなに楽だろうか。

 ウェルリーズは奥歯を噛み締め、零れそうになる涙を必死に堪えた。

 あの男を初めて憎く思った。心から憎く。


 時間はあの男、ロドリスがウェルリーズの元を訪れた頃に遡る。

 ウェルリーズの前に腰を落ち着けたロドリスは、形式的な世間話も飛ばして、いきなり本題に切り込んだ。

「実は、とある噂を聞きつけまして。」

 この男がわざわざ自分を訪ねて来た時点で、ある程度、ロドリスの話の予測がついていたウェルリーズは、一切表情を変えることなく、噂ですか、と素っ気なく返した。

「ええ。とある御方と……良い仲になっているそうではありませんか。」

 男は含み笑いでウェルリーズに探るよな視線を寄越す。やはりこのことについてか、とは思いつつも、ウェルリーズは男の視線に苛立たしいものを感じた。もっとも、それを顔には出さず、微笑みまで浮かべてウェルリーズはロドリスを見返した。

「一体……、何のことでしょうか?」

 白を切るウェルリーズに、ロドリスは一層笑みを深くした。気味が悪かった。

「隠すことはありませんよ、皆知っている事。―――リアン殿下との事ですよ。」

 ウェルリーズはあくまでにこやかに、少し困ったように眉を下げ小首を傾げながらも、内心は舌打ちしたいような気分だった。

 たった数ヵ月だというのに。そう思わずにはいられない。

 ウェルリーズ自身、少しずつ細やかな噂として広まりつつあるのは知っていたが、相手の名前までは割れていない、と思っていた。それが、こんなにもはっきりと、本人を前にして断言できるほどの信憑性を帯びた噂が、まわっているのかと驚いたのだ。

 ウェルリーズは頑なに知らぬふりを続けた。認めるわけにはいかぬからだが、なぜかその様子を見るロドリスは、一層、愉快げな顔になっていく。

 しおらしい振りをしながら、ウェルリーズは男の理解できない表情を窺う。

 真偽はともかくとして、王妃と王子の醜聞など、とんでもないもので、ロドリスが怒る理由はあっても、楽しげにしている理由はないはずだ。この醜聞が大事になれば、王太子の外祖父として次の権力を狙うこの男が、もっとも被害を受けるはずだからである。

 それなのに、何故……?

 そのウェルリーズの心の声に答えるように、ロドリスは口を開いた。

「否定なさるのは構いませんよ。そもそも真偽など重要ではないのですから。……要は、嫌疑を逸らしたいだけですからね。」

「嫌疑……?」

 意味が分からない言葉に、ウェルリーズは眉をひそめる。ロドリスは訝しげなウェルリーズの視線を受けると、悦に入ったような目を細めた。

「貴女にはしていただきたいことがあるのですよ。」

 どくりと胸が波打って、ウェルリーズは、はっと息を吐いた。

 嫌な予感がした。

「そう。リアン殿下の……暗殺、を。」


 それだけ告げると、ロドリスは静かに退席した。

 何か色々言っていたような気はするが、ほとんどウェルリーズの耳には入ってこなかった。

 リアンを殺せ、ですって……?

 あの男の言いたいことは、嫌になるほど分かった。あの男にとって今、唯一と言っていい障害は、リアンの有能さだ。今や王の侍従として、政局に大きく携わる地位にいるリアンは、彼がその気になれば、アザリスから王太子位を取り上げることなど、造作も無い事で、まわりもそれほど反発は起こさないだろう空気もある。

 要するに、あの男にとって、リアンは邪魔なのだ。

 そして、あの男が掌中の駒だと思っている娘は高位の呪術師であった。事実、ウェルリーズにはあの男が求めることが出来る上、今の状況を生かして、その罪を他者へなすりつけることも可能だ。

 可能ではある。だが、出来るかどうかは、別だ。

 ウェルリーズはぎゅっと目を瞑った。眦に涙が滲んで、顔を覆う手を濡らす。

 今すぐ、リアンに会いたかった。彼の優しく触れる指が恋しい。愚かしいことを言うあの男が憎い。胸が苦しくて、辛いのだ。

 ウェルリーズはほろと零れた涙を拭った。そしてその雫に濡れた指先を見つめ、そして悟った。

 ああ、私は確かに、彼を…リアンを、あいしてる。

 その想いは、なぜか胸を潰すような苦しみを。




 少し我慢を止めて泣いてしまうと、少しだけ気分が晴れた。部屋にいたエレインには、自分で奏上する、とひとまず口止めをすると、納得のいかぬような憮然とした表情になったが、結局彼女は承知してくれた。

 その後は、少し気分が晴れたとは言っても、あまり良い気分ではなかったので、自室で大人しくしている事にして、もっぱら暮れていく空を見つめながら過ごした。

 考えることはあった。どうやって、あの件を言おうか。そもそもまず、王か、リアン本人に言って注意を促すべきか、それから悩んでいた。ウェルリーズが実行せずとも、そのうち痺れを切らしたロドリスが何かをするかもしれない。いや、保険でもう既に手を打っている可能性もある。

 ウェルリーズは溜息を吐いて立ち上がった。今日は王の訪いがあるとのことなので、夜は王夫妻の寝室で眠る。寝支度をしてもらいながら、考え続けていたが、結局答えは出なかった。

 それよりも気になることがあり、集中できなかった、というのが本当の所だった。

 そして気が付くと、支度をしていた侍女たちも姿を消し、部屋にはウェルリーズ一人になっていた。小さなテーブルに寝酒に、と用意されたワインとグラスが二人分。ウェルリーズがエレインに頼んで用意してもらったものだ。甘めの白ワイン、ウェルリーズの好んでいるものの一つだ。ウェルリーズはそのグラスの縁についと指を滑らせ、小さく息を吐いた。

 本当は、あの、ロドリスからの話をするつもりで、用意してもらったものだった。だが、何度考えても、その話をする前に、話さねばならないことがあった。それは―――

 そのとき、寝室の扉が開き、寝着の王が部屋へと入ってきた。気遣わしげな表情の王に、ウェルリーズは微笑を返して、少し話を、と視線をやった。

 王がウェルリーズの前に腰を下ろすのを見ると、ウェルリーズは二人分のグラスにワインを注ぎいれ、そっと彼の方へ一つを押しやった。

「今日、ロドリスと会ったのだろう。……大丈夫だったかい?」

 王はワインを一口飲んだ後、ウェルリーズの顔を覗き込んだ。王も、ウェルリーズが父ロドリスを苦手としている事は承知しており、心配してくれていたのだろうと、ウェルリーズは思った。あやすように彼女の頭を撫でる、王の手のひらを感じながら、ウェルリーズは些か難しい顔で王の顔を見返した。

 ウェルリーズは、大丈夫です、と少しだけ表情を緩めて言ったが、また元の難しげな顔に戻る。

 王のこうした優しさは、とても嬉しい、胸をほっこりとさせるものだったが、この包み込むような優しさを受けるには、その前にはっきりせねばならないことがあると思った。

 ウェルリーズは、王の手をそっと除けると、立ち上がった。その時に肩にかかっていたショールがふわりと床に落ちたが、それを気に留めることなく、ウェルリーズは王の傍らに膝をついた。床に手をついて、椅子に座ったままの王を見上げる。

「陛下に、申し上げねばならぬことがございます。」

 ロドリスの事を言うのはこの後だ。その話のついでのように言うのは嫌だった。

「申してみよ。」

 ウェルリーズの突然の行動に、瞠目していた今上だったが、彼女の真剣な表情を見、いずまいを正し、足元のウェルリーズに向き直って、彼女を見下ろした。

 彼の王としての視線に射ぬかれ、思わず逸らしそうになる目線を必死に合わせたまま、ウェルリーズは口を開いた。

「好きな人ができました。」

 その言葉は、彼に告げるにはひどく子供じみたものに聞こえた。しかしこの一言は、ウェルリーズにはとても大きな一言だった。

 彼の誠実さに答える為に。

 それからどのくらいの間、見つめあったままだっただろうか。王は目を見開いたまま。微動だにせず、ウェルリーズを見ていた。ウェルリーズもそのまま動くことも出来ず、ただ、床に手をついたままの格好で、王を見上げていた。

 その時、突如王は立ち上がると、ウェルリーズの前に膝をついて、彼女を片手で抱き寄せながら、もう片方の手で、床に落ちたままのショールを手繰り寄せて、ウェルリーズの肩に掛けなおした。

「へ、へいか……?」

 彼に抱きしめられたまま、ウェルリーズは肩に掛けなおされたショールを胸元に手繰った。だが、王は何も言わず彼女を抱きしめたまま、肩を震わしている。

 彼はどうしてしまったのだろうと、ウェルリーズはおろおろとしながら、王に呼びかける。そうすると、突然王は「もう、だめだ」と呟いて、堰を切ったように笑い出した。

「へ、陛下! 私、真剣に……!」

 何がそんなに面白いのだ、とウェルリーズは笑いすぎで息切れを起こしている王の胸を叩いた。

「すまない、分かってるよ……。」

 はあはあと荒く息を吐いて、何とか笑いをおさめた王は、ウェルリーズの手を引いて彼女を椅子に座らせて、自身は床に膝をついたまま、ウェルリーズの手を握った。

「いつかこういう日が来たら、どう思うのか、ってずっと思ってた。恋人をとられた男のように嫉妬するのか、怒るのか、それとも逆に全くの無関心か……とね。」

 王は何を言いたいのだろう。彼の発言の意味を推し量りきれず、ウェルリーズは黙って言葉の続きを促した。王はまた笑いが込み上げて来たらしく、くつくつと笑いながら、話を続ける。

「だけど、実際言われてみたら。……嫉妬、なんだけど。嬉しいというか。そう、まるで娘を嫁に出す父親? のような……。」

 娘はいないから分からないけど、と続けながらも、王はまだ笑っていた。

 だが、今度はまだ早く笑から立ち直ると、今度は笑う、のではなく、ウェルリーズに微笑みかけた。

「怒ると思ったかい?」

 ウェルリーズは、どう答えたものかと暫く考えたが、結局は困った顔のまま首を傾げた。どういう反応をされるか、全く分からなかった。怒らないだろうと思っていたけれど、怒るかもしれない。苦言を呈すことはないと思っていたけれど、何か言われるかもしれないとも思っていた。そんな内心だった。

 そんなウェルリーズの思いを、正確に読み取った王は肩を竦めて微苦笑を浮かべた。

「怒らないよ。……あの日、言っただろう?」


 あの日、十四年前のウェルリーズが王の元へと輿入れをした日の夜の事だ。

 真白のドレスから同じく真白の寝着に装いを変え、当時十四歳であったウェルリーズは、極度の緊張に晒されながら、大きなベッドの上に座っていた。

 ほどなく部屋へと入ってきた王も、どこか強張った表情で、だが、それ以上に緊張で固まっているウェルリーズに優しく微笑みを向けた。彼とは式の時初めて顔をあわせ、実に二回目の対面、二人きりで顔を突き合わせるのは初めてだった。

 式の間は、まだ十四歳の、子供と言っていいようなウェルリーズを始終一人の女性として、優しく扱ってくれていた、二十四も年上の夫となる男性は、その優しい眼差しが、二人になっても変わらぬことに、とても安堵したのを、ウェルリーズは後になっても印象強く覚えていた。

 王はウェルリーズを初めて会った時から、一人前の大人として扱った。それは、ここにおいても同じで、彼は、ウェルリーズが想像する以上に誠実で、悪く言えば馬鹿正直な程だった。

 王はベッドの端の方に座っていたウェルリーズに視線を合わせるように、自身もベッドの上に座り、彼女の目を真っ直ぐ見て、はじめに言っておかねばならないことがある、と話を切り出した。

「私には他に愛する(ひと)がいる。だから、貴女を女性として、愛することは出来ない。」


 そして、その時王はこうも言ったのだ。

 もし貴女に愛する人ができたら、きっと一緒にいられるようにするから。


「……そうでしたね。」

 ウェルリーズは目を細めて、十四年前のあの夜を思い出した。

 もちろんあの言葉を忘れてしまっていたわけではなかった。だが、あの言葉は今も有効なのか、自信が無かったのもあったのだ。

 あの夜、王は「結婚したくないなら、しなくて良い」と言った。本当ならば、この日になる前に二人で話す場を持ちたかったのだ、とも。それでもウェルリーズは彼と結婚する道を選んだ。「妻」という名の、国を導く「同志」になることを。あの言葉は、その時に言われた言葉だった。

 ウェルリーズはこの人生を決めたとき、誰かを唯一の人として愛する事はしないと決めた。彼が所在不明の彼の愛する人を見つけ、傍に置かない限りは、自分も愛する人を傍に置く、つくることはしないでいよう、と。

 たとえ彼が許しても、ウェルリーズには「あの人」を愛する事は、王への、あまりにも正直な彼への裏切りになるような、そんな気がしていたのだ。

「へいか……。」

 ウェルリーズの頬を滑り落ちた雫が、彼女の手を掴む今上の手にポタリと落ちる。涙は次々と零れ、ぽたぽたと涙を落としながら、王を見つめた。

「私は、あの人を、好きでも…良いのでしょうか。」

 王は「あの人」を知っているのか。知っているのかもしれない。

 知らないかもしれない。

 ウェルリーズは「あの人」の名を告げぬまま、こうして問うのは卑怯だと分かっていた。しかし、名を問わない王の優しさに甘えて、ウェルリーズは口を閉ざしたまま、彼女の深い蒼の瞳を王に向けた。

 王はふっと微笑んで、ウェルリーズの背に手をまわして、彼女をぎゅっと抱きしめた。背にまわった手は、ぐずる赤子を宥めるように、ぽんぽんと撫でる。

「私が許す。」

 ウェルリーズは王の服をぎゅっと掴んで、嗚咽を漏らした。

 いつまでそうしていたのか、涙がひとしきり出て、赤い目ですんすんと鼻を啜るようになった頃には、ウェルリーズは抗いがたい睡魔に包まれていた。

 この方の前では、すぐに子供に戻ってしまうわ……。

 ぼんやりとぼやけはじめた視界で、彼をちらりと見上げれば、変わらぬ優しい笑顔で微笑んでいた。

 王はウェルリーズをそっと抱え上げると、ベッドへと運び、自身もその隣に横になって、ウェルリーズの肩まで掛布を引き上げた。

「おやすみ。」

 ウェルリーズは同じ言葉を王へと返したが、彼が聞き取れたのかは定かではない。

 ただ、彼の慈しむような微笑に安心して、ウェルリーズはそのまま夢の世界へと身を委ねた。

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