三章 背徳
その日の夜は慌ただしく過ぎていった。
ひとまず落ち着きを見せたのは、遠くの空が白み始めた頃。それまで、毅然と指示を飛ばしていたウェルリーズも、今はただぼんやりと、リアンの枕もとに座っていた。
夕刻、リアンが矢で射られたという報が城を駆け巡り、しかもその現場が城の内部である中庭、ということで城内は一時騒然とした。
あの場で倒れてから、リアンはずっと眠り続けていた。今は穏やかに息をするリアンを、ウェルリーズはじっと見つめていた。
リアンを射た矢に毒が塗られていた。
彼が目覚めないのは、その毒の影響だろうと、侍医は言った。幸い、解毒剤が効き、今はもう毒で死ぬ心配はないが、もう少し処置が遅れていれば、危なかったらしい。
ウェルリーズはリアンの手を両手で包み込んだ。彼の手は冷えていた。
だが、手首に触れれば、微かにそこが脈動している。
本当に良かった。
だが、ウェルリーズは思わずにはいられない。
自分があの場にいなければ、彼がこうして射られることは、なかったのではないか。
リアンが私を突き飛ばさなければ、こうして眠っていたのは、と。
ウェルリーズは、これ以上彼の手が冷えてしまわないように、より力を籠めて手を握る。
握っていなければ、消えてしまうのではと、怖かった。焦燥が胸を焦がす。涙も出ない程、憔悴していた。
ウェルリーズは、握ったリアンの手を額に押し付けるようにして、俯いた。
「早く目を覚まして……。」
暗闇の中の微かな灯にも似た、彼の手の微かな、微かな熱が、消えてしまわぬように。
リアンが射られた。その知らせを聞いた日の次の夕方、もう空が暗くなりはじめた頃のこと。
未だ意識のないリアンと反対に、珍しく体調の良かったアザリスは、これまた珍しく、苛立った様子で廊下を早足で進んでいた。
いつもは温和で朗らかな彼の、内から湧き上るような、一種冷たささえ感じるような、怒りの気配に、いつもならば声をかけてくる侍女達も、頭を下げるだけでそそくさとその場を後にした。
怒りに任せ、ずんずんと廊下を進み立ち止まったのは、彼の兄の部屋の前だ。だが、そのまま扉を開けることはせず、その前ですーはーと息を整え、まだ憤然とした表情ではあったが、ゆっくりと扉を開いた。部屋の主に怒っているわけではのだから。
アザリスは、するりと扉の隙間に身を潜らせ、また、ゆっくりと扉を閉じた。無音、という事はなかったはずだが、部屋の中の人物は、こちらに気が付いた様子はなかった。
ぼんやりと虚空を見つめる彼女は、聞いていたよりも酷い状況だ。
アザリスは努めてゆったりとした足取りで、そこにいる女性、母ウェルリーズの傍に近付いた。
「母上……。」
アザリスは絞り出すような声で、母に呼びかける。
そこでようやくウェルリーズは、闖入者の存在に気が付いたらしい。少し驚いた顔で、ウェルリーズはアザリスを見上げた。いや、もしかすると、常ならないアザリスの怒気に驚いたのかもしれない。
「ここで何をしているんですか、母上。」
アザリスの口から出た言葉は、自身でも驚くほど冷たく響いた。
その問いに、ウェルリーズは不思議そうに目を瞬く。
「……今日はあなたの所に行かなかったから? だから怒ってるの?」
ウェルリーズは暫く考えた後に、そう、見当違いのことを聞き返してきた。
アザリスは怒りで顔が引きつるのを感じた。
もちろん、アザリスとて、額面通りに「ここで何をしているのか」という問いを投げたわけではない。そんなことを、聞いたのでは。
だが、ウェルリーズはそんなアザリスの様子に気付く様子もなく、話を止めることなく続けた。
「ごめんなさい、貴方を忘れていたわけではないのよ。ただ……」
「―――そんな事を言っているんじゃないっ!」
アザリスは思わず声を荒げて、ウェルリーズの言葉を止めた。ウェルリーズもその剣幕に驚いたのか、びくっと肩を震わせて、言葉を切った。
アザリスは、はっと息をのむと、声を荒げてしまったことを恥じるように、視線を彷徨わせる。だが、未だ目を覚ます気配のない兄と、困惑した表情の母を見て、気を落ち着けるために一つ息を吐いて、ウェルリーズの前に膝をついた。そして、彼女の目を真っ直ぐ見上げる。
「母上。母上が、昨晩、ここに座ってから何時間経ったか、覚えておられるますか。その間、座って、兄上を見守って、呼吸をして……。それ以外のことを、何かしましたか。何か食べましたか、水は、ほんの一刻でも眠りましたか。―――何も、していないでしょう。」
アザリスの目には、昨晩、リアンの治療が終わり、兄の顔を見に来た時から、まるでこの部屋だけが、時を止めてしまっているかのように感じた。
兄の呼吸が少し楽そうにはなっている。だが、母は。
ウェルリーズは酷く悪い顔色になっていた。まるで、彼女の方が射られたかのようにだ。それを心配した侍女の一人が、報告に来たのがつい先程のこと。よくよく聞けば、リアンが倒れてから、食事はおろか、一睡もしていないという。
「でも……私………。」
リアンが射られたときの詳しい状況をアザリスは知らない。だが、どうやら、リアンがウェルリーズを庇ったらしい。少なくとも、ウェルリーズはそう思っている、それは確かだった。
「母上。」
おだやかに、ウェルリーズに呼びかける。ウェルリーズは苦しげに顔を歪めた。
「何か食べて、少しでも眠ってください。」
兄上が起きたとき、そんな顔色では心配されますよ、と、窘めると、ようやくウェルリーズは重い腰を上げて、わかったわ、とだけ言うと、部屋を出て行った。
部屋に一人残ったアザリスは、先程までウェルリーズが座っていた椅子に腰を下ろして、兄の寝顔を見つめた。
彼を診た侍医達も、まもなく目を覚ますだろう、そう診断した通り、呼吸も安定していて、恐らく今眠っているのは、体力の回復の為だろう。
だが昨晩は、やはりまだ、毒も抜け切れておらず、苦しげにしている兄の姿は、少なからずアザリスに衝撃を与えた。リアンが宮廷入りして以来、こうして倒れた事など、病気を含めて、全くなかったのだ。初めて見る彼の弱った姿に、おそらくは城の誰しもが驚いたに違いない。勿論ウェルリーズも例外ではないはずだ。
特に、自分を庇って負った傷だと思っているなら、なおさらだろう。
アザリスが休息を促してなお、食い下がったのは、そうした罪悪感からきているのかもしれない。
「罪悪感……。」
アザリスはどことなくその言葉に違和感を感じた。
確かに、ウェルリーズはリアンの怪我について、責任を感じているのは間違いがないだろう。だが、本当にそれだけで、ほぼ丸一日の時間を、寝食すらも忘れて、彼に費やせるだろうか。
その姿は、まるで……。
アザリスは、ふるふると頭を振ると、眠るリアンの傍に突っ伏すように顔を埋めた。
「早く帰って来てください、兄上……。」
貴方の不在は酷く心許ない。
アザリスにリアンの部屋から叩き出された後、仕方なく自室へと帰ると、そこにいたウェルリーズを休ませんと待ち構える侍女たちに捕まり、結局ベッドに身を横たえるまで、彼女達は部屋から出て行こうとはしなかった。
湯浴みをし、消化の良い食事をし、自分が疲れていた事には気が付いたウェルリーズだったが、きっと眠ることは出来ないだろうと思っていた。しかし、その予想に反して、ためしに掛布に包まってみると、急激な睡魔に襲われ、次の瞬間には意識を手離していた。
「ん……。」
次に目を覚ましたのは、夜半。まだまだ人は眠っている時間。
もぞっと身体を起こすと、まだ起き抜けの気だるさが身体に残っている。
二度寝は出来そうになかったので、そっと床に足を下ろすと、ひんやりと冷気が足を伝って上がってくる。完全に目が覚めてしまった。
布団から抜け出すと、少し寒く、薄手の上着を肩に掛け、そのままそっと部屋を出た。
部屋の外に出ると、さらに冷え込んでいて、室内履きしかはいていない足は、すぐ冷えてしまった。
どこに行こうと思ったわけではなかったが、気が付くとやはり、あの部屋、リアンの部屋へと足を向けていた。
音をたてぬように扉を開け、身体を滑り込ませると、部屋は暖かく整えられていて、夜風で冷えた身体にはありがたかった。
部屋にはリアン以外は誰もおらず、窓からさす月の光と、四隅に空調として置かれた火の魔石の放つ仄紅い光以外は、何もなかった。
ウェルリーズはそろっと部屋に鎮座するベッドへと近付いた。月の光に照らされ浮かぶように見える彼の顔を見つめる。その周りには闇にとけるような黒の髪が散らばっている。
リアンは昼間とそう変わった様子がなく、ただ、穏やかな顔で眠っていた。その様子にウェルリーズはほっと息を吐く。
どうしてこんなに不安で堪らないんだろう。
自分のせいで怪我を負わせた罪悪感か、義息に対する愛情なのか。
「駄目……。」
ウェルリーズはそこで首を振って思考を止めた。
自分のせいだという罪悪感があるからといえ、初めて見るリアンの弱った姿だからと言え、この気にかけようは、ほぼ丸一日、寝食も忘れてしまうのは、異常だ。
少し眠り、少しだけ冷静になった今。その異常ともいえる執着心に気が付かずにはいられなかった。
だが、これ以上は駄目だ。これ以上考えては。
ウェルリーズはぎゅっと目を瞑った。
これ以上は、きっと、気が付きたくない事に気が付いてしまう。
「―――。」
その時、規則的に聞こえていた、呼吸が途切れ、わずかに身動ぐ気配と、衣擦れの音が聞こえた。はっとウェルリーズが目を開ける。そして、こちらをぼんやりと見つめる、黒と視線が合う。
「―――リアン!」
上体を起こしたリアンに、ウェルリーズは堪らず首に腕をまわして、彼の肩口に額を押し付けるようにして抱きついた。
「―――っ…ぁ、……義母上?」
「良かった……。」
突然抱きついて来たウェルリーズに、最初はリアンも目を剥いていたが、程無く身体の力を抜いて、そろと彼女の背を撫で、その背に流された長い金髪を指に絡めた。
暫くそれきり黙ったまま抱き合い、ウェルリーズはリアンの体温を感じ、彼が生きている事に、言いようのない安堵を覚えた。
そして、思い出したようにそろっと身を離す。
「ごめんなさい。怪我、していたのに。」
そう言って少し離れようと思ったウェルリーズは、立ち上がろうとしたが、くんと髪を引かれ、その先がリアンの指に絡められているのを見ると、離れるのを諦めてベッドの端に腰を下ろした。
大丈夫ですよ、とリアンが柔らかく微笑む。その優しい表情に、ウェルリーズはさらに泣きそうなほどの安堵を覚えた。
ウェルリーズはそっとリアンの頬に手を滑らせる。彼の優しい闇色の瞳から光が消えていないことが、嬉しくてたまらなかった。
本当に泣きそうなほど。いや、ウェルリーズはすでに泣いていた。
最初に一滴流れ落ちると、それを追うように、後から後から涙が零れおちて、彼女の頬を濡らしていった。
リアンはウェルリーズの涙に瞠目して、目を伏せた。そして、自分の頬に添えられた彼女の手を取って、きゅっと握った。
「そんなに、心配させましたか。」
リアンの声は暗い。それはきっと、ウェルリーズの涙のせいだ。しかし、彼女にはそれを止める術が無かった。
止まって欲しいのに、涙は止まることを知らず、ぽろぽろと零れ落ちる。その泣き濡れた目でただリアンを見つめながら、涙を零す。彼に何を言えばよいのかも、分からなかった。
ただ、胸が苦しいのだ。
声が出ないほど。
身動ぎすらできない。
リアンはウェルリーズの手を握ったまま、伏せていた顔を上げた。その顔には苦い物が浮かんでいる。
「泣かないで。」
そう言って、リアンはあいている方の手で、ウェルリーズの涙をそっと拭った。
「貴女に泣かれたら、俺はどうしたらいいか、わからない。」
リアンの手つきはひどく優しくて、そして、暖かかった。拭いきれない涙が、リアンの指を越えて流れる。
「泣かないで……。」
涙を拭う彼の手が、その跡を辿るように、頬を伝って下へと降りていく。
そして、その手がそのままそっと顎を持ち上げる。
知れず目を閉じた。
「泣かないで。」
なにかが、こわれるおとがする―――
「ウェルリーズ……。」
それは、涙の味がした。