ママと他人の凄さ
太陽の赤く円い柿のような輪郭は、仄かに波打つ水平線にすっかり落ちて、少しだけ明色を残した、しかしほとんど藍色の空が、その小さな波に重なるように、寂し気に、感傷的に、その水平線に俯せている。横に曳く雲は、気まぐれな風に流されながら、時期に訪れる夕闇の別れを仄めかして、ほとんど黒く、闇に溶け込もうとしていた。
砂浜に次々と押し寄せる波と共に、風と潮騒が力強く、何度も何度も、まるで私の顔に冷水を浴びせかけるように吹き去った。腑抜けた唇に引っかかった煙草は、猛々しい風に紫煙を吹き散らし、時折私の顔にもその白い靄をふっかけてくる。その都度私の鼻は、煙草の、あの不快にも落ち着くような香りを捕らえて、私の心に平常の気分を取り戻そうと努力している。
煙草の先が少しずつ燃えて、十分に時間が経つと灰は自然と風に攫われる。ジャンパーに少しだけ灰が被るが、わざわざ気にするほどでもない。私の瞳は、定常的に迫りくる波の模様を捕らえて離さない。耳は、びゅうびゅうと吹き荒ぶ風と波の音を聞き入り、鼻が、今は忌まわしい合法ドラッグの香りを除いて、潮の香りを強く感じている。
左斜めに静かに浮かぶ月があった。半月ぐらいで、夜のワルツが始まるにつれてその金色の輝きを強く放ち始めている。ほとんど真っ黒になった海面は、忙しなく波打ちながらその光を細切れに跳ね返している。あたかも、イワシの群れが浮いているような、しかしそれは生命を感じさせる漂いで、神秘めいたものが私の目を引く。
私は煙草をふかしている。胸ぐらいの高さの堤防に肘を掛けて、人が存在的に沈黙する砂浜を眺めている。ここに来たのは、心を落ち着かせるためだ。私は、心にどうしようもない逼迫が押し寄せたときにここに頼る。夜に月が出る頃を見計らって、この雰囲気を仰ぎに来る。ここはとてもいい場所だ。夜には、めったに人が来ない。一応堤防に沿って車道は存在するが、私以外ならば、そもそもこの場所に訪れるよりは別の場所に行った方がいいだろう。そこまで景色が変わるわけでもないし、何より私のようにわざわざ狭い路地を縫ってここに来る必要もないだろう。
ここはとても落ち着く。そうだ、悲しみは海と月が全部吸い取ってくれるのさ。風が攫ってくれるのさ。音が掻き消してくれるのさ。この景色は常に私が求めているもので、精神的に、私がここに訪れなかった日は無い。赤ん坊がママの乳首を吸啜するように、私もここに来て、幻想的な海と月と風の調和を眺める。
煙草の火は深い呼吸に明滅し、やがてずいぶん短くなった。先っぽを堤防に擦り潰して、足元に落とす。赤ん坊がママの乳首を吸啜するように、私も普段の生活に煙草を吸啜している。私にとって吸啜の欲は永劫抗えぬものであるらしく、どこでも煙草を口にして、その事実を認める度に、瞼の裏はママを求めて月と海を夢想する。
煙草の鎮静作用が抑えきれなくなったら、もう私はここに来る他ない。ここに来る他が無かった。
これは『もし』の話だが、――念押しするが、これは『もし』の話だ。いいか。
もし、自分が一生を手掛けて作りたいと思った物が、既に誰かの手によって為されていたとしたら――。
私は、他人が私と同等に思慮深いことはおろか、それ以上に思慮深いことを経験上知っている。だから、この事実が、それなりに頻発し得ることを、私は受け入れなければならないだろう。そうだ、これは普通のことだし、同じ時代に生きる人間が、私と同じように考えるのは全くおかしくない話であるのだ。
そういうことだ。その時、もし私が嫉妬をするならば、私は彼等の思慮深さを自分の二倍三倍先を行く事実を認めなければならないだろう。もし、私が残念がるに留まるならば、私は、その経験を乗り越えて新しい作品を創作するほどに、強い心を持っているだろう。もし、私が彼等を誉めるに至るのならば、私はきっと煙草を吸わないだろう。
そういうことだ、私は、もしそうなったとき、その内のどれを感じるのか、考える気は起こらない。どうして私は海に来たのだろう、という、その裏に隠された事実を、波に浮かべて去っていくことしかできない。
勘違いしてほしくないのは、これがあくまで『もし』の話であるに過ぎないということだ。私は、その有名な本、わりかし昔の本を開いて、ちらっとその一文を眺めたときに……その先を私は知らないし、ただの思い違いなだけかもしれない。
ただ、私は動揺して、こうして海に来て、月を仰いで、少しだけママの乳首を吸っていた。おしゃぶりはとても落ち着いて、全ての雑踏は隔絶されていた。海の音は私の動揺を薙ぎ払ってくれるし、月の光は、私の純朴な心だけを照らす。
何も気を落とすことはないと柔らかな月光が私を励まし、暗く淡く揺らめいている海が、胸の澱を拭い去ってくれるほどに、清らかな風を送ってくれている。
そうだ、何も気を落とすことはないし、私には為すべきことがきっとたくさんあるだろう。作るべきものがあるだろう。他人を侮蔑する必要はないし、それゆえにもっと私を侮蔑する必要もない。私は、静かに流れる時の河に沿って、自分なりに何かを成していくべきなのだ。
ママはそう気付かせてくれる。そう教えてくれる。やはりママは偉大で、私の最も頼れる存在である。
水平線の明色もことごとく失せて、天蓋は真っ黒に塗りつぶされる。そこにいくつもの星が浮かび上がって、何かを歌っている。円い蜜柑のように黄色い月も歌っている。魚のように輝く波も歌っている。私は、堤防に肘を掛けて、一体どんな表情をしているのやら、静かにそれを聞き入っている。潮風はとても強く、私の顔を拭き撫でていく。
きっと私の心は大分落ち着いたが、もう少し、もう少しだけいさせてママ。
そう、もう少し、もう少しだけ……。
お読み下さりありがとうございます。
いろいろと、複雑なことってありますよね。