第二章 ある物語の始まり
突然、玄関のチャイムが鳴った。時間は九時半、人が訪ねてくるには遅い時間だ。部屋に入ってしばらく息を潜めているともう一度チャイムが鳴る。諦めて帰ってくれるといいんだけど……。あれ? 玄関の鍵ってちゃんと閉めたかな?
ドキドキとしていると「やぁ、こんばんは」と声をかけられて、心臓が胸を突き破って飛び出しそうになった。恐る恐る振り向くと、庭陰から現れたのは、背は高いけれど私と同い年ぐらいの男の子。柔和な笑顔を浮かべる整った顔立ちからは害をなすタイプとは思えないが、そうした人が豹変することだって珍しくないのがこの世だ。
「ようこそ」
言ったのは男の子。やっぱり変な人だ。だってここは私の家の庭なんだから、ようこそは私のセリフでしょう。どうやら今夜は色々と変な夜らしい。私は「こんばんは」と挨拶して立ち上がると開けっぱなしの大窓を閉めようとした。
「君、横木亜子でしょ? 待っていたんだ」
窓にかけた手が止まった。私の目は笑顔の男の子へ。
「待っていた?」
「そう」
「あなた、私のことを知っているの?」
「知っているよ。当然ながら」
私は頭の中の記憶の引き出しを引っこ抜いてひっくり返しながら小学生時代、中学生時代と過去に繋がりのあった人物の顔を思い出そうとするけど少年の顔と合致する人物は見つけられない。それどころか少年の面影を持つ人物すら出てこなかった。
「ごめん。私、あたなのこと思い出せない。誰だっけ?」
傷つけるかな? だけどわからないのにわかるフリをするのも気持ち悪いし、聞いて思い出せるなら訊いた方がいい。
「僕の名前はキネム。はじめまして、亜子」
「はじめまして?」
「そう。だって君は僕のことを知らないだろう?」
「あなたは何故、私のことを知っているの?」
「そういう事になっているからだよ」
要領の得ない答えを口にしてキネムは微笑むばかり。なんだか得体の知れないものを感じていると「大切な物を見つけないとここからは出られないよ」と彼は口にした。
「ここからってどこから」
キネムは地面を指して「ここからさ」と笑うけど、私が「ここって……」と二の句を告げないでいると今度は空を指した。
「君は気づいていないのかも知れないけれど、ここは君の過ごしていた世界じゃないんだ」
キネムの言葉はあまりにも突拍子もなく、ふざけていて受け入れられない。
「別に出られなくてもいいよ。私はここにいるから」
「本当? それでいいの?」
キネムの目は猫の目に似てる。磨き上げられた宝石のように角度の具合でたまにキラリと黄緑に光る。
「君がいいと言うのならそれでいいんだ。そのまま窓を閉めて家の中へ入るのも悪くない。僕の出番がここで終ってしまうだけの話さ。けれど一つだけ僕から言わせて欲しい」
キネムはそこで笑みを消してじっと私を見つめてこう言った。
「亜子はここに来た。これは相当に深い意味があるよ」
ここに来た? ここは私の家。私が来たんじゃない。キネムが来たんだ。理解出来ない言葉たちに怒りを感じ始めながら考えているとキネムは私に背を向けて庭から出ていく。私は一言言ってやりたくて急いで玄関へ向かい、スニーカーを履くと家から飛び出した。