第一章 ある日のある少女
お父さんが大変な状況だっていうのにその生活に慣れつつあって、私は徐々に二学期前の普段通りの生活に戻っていった。最初は意識して私を気遣ってくれていた友達も一カ月経った今、心の向こうでは私の心情をくみ取りつつもおどけて接してくれている。それは私が出来るだけ何もなかったように振る舞ったことの成果かも知れないけれど、いつまでも同情されて腫れものに触るように扱われるよりは何倍もましだった。だから中岡南高校の文化祭に行こうと恵子と奈津美に誘われた時も二つ返事をして、現在、日曜だというのに人の賑わう中岡南高校の校舎の二階の廊下に私は立っている。しかも独り。
昼食をとり終えた後、トイレに行っているうちに恵子と奈津美とはぐれてしまった私はケータイで二人に呼び出しをかけながら独りでブラブラと校舎をさまよっていた。それでも周りの喧騒に着信音がかき消されるのか反応はない。別にイライラはしなかった。他校の校舎を歩くのはとても新鮮だったし、それに二度と会えないわけじゃない。むしろ独りでぼんやりとしてた方が今は楽だったりもする。
三階に上がると急に喧騒が遠のいた。行き交う人影もなく、まるでふたを閉じた壺の中ではしゃいでいるような声が階下から聞こえるだけ。ここなら二人から返信があってもすぐに気づくだろうなと廊下を進み、右手に並ぶ教室を覗いていく。
一つ目の教室には写真が飾られていた。入口の机に座っている太った男性が覇気のない目で見てきたから私はすぐに目をそらし、その教室の前を素通りした。
二つ目の教室には手芸品が並んでいた。受付には中学生と言っても誰も疑わないような小柄な二人の女子生徒が座っていて私には気づくことなくひそひそと小声で楽しそうに話をしていた。ちょっと中に入ろうかとも考えたけど、展示されている作品が少なそうなのでそのまま素通りした。
三つ目の教室の入り口には目の大きいのが印象的なおさげの女子生徒が座っていて、廊下にいる私を見つけるなり気持のよい笑顔を見せペコリと頭を下げた。そうされるとそのまま無視するのも気が引けて、私はその教室へ足を踏み入れた。
「ようこそ」
女子生徒はそう言ってまた頭を下げた。教室の中にはたくさんの絵。油絵もあれば水彩画もある。コンピューターグラフィックの絵や貼り絵、切り絵もあった。
「ここは美術部の日ごろの成果を見てもらう展示室なんです」
展示室には私と受付の女の子の二人で、閑散とした雰囲気の中、入口から順に絵を見ていくと受付の女の子が何かしら期待した眼差しで私の様子をうかがっているのが感じ取れた。だけれど元々絵には興味がないし良さもわからない私だから、たいしたリアクションをとれるわけでもなく、彼女の期待に反し、そして視線に気づかないフリをして、「これは上手い」「これは下手」と薄っぺらい評価を心の中で下しながら見て回った。そんな私の目に留まった一枚の絵。教室の後ろの紫の垂れ幕にかけられた銀色の額縁に収まっている油絵の前で私の足が止まった。
窓枠から星のあふれる夜空の下、草原を歩くキリンの様子が描かれている絵。キリンと言っても首の長い四足歩行のシルエットからそう想像できるのであって、そのキリンは青白く燃えるように光りながら輪郭をぼかし、あたりの闇をぼんやりと薄く照らしていた。
「その絵、素敵でしょう?」
後ろから声をかけられたけど、私は振り向かずにただ首を縦に一度振った。視線は絵に刺したまま。と、受付の子が横に並ぶ。
「実はこれ、誰が描いたのかわからないんです」
「わからない?」
「はい。と言うのも随分と昔の美術部員が描いたらしくて、その方は卒業されましたし、その当時の美術部の顧問の先生も今はこの学校にはいないからなんです。でも、幻想的であるのにいやに現実的で、心に迫る苦しさを持ったこの絵に魅了される人は多くて、毎年黙って飾らせてもらっているんです。実際、この絵を見るために学際へこられる方もいらっしゃるくらいですから」
わかる気がする。たぶん本当にいいものは理屈じゃない。いいからいいんだ。絵の知識を持ち合わせていない私にも伝わってくる。絵は、特にキリンはうったえてくる。命だ。このキリンからは命があふれている。しかも、とても悲しいような、とても切ないような命。
草原の匂いや風を感じそうなくらいその絵に夢中になっているとケータイが鳴った。静かな教室には暴力的にうるさく感じるケータイを慌てて拾って電話に出る。
「亜子? ごめ~ん。今、どこにいる?」
奈津美だった。そこへ夫婦らしき中年の男女が入ってきて受付の子はそちらの対応へ向かった。私は奈津美と待ち合わせ場所を確認した後もしばらくキリンの絵に魅入っていた。
なんて美しい。なんて悲しい。胸がざわざわと、騒がしくなる。