第一章 ある日のある少女
リノリウムの床と私のスニーカーのゴムソールは相性が悪い。歩くたびにギュムギュムと昆虫の断末魔の様な不快な音を生み出す。水に濡れた時は特にだ。私は先ほど水たまりを踏みつけてしまったため、どう歩いても叫ぶ不快な虫の断末魔を耳にしながら、歩き慣れてしまった廊下を進む。北側にしか窓がない廊下は朝の九時だと言うのにどんよりと薄暗い。
四〇五と表示されたプレートのある病室の前に立った。プレートの下には『横木駿太郎』と名前が一つ。私のお父さんの名前。ドアノブを回して押しやると薄暗い廊下に白い光が射す。そしてドアの向こうにあった光景は、ベッドに横たわるお父さんだった。
「亜子、中岡南の文化祭へ遊びに行くんじゃなかったの?」
ベッドの脇でうなだれていたお母さんが顔を上げた。お父さんは横たわったまま。私は「うん。十時に駅で待ち合わせだから、ここに寄ってから行こうと思って」と答えて肩にかけたリュック鞄を下ろすとお母さんの隣の丸椅子に腰かけた。それと入れ替わりにお母さんは席を立って「それじゃ私は時間だからそろそろ行くわね」とカバンを拾った。
「無理しないでね」
「そんなに大変な仕事じゃないのよ」
お母さんは微笑むとベッドの上で目を閉じているお父さんに「行ってきます」と声をかけて病室から出て行った。お父さんは返事をしなかった。ただ口を半開きにして眠っていた。ブラインドの閉じた簡素で静かな白い部屋には私とお父さんだけ。今、言ったようにお父さんは今日も目を閉じている。昨日も一昨日も目を閉じていた。私はお父さんの額に小さなほこりを見つけてそっとつまんだ。皮膚が乾いている。
「お父さん」
名前を呼んでみた。けれども反応はない。約ひと月前、私が高二の二学期を迎えてすぐに、お父さんは会社への通勤途中で駅のビルの建設現場で起きた建材の落下事故に巻き込まれ、後頭部を強打し意識を失ってしまった。手術を行ったものの先生がおっしゃるには、いつ目を覚ますかの断定はできない、さらに言うとこのまま命を落とすかも知れないとのことだった。
「お父さん」
もう一度名前を呼んでみる。今度はやけに感傷的になった。目に涙がたまってごくりとのどを鳴らすとベッドのシーツの上に伏した。肌触りのよいシーツからは爽やかな洗剤の匂いがする。胸が痛い。世の中が理不尽で構成されていることは高校二年にもなれば、うすうすと気づいていて、それがいつかは私に襲いかかってくる覚悟はしていたつもりだけれど、こうやっていざ理不尽の被害者になってみるとなんともやりきれない。もう怒るのにも悔しがるのにも疲れて、呪うのも憎むのも辛くて、そう、願うのはただ一つ、本当に一つだけ、お父さんが元気に目覚めること。そうして私の名前を呼んでくれる事だけだ。