嵐の夜に
座席に置いたボストンバッグは最初思っていたより小ぶりなものになっていた。砂漠の思い出を吸った品や服で、持ち出したいものなど大してなかったのだ。
多少の着替えと、報酬と、羊脂玉に近い乳白色の玉石と、ここに来て最初に買った日傘。
「ゆっくり走ってくれる? 街をちゃんと見たいの」静蕾は窓の外を見ながら言った。
「わかりました」
謝のもとでホテルマンのほか運転手も任されているアルキンは、静蕾とも顔なじみだった。スピードを落とし、窓を閉めながら言う。
「今夜は大規模な砂嵐が市の中心部を襲う可能性があるそうですよ」
深夜の団結広場にさしかかる。ウイグル人の老人と握手する毛沢東の銅像が闇の中の小山のようだ。小さくしぼんだ老人の体躯に比べて、毛沢東は巨大だった。まるで中国の慈悲と恩義をみずから現すかのように。
やがて背の高い建物がまばらになる。街を外れればすぐにも何もない砂漠に出る、それがホータンだ。
あんなに脱出のときを待ち望んでいたのに、その日が来てみれば手元にあるのはまるで無限の荒野に彷徨い出るかのような不安だけだ。
多分、こんなものなのだ。静蕾は独りごちた。
遥かな地平に蜃気楼を見て、近づく。消滅する。また見る。消滅する。
人生はこの繰り返しなのだろう。それは希望と絶望の繰り返しなどというものではなく、ただの現実の再確認作業なのだ。繰り返した数の分だけ、自分は愚かで頭が悪いということなのだろう。
やがて車は闇に沈むホータン大橋に差し掛かった。ふと、橋の欄干に身を寄せて川を眺める男のシルエットが視界をよぎった。
アルペンハット、首にはためくスカーフ、細身のジャケット……
「止めて!」
静蕾は窓から身を乗り出した。いたはずの姿が見えない。
「ここで待ってて」
運転手の返事も聞かず、静蕾はそのまま車外に出た。闇の中にさっきのシルエットを探すが、見当たらない。強風の中、欄干に寄って橋の下を覗く。何か動いた気がして、橋から河原に延びる細い階段をゆっくりと降りる。
視界のきかない夜の河原にはびゅうびゅうと砂混じりの風が吹くばかりだ。髪を押さえながら見渡していると、ぽんと背後から肩を叩かれた。
振り向いた刹那目に入ったのは、予期していた顔ではなかった。
明らかに張のものと同じ帽子の、その下の顔。四角張った、顎の太い、若い男の顔。その中にあって、冷え切った星のような冷たい瞳。
「誰かお探しですか」
「……」
「ぼくはあなたにお会いしたかった」
腹に押し付けられる硬い銃口の感触に、己の愚かしさを思い知らされ、静蕾は奥歯を噛みしめた。
「ぼくが誰かわかりますか」
「……黄龍」
「あなたは王 静蕾。そうですね」
「ええ」
「父がお世話になったそうで」
静蕾はちらりと橋の上を見た。気づいていないのか、運転手は出てこようとしない。
「あなたをどうこうするより、ぼくの知りたいことはひとつだ。父の安否。居場所。すんなり教えてくれるなら乱暴はしません。腐った上層部に操られた気の毒な女として認識してさしあげられる。だが口をつぐむなら連中と同罪だ。十秒以内に選んでください」
「知らないわ」
「そんな答えは通らない」男の声が硬くなった。
「あなたは聞いているはずだ、なにもかも」
「本当に知らないのよ」
「では生死だけでも言ってもらおう」
「それも知らない」
「命を奪えと命令を受けたことは」
脇腹に銃身がきつくめり込む。静蕾はふたつの痛みで顔を歪ませた。
「わたしには、できなかった」
「……」
動揺とともに、男が心持ち銃身を引いた。
「できなかった、それだけは。あとのことは知らない。その命令を拒否することで砂漠から出る日が遠ざかるとしても、他の誰かがやることだとしても、わたしにはできなかった」
「拒否したならなぜいま車に乗れた」
「わからない。あなたに狙われているから日を早めたと言われた」
「つまり他の誰かが父を殺ったんだな?」
「知らない」
「お前は知っている。……それはわかっている。言え!」
激情に声を上ずらせ、黄龍は静蕾の頬を力任せに殴った。そのまま横向きに倒れ、したたかに背を打つ。男は身体を跨ぐようにしてしゃがみ、目の前に銃口を突き付けた。
「言って楽に死にたいか、黙って切り刻まれて地獄を見たいか、どっちだ」
黄龍の長めの前髪が風に捲きあげられて顔を覆う。
「そんなことは、……おやめなさい」静蕾は頬を押さえて言った。背中を打ったせいで、囁くような声しか出ない。
「お父様は言っていたわ。……息子は女を殺すような人間じゃない、そうさせたのならそれが自分の人生で一番の罪だ。やめさせることができるのは自分だけだ、どうか息子に会わせてくれって」
「嘘をつくな!」黄龍は絶叫した。「知らない知らないと言っておいてわが身が危なくなるといまさらぺらぺらとでっち上げを」
「嘘じゃない、わたしも会わせてあげたかった。でもわたしには意見を言う資格がなかった。できるのは断るか受けるかの選択だけ。お父様は」
「この売女!」
「わたしの知る最後まで、あなたを」
ばん、という銃声に続いてまたばんばんと二発、甲高い音が響いた。
静蕾はきつく閉じた瞳を開けた。体のどこにも傷はついていない。
開けた目の先に、右手を押さえて蹲る黄龍と、足元に転がるブローニングが見えた。
「拾え、静蕾!」
頭上から声がした。さっと黄龍の銃を拾い上げ、顔を上げて声のほうを見る。
見慣れたシルエットが階段を早足で降りてくる。銃口を上に向け、闇の中で静蕾の様子を窺うようにして男は言った。
「どうやら間に合ったな」
「……張」
静蕾は拾ったブローニングを右手に持ち替え、ゆっくりと体を起こした。
「大丈夫か」
「あなた、……いったいどこから来たの」
「車のトランクにいた。間抜けなことに、出るのに多少苦労した」傍らに立って答えながら、張は黄龍に落とした視線と銃口をずらすことはなかった。
「貴様……」
「また会ったな。なるほど、あのときのわたしに扮したか」
黄龍の右掌に開いた銃創からはおびただしい血が流れている。
「お前の探し物を渡してやろう」
張は黄龍の傍らに座り込むと、手袋をはめた手で懐から小箱を出し、目の前に置いた。
「開けろ」
片肘をつくと、黄龍は身を起こした。
それから小石の川床の上にそろそろと正座し、十センチ四方ほどの木箱を手に取った。
「……何なんだ」
「開ければわかる」
張の目を黙って見つめてから、青年は震える左手でゆっくりと蓋を開けた。
小指が一本、無造作に入っていた。第二関節の下には、
……誕生日に母が父に贈った細い金の指輪。
「わたしがやった」
黄龍は箱を押し頂いたまま細かく体を震わせていたが、やがて獣のような声を上げて号泣した。
……父さん、父さん!
なにをしたんですか! あなたが、なにをしたというんですか! ああ、どうしてこんなことに!
あなたは正しく勇気を持って生きた。どうして天はあなたを見捨てる。天よ、天の意思よ、あなたはなぜ沈黙しているんだ!
いまや青年に、周囲に掴みかかる気力も怒りも残ってはいなかった。ただ嘆きと涙が彼の身体の奥底からとめどなく溢れ続けて止まらず、青年は激情のままに大地に頭を打ちつけ、天を仰ぎ地を叩いて泣き叫んだ。
静蕾は銃を握りしめたまま、呆然と目の前の青年を見た。
ごうごうという風の音の中、頭上で車の止まる音がした。
振りあおぐと、やがて膨らんだ男の顔が欄干からこちらを見下ろすのが見えた。顔が引っ込んでしばらくすると、闇の中、左右に体を振りながら、謝局長がゆっくりと階段を下りてきた。
「やはりあぶり出されたか。よくやった、張君」
億劫そうに近寄ると、謝は沈黙したままの張から倒れている青年に視線を移した。
「また随分簡単に骨抜きにしたものだな」
そして静蕾の顔を見やる。
「静蕾、感謝ぐらいはしておけ。その身を自由にするために張君はお前が蹴った任務を受けたんだ」
「余計なことですよ」張は眉をしかめて言葉を遮った。
突然青年は川底の石を握ると飛び上るようにして謝に投げつけた。すんでのところで石は逸れて橋脚に当たり、張は瞬時にその手を掴んで川底に捻じ伏せた。
謝は懐から自分のリボルバーを取り出すと、銃口を黄龍の頭に向けた。
「父親に似て勇ましいことだな。これで野良龍が二匹始末できるというものだ。さてたまにはわしが手を汚すか。それとも女に撃ってもらうか、どちらがいいか?」
「お前もいずれ地獄行きだ。俺でなくても必ず誰かが、必ず地獄へ落とす」青年は呻いた。
「静蕾、こっちへこい」
静蕾はもがきつづける黄龍の前に静かに歩み寄った。
「今度は自分でやれ。武器を持っての初仕事だ。お前が撃てないならわしが撃つ。が、まさか出来ぬとは言うまい」
表情は見えなかった。張は青年を押さえながらじっと静蕾の横顔のシルエットを見た。
静蕾は撃鉄を起こし、ゆっくりと銃口を青年の額に向けた。顎から茶色い汗を滴らせたまま、観念したように青年は張の手の下で目を閉じた。
と、そのままくるりと謝のほうに向き直ったと見えた瞬間、静蕾の白い足が宙に弧を描き、カンと音を立てて謝の手からリボルバーがはじけ飛んだ。そのまま銃身はくるくると宙を舞い、伸ばした静蕾の左手に捉えられていた。
「な……」
言葉も出ない謝の目の前で、静蕾は素早くガーターベルトのホルスターに右手のブローニングを入れた。そして左手のリボルバーのシリンダーを覗き、ロッドを押して実弾を次々と外す。弾が残り一発になったところでシリンダーをがちゃんと元に戻すと、呆気にとられている黄龍の前に銃を突きだした。
「さあ、これを持って」
「おい、何のつもりだ」謝が叫び声を上げる。静蕾はかまわず張を見て言った。
「張。その手を離してやって」
張は静蕾の目を見上げると、ふっと笑い、そのまま青年から手を離した。
「左手は使えるわね。立って」
「張、おい、一体なにをしとるんだ。取り上げろ!」
謝の叫びにも、張はちらりと一瞥をくれるだけで動きはしなかった。
黄龍は左手にリボルバーを握って、ふらりと立ち上がった。その横顔を見ながら、傍らで静蕾は言った。
「目の前の全員があなたには憎い仇でしょう。その誰にも罪はある、そしてその中身と重さは今あなたが見聞きした範囲で判断するのよ。
弾は一発、チャンスは一度。一番撃ちたい相手を撃って。あなたにはその権利がある。ただし」静蕾は すっと白目を光らせて謝を見た。
「張 家輝を撃ってもわたしを撃っても、あなたは多分ただでは済まない。そして、丸腰なのはただ一人」
謝の額からぶわっと油汗が噴き出した。
「張君、……頼む」
「わたしでなくこの青年に頼んだらどうですか」張は銃口を下に向けたまま突き放すように言った。
「……解せないな」黄龍は不審そうに静蕾の目を見て言った。
「ぼくにこれを渡すことであんたに何の利がある」
「そいつはいろいろと都合よく人を利用しすぎたのよ。それに、比較すればあんたの方がまだ生きている価値があるわ」
黄龍は銃を手に、充血した目で謝を見つめた。謝は金切声をあげた。
「ここでわしを殺してどうなると思う、お前の父親の不名誉に上塗りをするだけだ。汚職に売女とのスキャンダル、息子は殺人犯、昌家は終わりだぞ、母親の今後も考えろ!」
「母は自殺しました」
謝は絶句した。
黄龍の銃口が静かにその顔に向けられる。謝は口を開いたまま無様に硬直した。
次にふらりと銃口が張のほうを向く。静蕾は銃口と同方向に動いて庇うように張の前に立った。
「どけ。なんのつもりだ」張は低い声で言った。
「単独行動のお詫び」
次の瞬間黄龍は銃をくるりと自分の頭に向けた。静蕾の口から悲鳴があがり、同時に張が青年に飛びついた。銃を持つ手を両側から包み込み、体ごとねじった先に恐怖に歪んだ謝の表情が横切った刹那、 ぱんと乾いた音が響いた。
どうっと風が吹き、あたりのものすべてを捲き上げた。天の高みからあるいは地面から、地鳴りのような音が湧き上がる。地面に倒れた謝の巨体はぴくりとも動かず、地面に打ち付けた後頭部と胸の銃創から血が流れていた。
黄龍の手から銃が落ちた。
「……こんなつもりじゃ」
青年は呆然と、膨らんだ青白い顔に目を落とした。
「父の不名誉を雪ぐことのできる、唯一の奴だった。
こいつには、してもらうことがあったんだ。こいつには、まだ……」
青年は川石の上に両手をついた。右掌から流れる赤い血が白い石を染めてゆく。
張はポケットに手を突っ込んで青年の後ろに立った。
「女の気まぐれで命を救ってもらっただけで十分だろう。もっとも、土産が指だけじゃさぞ心残りだろうな」
黄龍はゆっくり振り向いた。
「……お前を殺すんだった」自らの血で赤く染まる石をじゃりっと握りしめる。
「お前を。お前一人を。その女が邪魔しなければ……」
張はポケットの中から一枚の紙切れを出すと、青年の充血した目の前にひらりと翳した。
「ここへ行け」
「……?」
怪訝な表情で、黄龍は紙きれを左手で受け取った。
「お前だけでなく、ウイグル人の側に立つもののために力を貸そうというものはホータンにはいくらもいる。……アルキンもそうだったんだろう?」
黄龍はじっと張の目を見返した。
「アルキンはお前と通じていた、利害関係における同志としてだ。そうだな?」
青年は黙って頷いた。張は細いペンライトを灯すと紙切れを照らした。住所と、簡単な地図が描いてある。
「ここに何があるんだ」
「小指以外の全部だ」
青年は虚を突かれたような顔で張を見ていたが、その顔にひらりと生気が灯った。
「わたしを信じるなら行け。信じないなら砂漠に消えろ。じきに砂嵐が来る」
「……待って」
静蕾は唐突に黄龍の手を握ると、取り出したハンカチでぐるぐると青年の掌を縛った。
青年は目を上げて静蕾を見た。視線を手に落としたままの女の口元には、気配ほどの笑みが宿っている。静蕾は青年と目を合わせると、その気配を形にして唇の端を上げ、人差し指で橋の上を指差した。 青年は上目づかいに空を見た。悲鳴のような音を立てて流れる雲と砂に、鳥の群れが押し流されてゆく。
静蕾は穏やかな声で一言だけ言った。
「行って」
黄龍はさっと頭を下げると背を向けて大股に階段を上がって行った。
白玉河の対岸には、漆黒の空をバックに黄色い壁のような雲が立ち上がり、見る見る押し寄せている。
「我々もどこかに避難しないと」張は謝局長の顔を見下ろしながら言った。
「彼はどうするの」
「一応息はあるようだが、この体を今階段の上まで運ぶのは無理だ。電話で誰か呼ぼうにも砂嵐で電波が乱れていて通じない。嵐が去るまでここで運試しをしてもらおう」
二人は並んで階段を上がり、謝の車のドアを開けた。対向車線の車の運転席で、アルキンがハンドルにうつぶせているのが見える。
「あなたが撃ったの」
「あの朝、きみがプレゼントしてくれた朝食は彼が運んでくれた。ちぎったパンと果物を窓辺の鳥に分けてやったら、電池切れのおもちゃのようにばたばたベランダの床で暴れ死んでいったよ」
「……」静蕾はぎょっとした顔で張を見た。
「わたしじゃないわ。張、それは違う」
「きみのことは疑っていない。わたしの宿泊先や行動が筒抜けになってる気配があったんだが、漢民族の支配を快く思っていないウイグル人の一人が黄龍のために働いていたとしても不思議はないと思っていた。あの車には謝の命令で潜んだんだが、トランクから出てドアを叩いたわたしを見たとたん、撃とうとたのはアルキンのほうだった」
やがて砂煙の壁が生き物のように形を変えながらあたりを覆い始めた。ばちばちばちと、砂に混じって枝や小石が車体にぶつかる。
運転席に座った静蕾は両手をハンドルに置いて前を見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「紅龍は生きているの」
「ああ」
「生きているのね」声を高めて静蕾は繰り返した。
「砂漠で始末してこいと言われ、小指を証拠品としてけりをつけた。そのぐらいの犠牲は覚悟してもらう必要があった」
「あなたがその手で切り落としたの」
「そう難しいことじゃないだろう。悲鳴も上げず結構強靭な男だったよ」
「それが女でも同じことができる?」
「むしろ女の血のほうが綺麗だからそう嫌じゃないがね。泣いてやめてくれといったら死ぬ方を選ばせる。だが命はどんな皮をかぶっていても結局、同じだ。あの男は痛みを恐れないことで助かった」
「なぜ紅龍を助けたの」
「謝 王丹を殺したいと思っている人間の一人だからだ。わたしと同じに」
遠い街灯りも完全に消えて、前後左右が暗黒と轟音に包まれている。もう何も見えない。ごうごうばりばりという響きとともに車が揺さぶられはじめる。静蕾は口を開いた。
「あなた、ろくな死にかたしないわよ」
「わかってる」前を見たまま張は答えた。
「あなたみたいに腹の冷えた男は。
……男であれ女であれ、簡単に人を殺せるような。平気でひとの指を切り落とせるような。女の血を綺麗だというような。数千数万の死を数でしか認識しないようなそんな人間は」
「ああ」
「でもわたしは見ていてあげる」
風の唸りは一層ひどくなった。もうお互いの声がまともに聞こえない。
「あなたが世界のどこに行っても、きっとあなたのことを思う。誰かを憎んでいるのか、愛しているのか。陥れているのか陥れられているのか。殺しているのか殺されているのか。
そしてどんな目に遭ったとしても、それが相応だときっと思う。きっとあなたの死に様はあなたの生き方そのものだから」
「わたしは今のきみが好きだ」
静蕾は口を閉じ、黙って張のナイフの切っ先のような目を見た。
「そのまま変わらずに生きろ。わたしもずっときみを見ている」
初めて見る微笑みが、その薄い唇に宿っていた。
地鳴りのような音を立てて風が車の周囲で渦を巻いた。
嵐の中で絡み合う二本の木のように、二人の身体は相手の腕の中にあった。
静蕾の両手は張の首に回され、同時に張の両手がそのしなやかな体を力を込めてかき抱く。
女は男の輪郭を確かめようとするように髪を首を肩を耳を、そして広い背中を撫で、首筋の香りを嗅いだ。やがて言葉を放棄したふたつの唇が角度を測りながら静かに開き、やさしく触れ合った。
ため息とともに相手の息をふさぐ。舌先で頬の内側の感触をなぞる。そして呼吸ごと全部吸い尽くそうとするように、激しくお互いの感触を確かめあう。
すっと顔が離れたとき、静蕾は囁くような声で言った。
「張。わたしは、汚い?」
張は痛みに打たれたような顔をして、その髪を撫でた。
「あのときはすまなかった。いまのきみは誰よりも綺麗だ」
「あなたもよ」
胸にじかに差し込まれる男の手の感触を、あたたかい、と感じながら静蕾は思った。
次に会う時は、立場が違えばいのちのやり取りをするかもしれない。庇いあった命を奪い合うのかもしれない。この男の非情な心根を心から憎いと思うのかもしれない。
でも今日は砂嵐だから。このひとときは入り口も出口もない、砂漠の見せる夢だから。
何もかも捨てて自分自身になる。
この荒れ狂う天と地の間で。