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ホータン1995  作者: pinkmint
8/10

砂漠を出る者

 現場に着くと、すでに公安局の車と捜査関係車両が何台か堤防の外に停まっていた。

 砂混じりの風はいよいよ強く、視界は十メートルがやっとで、白玉河の遥かな対岸は全く見えない。

 (チャン)は脱いだ帽子を車の中に置き、薄明かりの中を車列のほうに近寄った。

(シェ)先生」

「おお」

 謝局長は膨満した身体をわずかにこちらに向け、砂風を受けて目を細めた。

「遅かったな。じき十時だ、この分だと視界が利かなくなるのも早い」

 ホータンでは夜の九時の明るさは朝の九時と大してかわりはない。だがそれからの一時間で空はどんどん光を失う。

「もう被害者の確認はなさったのですか」

「わしは記憶力が悪くてな、ニヤの支局で茶を出していた新任の新人職員では記憶にも残らん。多分そうだと思うが顔も腫れあがっとる。きみはニヤで会ったばかりだろう」

 張は川底へ降りていった。石ころの上に布をかぶせられた身体があり、布靴を履いた足の先だけが出ている。

 傍らに立った捜査員がそっと布をめくった。

 足元まである細身のパンツに長めのトップス、パンジャビと呼ばれる民族衣装を着た女の姿が砂風の底に現れた。風になびく短髪の下で薄く瞼は閉じられ、唇は半開きだ。激しく殴打されたのか、顔の左半分はどす黒く腫れ上がっており、細かい花の刺繍の散った緑色のドレスの胸元は血に染まっている。

(パオに間違いないか」背後から謝が言った。

「間違いありません」鸚鵡返しに答えると、張は布を元通りにして立ち上がった。

(リン)が着くのは深夜になるそうだ。天候も荒れている」不機嫌そうに謝は言った。

「銃で一発、抵抗した跡もなし。で? きみが例のメールに気づいたのはいつだ」

「砂嵐の影響で受信状況がひどく悪くて、実際に目にしたのは日が暮れてからでした」

 張は携帯を開いてメールの文面を見せた。

 

 ―先ほどは失礼しました。お気づきになりましたか、あれが“彼”です。よく顔を覚えておいてください。

 ()()で再会して、人探しにホータンに行くというので暇を装って同行しました。有償でカップルのふりをしてほしいというので話に乗っています。彼は真っ先にあのホテルを選びました、かなり情報を得ていると思います。できればすぐにチェックアウトしてください。何かありましたらまたご連絡します―


「お気づきにならなかったのか」揶揄するように謝が言う。

「気づきませんでした。彼は初見でしたし」

「ブルカの中の朴の目にも」

「不覚でした」

「憐れなもんだ」謝は懐から出した煙草を咥えた。

「傷と血痕から見て朴は拳と携帯でしつこく殴られたと思われる。知っていることについて聞きだそうとしたんだろうが、朴のほうも相当頑固だったんだろうな。ホテルの部屋に携帯の残骸があったがへし折った上破壊されていた。きみのところにあれ以降朴の携帯からメールや着信はないのだろう?」

「ええ」

「女がすんなり喋り、中身を見せ、渡していたなら女になりおおせて上手く使うはずだ。多分、中身を見られた途端へし折ったのは朴のほうだろう、それで犯人―黄龍(ファンロン)の怒りを買った」

 布の下のか細い娘の骸に、張は風の音ほどの憐憫を感じた。しかしその思いは、ホテルで一瞬顔を見たとき、その瞳に気づくことがなかったという自分のミスへの苛立ちに吸収されていった。

「血痕の残っていたホテルの部屋から彼女を河まで運ぶのをだれにも見られていないのも妙だ。ホテル内に手引きする者か共犯者がいたということかもしれん」謝は煙を吐いた。口元を離れたとたん、煙は強風にかすめとられて宙に消えた。

「車に入らんか。風が強くてかなわん」

 謝と張は捜査関係者に頭を下げられながら、公安局の車に移った。


「改めて聞こう、きみが見たときの朴と男はどんなふうだった」

 窓を叩く風の音を聞きながら、謝は言った。

「朴はブルカで目以外を覆っていましたから、表情はわかりません。男のほうは穏やかな感じで、骨太な好青年というイメージでしたね」

「その前に朴からホテルに直接電話があったそうだな。その時点で何故報告しなかった」

「……余計なご心配をおかけすると思いましたし、自分で何とかできると考えていました。申し訳ありません」

「そして今度はカップルを装って囮捜査気取り。いきなり公安局から姿を消したので林も慌てていた。さて、何のために一介の女事務員がそんなことをしたと思う」

「さあ」

「惚れていたんじゃないか」

「は?」

「電話でそう言っていたぞ、林が。あの女が残したメモ帳にはお前さんの顔の走り描きがいくつか残っていたそうだ。色男は罪作りだな」

「つまらん冗談はやめてください」張は渋面を作って呟いた。笑いながら謝の吐き出す苦い紫煙が鼻先をかすめてゆく。

「そして、きみの役に立ちたい一心で蛮勇をふるい、殺された。(マオ) (ホン)(ロン)の息子にだ」

 謝は懐から何枚かの写真を出した。ルームライトの元で見るそれらのショットは、どれもぼけてはいたが、ホテルで見た男に間違いなかった。

「こいつだな」

「……ええ」

「一般人なので画像を入手するのに多少時間がかかった。さてと」写真をしまいながら謝は続けた。

「問題は、黄龍がこの町のどこかにいて仇としてこのわしときみ、そして静蕾シンレイを狙っているだろうということだ。やつにとって最重要課題は父親の救出と名誉回復だろうがな」

「ええ」

「静蕾は移動させようと思っている」

「移動……」張は思わず鸚鵡返しにした。

「砂漠を卒業させる潮時かもしれんからな」

「では本部に返すんですか。それとも、別の場で新たな任務に」

「嬉しいのか? それとも残念か」

 口を閉じた張を見て、謝は言った。

「あの女はひと通りやるべきことはやった。これからは中央で任務についてもらうことになるだろう。 だが最後のミッションを拒んでいる、そこが問題だ」

「……?」

「きみにはよくやったといっておこう。

 母国の醜聞を広め、拾い歩く馬鹿者を一掃するのは至難の業だが、とりあえずきみは道々の掃き掃除はしてくれた。核実験も今年いっぱいで終結ときく、外国メディアや売国奴が新たな糞拾いの旅をはじめないとも限らん。きりがない。害虫が湧かないようにあらかじめ徹底的に消毒しておくしか手はない」謝は手元の煙草を振りながら言った。

「辺境の田舎村にもハイエナは来る、そして聞けば答える愚か者もいる。ウイグル人の医者は特に信用ならん。一般開放される前に砂漠公路沿いの村に釘は刺しておかねばな」

 謝はファイルを取り出すと中の書類を張に渡した。

「売国奴のリストだ、まだこれだけいた」

 張は忙しく名まえの頭文字を辿った。その名前はすぐに見つかった。

 ……イスマイ。村名、クムシュ。

 唯一伏せておいた名前。

「ここにあげられた医者はどうなるんです」指先で名前を押さえながら、つとめて声を乱さずに張は言った。

「報告済み、拘束済みだ」

 その下に、ハザクの名を見つけて張は仰天した。

「これは? これも医者ですか」

「なんだ? ああ、その村か。今回の調査のラストだな。外から来た人間に密告していたと報告のあったものはすべて名を書き出してある」

 誰がこんなことを。……密告者だなどと。

 そのとき張の頭に浮かんだ人物はただ一人、通りの向こうで糸車を回していた老女だった。

「この村にはわたしが立ち寄った。ハザクという少年はわたしの車がはねた老人の孫です。医者はその老人を治療してくれた。拘束の理由がない」

「きみは立ち寄る予定の村をすべて報告してくれていたはずだが、そのリストにクムシュはなかったな」

「アクシデントでしたから」

「で、当然“仕事”はしたんだろう。なるほど、質問者がきみで、結果的に拘束されたと。皮肉な話だ」

「ええ、質問者はわたしです。ですから」

「きみは任務に従って質問し、彼らは答えた。きみの仕事の成果は認める。だが彼らの口が軽いことにかわりはない、金で答える者はこれからも答える。

 大事なのは彼らへの処罰そのものではない。これ以降、外部から来たものに対して軽々しく口を開けばどうなるかをウイグル人どもによくよく思い知らせておくことが重要だ。それが子どもであってもだ」

「……」

「その子に情でも移ったか。ちなみに、ハザクという子は爺さんをはねた男の名前はいわなかったそうだ。きみはその子の名を知っているというのに」

「彼は今、どこへ」

「クムシュを離れて某施設へ移された。近所の人間も、砂漠の向こうから毒の気を持ち込んだと言ってもとより歓迎はしていなかったというし」

「身寄りもないのに?」

「その唯一の身寄りの爺さんが死んだからだ」

 張は呆然と謝の顔を見た。視線はよどんだ双眸に向けられながら、頭の中には少年のあの日の澄んだ声が響きつづけていた。


『頭を縛ってくれてありがとう』

『じゃあつまり、ぼくにとっておじさんは、運命の相手だってこと?』

『わかった、覚えとく』


「静蕾に会いたいか」

 唐突に言われたが、大した反応もせず、張はそのまま自分の膝を見ていた。

「何事にも始まりがあり、終わりがある。静蕾もよく耐えた。わたしも自由にしてやりたいが、きみの助けが必要かもしれん」

 張は目を上げて静かに答えた。

「わたしにはまだ任務があるということですね」

「きみもさぞかしこの退屈な砂漠から出たいことだろう。紅色と黄色、二匹の忌々しい龍も巣に帰りたがっている。静蕾も、そしてこのわしもだ。さて、障害を越えて凱旋するのはだれが先頭か」


 ……だから言ったのに。張は膨れた顔と問答を続けながら、言葉にできない思いを苦々しく胸の中に吐き捨てていた。

 二度と会うこともないから名前など聞いても意味がないとそう言ったのに。

 どうか忘れてくれ、ハザク。この名前を。

 忘れられないなら、呪ってくれ。

 この名前、姿かたち、したり顔してひとくさり語って見せた運命論、その運命自体、全部だ。捨てて相応のゴミだ、どうか粉々にして捨ててくれ。


 

 白玉河の事件は、その夜ごく限られた範囲の捜査が終わると、女の遺体ごと粛々と片付けられた。

 何の要求もなく、犯行声明を出すでもない黄龍の意図がわかりかねるだけに、当局はただ慎重になっていた。煽るのも脅すのも得策ではない。重要な点は一つ、犯人である(と断定された)黄龍の身柄を捕捉すること。

 

 翌日、朴の死は、恋人に捨てられた女の自殺として小さく報じられた。


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