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ホータン1995  作者: pinkmint
6/10

夜光玉

挿絵(By みてみん)

 眼前の白い顔に向かって、(チャンは静かに答えた。


「正直言って、あまり今のきみを見ていたくない」


 びくりと身を震わせた静蕾シンレイと張の顔との間に、小さな空間が開いた。


諦観(ていかん)を気取って知ったふうなことを言っているが、こちらからみれば、今のきみは爪の折れた痛々しい山猫だ。悪いが触れる気にならない」

 膨れ上がる感情を喉元で抑えて、静蕾は聞き返した。

「触れる気にならない。今そう言ったの」

「自分を曲げずに生きられる人間はほんのわずかだ。

 名前をあげられる人間になると、わたしの知るところでも片手でせいぜいだ。その数の中から王静蕾が転げ落ちるとは残念でならない。昔のきみは、今のきみよりほんの少し綺麗だった」

「取ってつけたようなことを言わないで。わたしがあらかじめ数の内に入っていたとでも?」静蕾の白い頬が目の前で(すもも)のように紅潮してゆく。

「横柄な女は嫌いだが馬鹿はもっと嫌いだ。少なくともきみは馬鹿ではなかった。あの傲慢さを貫けばそれなりに立派なもんだと思っていたよ」

「……」

「わたしは、さすがきみだと思っていたかった」


 唇を噛んだ静蕾の手から、日傘が落ちた。

 張は屈んで傘を拾ったが、顔を上げてまず目に入ったのは静蕾の背中だった。スカーフをなびかせて、大股で遠ざかってゆく。

 傘を手に駆け寄ると、静蕾は差し出された傘を右手で跳ね飛ばした。

「怒ったのか」

 何も答えず横を向く紅潮した顔を、まるで少女のようだと張は思った。

 後ろから傘をぽんと開くと、頭上の牧草と羊が淡い影となって二人を包んだ。

「大事にしろ。いい傘なんだから」

 すっと左手で傘を受け取ると、振り向きざま静蕾の右手が張の頬に思いきりヒットした。ぱんという高い音とともにアルペンハットが落ちる。勢いで静蕾のサングラスも落ちる。

 拾おうとした手の先で、静蕾のパンプスが帽子を思い切り蹴飛ばした。

 おりからの風に乗って帽子が転がってゆく。

「おい!」

「いい気味」

 笑ってみせた静蕾の目元が赤くにじんでいるのが見えた。そのとき初めて、張の胸に後悔の痛みが走った。

「静蕾、止まれ」

 帽子を頭に乗せながら小走りで追いつく張から顔をそむけ、静蕾は言った。

「今日のお付き合いは終わり」

「まだ日が高いぞ」

「わたしは汚いんでしょ」

「汚いとは言ってない」

「触りたくもないんでしょ。じゃあガイド役は別に頼めば」

「あまりきみが、脅すようなことを言うから」

「脅す?」

「試してみない、とか狸の思惑がどうでもいいとか」

「あれが脅したことになるの」

「……」

「謝りなさいよ」

「何を」

「女に向かって、触りたくもないとは何」

「きみに魅力があるとかないとかとは別の話だ」

「いいから謝りなさいよ、礼儀知らずとは口はきけないわ。それとも、やっぱり自信がなくて怖かったんだって正直に言ってみる?」

 大声でやりあう二人を、遠目に子どもたちが見て面白そうに笑っている。帽子で顔を隠すようにしながら、その一方で、自分が困っている様を見て静蕾が面白そうに笑っているその様子に張は内心安堵を覚えていた。

「謝れない」

 静蕾は腰に手を当てて言った。

「頑固者ね。呆れた」

「謝る理由がない。でも、もう一発食らわすことで気が済むなら受けてやろう」

「なにそれ。本気で言ってるの」

「ああ」

「できないと思ってる? 人も見てるし」

「やるだろ、きみのことだから」

「その通り」

 答えるやいなや静蕾は今度は左手で思いっきり反対側の頬をひっぱたいた。乾いた破裂音に、遠巻きにしていたやじ馬から歓声ともどよめきともつかぬ声が上がる。中には拍手している老女もいた。

 手加減なく打たれた頬を押さえ、苦笑しながら張は言った。

「前言撤回しよう、わたしが間違っていた。……きみは変わっていない」


 静蕾は赤い唇の両端を上げると、満足そうにはらりと落ちた前髪を掻き上げた。



 

 ドライエリアから差し込む月光が、地下室に四角い光と影を落とす。

 男の武骨な手は女の白い背中に食い込み、女の手は男の背中の汗に滑り、湿ったシーツの上で二つの身体はゆっくり回転した。

 声も立てず、ただ互いの息遣いだけを聞きながら、まるで何かの共犯者のようにお互いの体の内部を探り合う。 

 その先へ、到達した肉の奥のさらに先へ、自分という形を刻印しながら突き進もうとする勢いを阻むように締め上げてくる枷を、これは自分の命を締め上げているのだと感じたとたんに、男の苦痛は解放の喜びにとってかわり、閃光となって闇の中に砕け散った。


 女は枕を抱き、男は横を向いて、背を波打たせながら月明りをしばらく眺めていた。やがて身体を起こし、手を伸ばして置き時計を取る。

 午前二時。

 男がナイトテーブルに時計を置きなおした時、白磁の時計の上の小さな鐘がちん、と鳴った。


「眠れないの?」

 背中越しに静蕾が問う。

「外は満月だな」


 (チャン) (ホン)(ロン)は、窓の外に満ちる青白い光を見て呟くように言った。


「これだけ明るければ、夜光(イエグァン)(ユー)を見つける者も出るかもしれない」

「なに?」

 天井を見たまま身じろぎもせずに男は言った。

「あらかた採り尽くされて値が上がっている羊脂玉も、月夜の下でなら見つけられると聞いた。

 月の光を浴びて、水中で月よりも明るく光る石があれば、それが本物。

 確実な方法は、女が全裸になって水に浸ることだそうだ。女の陰の気に、はるか崑崙(コンロン)から流れてきた羊脂玉が吸い寄せられると言われている」

 静蕾はばさりと頭を振ると、右手で額の髪を掻き上げた。白桃のようにゆったりとした胸が冷やかに揺れる。

「雪解け水が来るまで待たなくちゃ」

 そう言ってから、頬のこけた男の額をそっと撫でた。

「よく知ってるのね。ここに来てひと月、建物から一歩も出てないのに。お月様にでも聞いたの」

「……ああ」

 必要な筋肉を残して他が全部削げ落ちたような痩躯は、それでも(シェのたるみきった蟇蛙のような体よりははるかにましなのだった。

「実際に吸い寄せられるのは羊脂玉ではなく砂漠の迷子なんだけどね」

「……殺すならさっさと殺せ」

 呻くように言うと、紅龍は白目を光らせて女を見捉えた。

「そう謝に伝えろ。毎日会っているんだろうから」

「そんな物騒なこと言わないの。謝先生も、あなたの身の安全を思うからこんな砂漠の安全地帯に保護してあげてるんじゃない」

「何の冗談だ」

「誓うことを誓ってサインをすればいいだけでしょ。それで旅は終わり」

「してもいないことをしたと言い、勝手に積み上げた罪を認め、自分の財産を仇に受け渡すと?」

「ここではこんな歓待付きで、三度の食事も出て、痛い思いもしていないでしょ。

 中央政府に身柄を渡されたら、尋問はこんなもんじゃないわよ」

「マフィアネタか。あんな下らないでっち上げを中央規律委員会が真に受けていると思うか」

「でっち上げでない部分も新たに積み重なっているようよ」

「……」

「ウイグル人の味方になって、国を守護する伝家の宝刀を悪魔の武器のように告発する。それで誰が得をするの」

 紅龍は眉間に皺を寄せると、吐き捨てるように言った。

「自分たちが教育し、自分たちが保護する。その名目のもとで地方民族を支配するのが中央政府のやり口だ。エネルギー資源を搾取し、危険な実験のリスクをかぶせる。チベット人もウイグル人もそうやって組み敷いてきた。お前も少しは頭があるなら現実を見たらどうだ、今の祖国が誇りを持てる国かどうか」

「あなたも誇りを持って遂行したことなら、貫けばいいと思うわ。命を懸けてでもやり遂げるという決意ぐらいはあったんでしょ。そのまま主義を貫いて、食事もとらないで」

 左手で、芯の抜けたような男の身体の中心を掴む。

「こんないい女に乗っかられて、何も考えずに天国行き」

 その一言で、男の顔に後悔とも苦渋ともつかない感情が凝った。それさえなければ、口を結んで死にゆくのも本望ではあったのだ。だがこの女が部屋を訪れて一週間、どうにでもなれと覚悟を決めた体が、異様な熱に炙られてコントロールできなくなっていた。こればかりは、死んでも認めたくない醜態だ。

「乾いた木ほどよく燃えるのよ。特に砂漠では」

 女の軽口に耐えられないというように、紅龍は声を荒げた。

「偉そうな口ばかりきいているが、所詮操り人形の自分も明日をも知れない身だという自覚はあるのか。知りすぎた女はいずれ闇から闇だ」

 下を向くと長い髪が膝近くまで届く。そのもつれた波に指をゆっくり通しながら静蕾は言った。

「それならそれでいい。

 あすもまた生きていたいと思って眠る夜はほとんどないから」

「最初からそう思っていたわけじゃないだろう。

 お前は諦めだけで生きて行けるような無気力な女でも馬鹿でもない。……それに、いつ死んでもいいと思っている女が、飢えた獣みたいにあんなに何度も達するものか」

 ふらりと顔を上げた女の顔の中心で、赤い唇がゆっくり開いて無音の笑みを漏らした。

「そうね、今夜はちょっと違うかもしれない。

 相手があなたじゃなくて別の男だったらいいのに、と思ってたわ。ずっと」

「……」

「あなたはわたしをだれに置き換えていたの。北京に置いてきた奥さん? それとも愛人?」

「やめろ」

 白い裸身をさらして、静蕾はすっと身を起こした。

「明日も来てあげるわね。もしまだ生きていたら、抱いてあげる。

 死の匂いのする男を抱くのは好きよ。

 あなたのひととしての願いは、わたしも美しいと思っている。

 どこまで貫けるのか楽しみにしているわ」

 汗とともに身にまとわりつくシーツを手でばさりと一振りすると、静蕾はベッドを降りた。

 

 部屋に入ると、謝はノートパソコンを見ながら煙草をふかしていた。

 三階の部屋の高窓からは暗いウイグル人街が見下せた。人通りもなく、乾いた道を痩せた犬が歩いてゆく。

「手ごたえはどうだ」背中越しに謝が尋ねる。

「駄目だと思うわよ。折れる理由がないもの」静蕾は謝から渡された煙草を口に咥えながら言った。

「それならそれでいい」

 謝は部屋のモニターから録ったばかりの画像を覗きこんだ。

「この画像だけで失脚には十分だ、家族思いというクリーンなイメージが台無しだな。信頼していますの一点張りの頑固な奥方もこれであきらめがつくだろう」

「じゃ解放してあげるの」

「それも面白いかもしれん」謝は笑った。

「こっちは砂漠で旧友を静養させてやっただけだ、中央に帰れば造反の報告とスキャンダルが待っている。砂漠に放してやって自滅を眺めるのもまた一興か。だが、奴のからだにはまだ使い道がある。

 核の規模、風向き、放射能の影響の規模とその変化。

 ひとの身を使わねばわからないこともあるからな」

 口元をゆがめて、静蕾は嫌悪感を抑え込んだ。なんでもあり、と納得してきたはずの現実が、こうして時々形を成しては自分を平手打ちしていく。

「だが、生きていられるだけで時限爆弾にもなりかねない身だ。支援者もそれなりにいるからな。

 いずれお前に、彼の身柄についてあることを頼むかもしれない。それをやり遂げれば、この幽閉場所からの卒業も夢ではないだろう」

「え?」

「いずれ、だ。お前にその気があればだ」

 瞬間、静蕾の脳裏に、暗い血の色がぶわっと広がって闇に溶けた。

 謝は手を伸ばすといきなり静蕾の手首を掴み、ソファに引き倒した。

「疲れてるのよ、先生」

「お前のその嫌そうな顔が溜らん」

 服を着てから一時間とたっていなかった。


 ……昼間、あの川べりで、

 張家輝は頬を赤く腫らしながら、妙な話をしたものだ。

 

 ……きみの言った言葉。

 『野心家のあなたが選んだ生き方のすべてが、今日、この時に向けて繋がっていたの。

 これはあなたが選んだ道』

 それこそが自分のテーマだ。

 その通り、時が運ぶ偶然と必然の罠を、自分はいつも考え続けている。

 この世に生まれ、出会う人々のすべてが奇跡のような偶然の上に位置していると。

 すべてが奇跡だというなら、奇跡という言葉の性質を裏切ることになる。そのひとつとして奇跡ではない。だが自分にとっては、やはり一瞬一瞬が罠のような奇跡なんだ。


 なにが言いたいの?

 そう問い返した自分に、張は真面目な顔をして言った。


 この罠から逃れ出たいと思っても、結局結晶のように運命は自分を包んで離さない。

 なら内側から自分の力で結晶を作ってやろうと決めた。因果と必然と絶対善、そうしたものをしたり顔して支配する神がいるなら、意味のない生、意味のない死、そうしたものを大量に操ってやろうと。

 この世の何もかもに意味がない。何も報われない。天の賞罰など何もない。それを確かめるために突き進む。そういう生き方があってもいいだろう? 

 もしこれが完全に間違っているなら、神罰は存分に下るべきだ。そいつが下るまでは、自分は力のみを信じる。信仰の対象は自分だ。自分と、偶然という名の必然だ。


 ……張、わたしにはわかる。

 何のかんのと言葉を操っては見ても、あなたは「意味」を求めている。

 自分の任務の意味。正しさの意味。ここでわたしと語る意味。

 自らを満足させる「誇り」のありかを求めている。

 そして、あなたが思うよりあなたは単純。

 たくさんの言葉以外でわたしに触れなかったのは、あなたが潔癖症だから。

 わたしというからだがたくさんの汗と精液で汚れきっているのを知っているから。


 今日の切り返しで落とせたと思った、でもあなたは最後までわたしに触れようとしなかった。これがすべての答え。

 あなたは砂漠を出て行く、わたしは残る。そしてこれからも日々は続く、同じように。


 汗だらけの膨れた体に組み敷かれながら、静蕾の綴じた瞼の裏に、日傘を差し出した張の長い優雅な指と、帰りは自分がと言ってハンドルを握った腕、……そして、きみは変わっていない。と言ったときの笑顔がひらりひらりと明滅して、やがて消えていった。

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