砂漠の薔薇
ターバンを巻いた髭面の大男が、目の前で呪文を繰り返し続けている。
……いくら唱えられても自分は王宮にはいかないぞ。
そんな夢から覚めると、ホテルの部屋はしらじらと朝の光に照らされ、街路のマイクから響くアザーン(礼拝への呼びかけ)がわんわんと響いていた。
張は枕元の時計を見るとため息をついた。そう言えば今日は金曜、……モスクでの総礼拝の日だ。そう運転手が言っていた。迷惑な騒音だ。
張はベッドから身を起こし、顔をこすると、そのままシャワールームへ入った。
緩い水流が耳たぶに触れたとき、静蕾が噛んだ傷が鈍く痛んだ。
『わたしはあなたに会いたかったわ。あなたも、そう?』
そっと触れた傷はもう小さなかさぶたになっていた。
頭から湯を浴びながら昨夜の会話を思うと、なにか芝居の一幕のような印象なのが不思議だ。女の表情も声色も、まるで出番を待っていた女優のようになめらかで揺るぎがなかったからか。
……学院を出て彼女と別れて、再びその名を聞いたのは、公安部内での噂だった。
諜報部の赤い爆弾がウイグルに仕掛けられている。魔女のような女がチベットの坊主落としのために派遣されている。中央幹部を狙う権力者同士の足の引っ張り合いのためにハニートラップとして使われている。……
噂は聞いていたが、それが本当に静蕾だとは信じられなかった。……昨夜、ああして会うまでは。
しかし。その標的が今は自分でないと、どうして言える? あの川底で聞いた打ち明け話の、どこからどこまでが信じられる?
シャワーを止めたとたん、電話の音に気付いた。下半身にバスタオルを巻くとシャワールームを出て、張はベッドサイドの電話を取った。
「Wei」
『フロントです。ニヤの公安局からお電話です。お繋ぎしますか?』
支局長か? 携帯でなく直接部屋に電話? 不審には思ったが断る理由がない。
「ああ、繋いでくれ」
案の定、電話の向こうの声は林局長ではなかった。
『すみません、張様の携帯番号を知りませんでしたもので、宿泊先におかけしました。
ニヤの公安局の朴です。わかりますか』女の声だ。
名前に憶えはないが、ニヤで個人的に顔を合わせた女は独りしかいない。
「茶を出してくれた職員と思っていいか」
『そうです、どうしても緊急にお伝えしたいことがありまして』
「それは林局長からの伝言か、それ以外なのか」
『わたしの単独の判断でおかけしています。責任がわたしに帰ることを覚悟してのお電話です。
張様の行方を尋ねて、不審な男が茶屋を回っていました』
「不審な男性?」
『先を言っていいですか』
「ああ」度胸のいい女だと内心感心しながら張は答えた。
『若い男性です、二十代のなかばぐらいの。わたしは縁台でお茶を飲んでいたのですが、スカーフで顔を覆っていたのでウイグル人と思われたらしく、ウイグル語で話しかけてきました。わたしもウイグル語で対応しました。名前は名乗らないまま、ひとを探していると言いました。
写真を見せられたんです。その中の一枚が……』
「わたしだと」
『ええ』
「ほかに見せられた写真は」
『中年男性でした。わたしが思うに、おそらく、今所在不明の、国防科学委員会の……』
「昌 紅龍」
『そうです』
「……写真はそれだけか」
『はい』
「その男とはそれから?」
『茶屋で接触しただけなので、あとのことはわかりません』
「局長に話したのか」
『いいえ』
「報告には感謝する。身辺に気を付けよう。だがなぜ局長を飛び越えてわたしに」
少し間を置くと女は言った。
『あなた様のお役に立ちたいと思ったのです』
含みのある声色に、自分のテーブルを拭いていたときのねっとりした視線を張は思いだしていた。
「わかった、きみの名前は覚えておこう。何かまたわかったら教えてくれ」
『わかりました。携帯のアドレスを教えてくだされば、空メールを送っておきます。必要のある時はどうぞご連絡ください』
連絡先を教えると電話を切って、張は窓の外を見た。
今日も砂混じりの風が吹き付けている。
おおかた局長あたりと噂話をしていて、こちらが恩を売って損のない相手だとでも思い定めたのだろう。
そして、不審な男……
昌 紅龍の息子の黄龍が、カシュガルで目撃されたという局長のあの話。多分ビンゴだろう。その親孝行な息子が、もうニヤに到達したのか……
ベッドサイドの鞄に手を伸ばし、携帯をチェックする。メールが一通。
静蕾からだ。
〈お約束通り、ホータンをご案内します。都合のいいお時間を教えてください〉
しばらく考えて返事を打ち込むと、張はデスクの上の麻のアルペンハットを手に取った。
理性と感情を整理してからでないと、何から始め、どう判断していいのか自分の中で定まらない。
だが常に大事なことは、未来と向き合う覚悟と、何事も楽しむ余裕だ。
それがたとえ、絶えず吹き付けている砂塵混じりの風であっても。
待ち合わせた茶屋で、静蕾は鮮やかな朱色のスカーフを顔の周りに巻いてチャイを飲んでいた。
背後の壁には砂漠を行く駱駝の絵柄の絨毯がかかっている。がらんとした店内に客は三人ほど、みな円筒形のウイグル帽をかぶった渋紙色の老人だ。
張の姿に気づくと、静蕾は耳の横で指をひらひらと振った。
「ちょうど今来たところ。あなたにもいれてあげるわ」
向かいの椅子に腰を下ろすと、張は差し出されたチャイをひと口飲んだ。
「……塩辛いな」
「ここのチャイはちょっとだけお塩が入ってるのよ。汗をひどくかくとあまり感じなくなる程度なんだけど、あなたは昔からほとんど汗をかかなかったわね」
お茶受けのトウモロコシ粉のナンを勧めながら、静蕾は言った。
「今日はどこに行きたい?」
「そうしていると国籍不明だな」
静蕾はふざけてスカーフで口元を覆ってみせた。
「よくこっちの女と間違えられるのよ」
「なるほど、そいつを巻けば一応誰でも国籍不明には見える」
「誰でも? なんのこと?」
「ホータンに寄る前に一泊したニヤの公安局にいた事務員の女が、そのなりで縁台で茶を飲んでいて、ウイグル語で若い男に話しかけられたと言っていた」
「わたしもあったわ、そういうこと」
「そうか」
静蕾は数秒その切れ長の瞳と見つめ合ったのち、鞄から出した薄い色のサングラスをかけた。
「出ましょう。緑の中を歩かない?」
砂と小石でできた道に縞模様のような影を落として、背の高いポプラが道の両脇に揺れている。白玉河沿いの並木道は光と影がまだらに揺れ、野菜や果物を荷台に積んだロバ車が鈴の音を鳴らしてゆっくりと行き交っていた。
緑の影を白い頬に落として、静蕾が言う。
「わたしね。ここにきて砂漠を見て、当分出られないならせめて砂漠の薔薇を探そうと思ったの」
「薔薇?」
「砂漠の薔薇、sand rose。子どもの頃学校行事で博物館にいったとき見て、それからずっと憧れてた」
「ああ、ミネラルが結晶して薔薇みたいになってる奴か。あれはアフリカの北部とか南米の砂漠でしか採れないんだ」張はあっさりと言った。
「そう、それがわかってがっかりしちゃった。……もう、他に楽しみにできることはないんだなって」
並木を逸れて土手に上がる。白玉河の中央ではスカーフ姿の女性やウイグル帽をかぶった男が何人か集まって、石拾いをしている。
静蕾は日傘をぽんと差した。黄緑色の草原に羊が散る童話のような柄が、陽の光に透けた。
「毎夏、雪解け水にのって崑崙山脈から玉石の原石が流れてくる。羊脂玉と呼ばれる最高級品は、金より高値で取引されるのよ。乳白色で滑らかな、女の肌のような軟石。だからああして人々が玉を探しに来るの。
でももうあらかた採り尽くされてるから、初夏は無理。川が出現して、流れが緩やかになる秋ごろが採り時ね」
張は足元の石を拾った。誰かが置いて行ったのか、薄緑や薄黄色の丸い石が土手の上に転がっている。
「薔薇の代わりに石を探そうと思ったんだけど、本物はみつからなかったわ。一個も」
張は手の中の石を放り投げた。かつん、と彼方の渇いた川底で音がした。石拾いをしていた子どもがこちらを振り向いた。
「砂漠のオアシスで、石拾いのほかにすることもなく二年か」
「ほかにも覚えなければならなかったことはたくさんあったわ。射撃、運転、言語学、暗号解読。そして、……女の技」
張の視線の先で、女はにっと笑った。
「誰よりも優秀に育ったと言われたわ。今ならどんな男でも落とせると。その体は一つの武器だと。試してみない?」
静蕾の胸元は首の詰まった鮮やかな青色のワンピースに包まれていたが、細かい小花の刺繍の列が豊かな曲線を描いていた。
張は腕組みをして、背後のポプラに背を預けた。
「きみの仕事のひとつとして、砂漠に捕らわれた男にしばしの夢を見させる任務があるなら、その結果が表に出ればきみの身も狙われる。闇の世界では有名人らしいからな」
静蕾は意味を測り兼ねるというように首を傾げた。
「茶屋での話の続きをしよう。ウイグル語で話しかけてきたという男の話だ。やつは昌紅龍の写真を持って問いかけてきたそうだ、この顔を見なかったかと。
そしてその男はわたしの写真も持っていた。光栄なことに」
手にしていた帽子をかぶると張の細い目は濃い影に隠れ、東洋人離れした鼻の稜線が一層際立った。
「こっちはともかく、かりにも中国の政治家の写真を見せて、ここらで見かけなかったかなどと同国人に聞くなら悪ふざけと思われても仕方ない。だがウイグル人相手ならただの尋ね人で済むだろう。それほど有名な顔でもないし」
「写真を持っていた男に心当たりがあるの?」
「きみは?」
静蕾は答えなかった。
「紅龍には黄龍という、父親想いの息子がいる。
精錬潔白、汚職を嫌い、圧力にもめげず祖国の核実験の影響を調べていた父親は彼の誇りだったことだろう。
だが紅龍に企業との収賄疑惑を告発された謝局長は当然恨みに思っていた。そのせいで中央政府からこんな砂漠の僻地に飛ばされたんだからな。人生の敵、消し去るべき障壁だ。
マフィアとの癒着という噂は誰が仕組んだか推して知るべしだが、国民に人気のある彼を失墜させるためのストーリーだろう」
静蕾は黙って顔にかかる髪を掻き上げた。他人事のように川に投げた目を、眩しそうに細める。
「息子はどこからか、父親がこのあたりにいる、という情報を得たらしい」
「だとして、なぜあなたを狙うの」
「昌の造反を正式に告発するための資料を集めていたのはこのわたしだ。……そしてそこまでの情報通なら、次に狙うのは」
そこで張は言葉を切った。
「謝局長がわたしをきみにつけたのも、きみをわたしにつけたのも、双方を監視させるためだろう。どうせお互いに旧知の仲だということは勘付いていて、その先まで行かせようとしている。誰のことも信用していない男だからな。
知りすぎたきみが万が一裏切るならわたしの身を使って脅し、わたしが今まで得た秘密を万が一持ち出すならきみとの情事を逆手に取って脅す気だ。砂漠で干されたエロ狸の発想としてはそんなところだろう」
「そうかもしれないし、もっと単純かもね」
「単純?」
「砂漠では何もすることがないから、玩具で遊んでるのよ。たまたまふたつ手に入ったから、くっつけたらどうなるかと。それだけ」
「……」
意表を突いた答えに、茶化しているのか、と思いながら、しかし静蕾に言われるとそれが一番近いような気もするのが妙だった。
拍子抜けしたような張の顔を見て、静蕾は言った。
「いいじゃない、誰にどう使われたって。
思惑通りになるのが癪なら、お互いに身を重ねあっても、恋におちなければいいのよ。ここは砂漠だもの、湿った感情は砂が吸い込んでくれる」
日傘を閉じると一歩進み、静蕾は張と同じ木陰に入った。張は肩をそびやかすようにして言った。
「こう見えてもわたしはロマンチストなんでね。生身の女性ならともかく、“武器”にお相手願う趣味はない」
「ないのは勇気でしょ」
むっと黙り込んだその顔の前に、もう一歩近づいた静蕾の顔があった。薄いサングラス越しに、黒目がちの睫毛の濃い瞳が笑みをたたえてこちらを見据えている。
「継母殺し、義兄殺しの張 家輝さん。
狸の思惑なんて放っておきましょうよ」
「……」
「いろいろとあったけれど、わたしたちはこうして地の果てで再会したのよ。それはたぶん、天がそう定めたことだから。
野心家のあなたが選んだ生き方のすべてが、今日、この時に向けて繋がっていたの。
これはあなたが選んだ道。運命の出会いのようなもの」
静蕾はサングラスを額に上げた。
「それとも、わたしじゃ不足?」