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ホータン1995  作者: pinkmint
4/10

男であるということが

 (シェ)は手元のシガーケースから煙草を一本取り出し、赤銅色のライターで火をつけた。

「お前も座れ、(シン)(レイ)。紹介がまだだったな」

 張は先に口を開いた。

「初めまして、先生にはお世話になっています。公安部社会調査局の(チャン) (ジャア)(フゥイ)です」

「初めましてじゃないわ」女は即座に切り返した。

 謝は二人の顔を交互に見た。

「どこかで会ったのか」

「は、いや……」予期せぬ切り返しに、張は言いよどんだ。

「お会いしたでしょ。覚えていないのね」

 張はテーブルの下の拳をぐっと握った。

「洛陽の、人民解放軍外国語学院でご一緒したわ。今お顔を見て思いだしたの」

「ほう」謝は煙草の灰を落としながら張のこわばった顔に目を向けた。

「張くん、奇遇じゃないか。懇意だったのかね」

「……いえ、大学を出たあと二年ほど通いましたが、個人的には」

「たくさんの同志の中の一人だったし、わたしのことなんて印象に残らなかったんでしょうね。お付き合いしている方もたくさんいらしたし」

「興味深い話だ。どんな相手だね、張君」

「忘れました」

 張は一言で言い捨てた。面白そうに笑いながら、謝は続けた。

「大した相手ではなかったようだな。で、静蕾のことはどうだね。なかなか印象的な女だと思うが、本当に何も覚えていないのか」

 部屋に気まずい沈黙が訪れた。張はしばらく考えた後、静蕾の目を見つめて言った。

「……今、思いだしました。相当印象が変わっていたもので、わかりませんでしたね。

 とにかく優秀でしたよ。学業面では、向かうところ敵なしだったと思います。

 趨勢や権力に日和ることなく、知性と理性でいずれこの国の未来を動かす。そんなことを言っていました」

 女の視線がかすかに揺れて張と絡み合う。

「ほう」

 謝は煙を吐くと口の端を上げた。

「それが本当なら、自分の頭を過信する女にありがちな危険思想だな。そう思わんか」

「若気の至りでしょう」

 張は言い切ると、水をひと口飲んだ。

「彼女もわたしももうそれほど若くない。あれから五年たっています。月日は最高の教師ですから」


 

 

 車は町はずれの和田(ホータン)大橋の手前で止まった。

 ハンドルに手を置いたまま、張の隣で静蕾は言った。

「外に出ましょうよ。星が綺麗だわ」

 橋の周辺にはひと気もなく、ただ群青の闇と静寂が埃だらけの車を包んでいる。

「このまま砂漠に散歩にでも行くのか」

「この先は砂漠じゃなくて川よ。置き去りになんてしないから心配しないで」

 車を降りると、まず満天の星が目に入った。そして煌々と輝く青白い月。その光が照らし出すのは、幅三、四百メートルはあるかと思われる白玉河の、川底に転がる丸石の鈍い光だった。水は一滴も流れていない。対岸の地は闇に霞んで見えず、ただ風の音ばかりがひゅうひゅうと空を鳴らしている。

 河原に降りる途中、石に躓いてバランスを崩した静蕾の腕を、後ろからがっと張が掴んだ。静蕾は軽く振り向いてその手にそっと手を添えた。

謝謝(シェシェ)

 スカーフが緩くほどけ、背中まで垂らしたやわらかな髪が月光色に光りながら張の手に触れた。玉石だらけの川底に目を凝らしながら、静蕾は言った。

「今は干上がっているけど、あと一週間もすれば遥か南西の、チベットとの国境にある崑崙(こんろん)山脈の雪解け水が流れて来るわ。この街はこの白玉河ユルン・カシュ・ダリヤ黒玉河カラ・カシュ・ダリヤの二つの河に挟まれたオアシス都市なの。二つの川は合流してホータン川になり、そしてタリムの大河につながるのよ」

 静蕾はしゃがみこんで地面に触れた。

「川の出現が近くなると、地面の下からも水がしみ出すの。上と下から水脈が繋がって、一気に大河になる。夏の間三か月間だけ現れるその流れを引き込んで、ここの作物は一気に成長するの」

「なぜいきなり爆弾を投げ込んだ」背後でポケットに手を突っ込んだまま張がぶっきらぼうに言った。

「爆弾?」

「五年ぶりに顔を見たとたん、初めましてじゃないだの彼女がいただの」

 静蕾はくすくすと笑いながら立ち上がった。

「怒った?」

「気が知れない」

「覚えていてくれてうれしいわ、張。ケンカしかしなかったわよね、わたしたち」

 静蕾は月光の下の端正な男の顔をじっと見た。

「随分話を盛ったわね。誰よりも優秀だったのはあなたよ。

 そもそもあんな具体的な印象を言って、わたしのことを覚えていないなんてあの狸おやじに通じるわけないじゃない」

「わかっていてカマをかけているんだろうさ」

「たぶんね」

 二人は並んで石ころだらけの川底をそぞろ歩いた。

「いろいろ付き合っていた子がいたようだけどその後どうなったの。日本との混血の可愛いい子もいたわね」

「そんなに聞きたいか。ある日突然日本に帰って、スパイ容疑をかけられていたが後の祭りさ。結局こっちの汚点になった」

 静蕾は愉しそうに声を立てずに笑った。

 張はその横顔を見つめると、足を止めた。

「いや。……今でも信じられない」

「なにが?」

「あの狸おやじの鼻先で酌をしていたのがきみだということが」

 静蕾は黙って男の顔を見返した。

安寧(あんねい)と権力のためなら悪魔に魂を売る豚、それが男というイキモノ。

 そう日頃からきみは啖呵を切っていた。鉄の処女と揶揄されて、処女で何が悪い、一生貫くと開き直っていた。

 わたしの知るきみは、誰よりも優秀で誰よりも食えない、女闘士だった」

 光の粉をまき散らしたような星空が、ひとの目ではわからない速度で、静かに二人の頭上で回転する。

 ゆっくり空に顔を向けて、静蕾は言った。

「あなたも言ったでしょう。月日は何よりの教師なのよ」

 何か答えようとした張を制して、続けて口を開く。

「わたしのことより、あなたはどうなの。自分の任務に誇りを持ってる?」

「任務?」

「核の影響を隠ぺいし、外に資料を持ち出そうとする者を粛清する。それがあなたの任務。そうあの男から聞いたわ。そしてあなたとあなたの上層部はともに、砂漠で炸裂した兵器を愛し慈しんでいる」

「その答えを聞けと言われたか。辺境の局長の愛人として」

「愛人ならあなたに預けると思う?」

「道中いつでもお目付け役がわたしを監視していた。きみもそういった役目なんだろう」

「じゃあわたしはスパイ? 質問には答えてくれないの? わたしは本気で聞きたいのよ」

 張は視線を戻した静蕾を正面からひたと見た。

「……かりにも国防を担う者が核の倫理を今更議論すると思うか。

 そんなものは、大きなものに守られて日々の平和をタダだと思っているバカどもに任せておけばいい。

 実験の被害者が母国の中心でなくウイグル自治区に集中しているのがフェアでないというなら、大都市の中央で炸裂させることについて人民投票でもすればいい。誰が賛成する? 丸腰で平和をむさぼれると誰が信じる? 汚れ仕事を引き受けているのは誰だ? 結果のみを甘受しているのは誰だ? 犠牲者とやらの数を並べ立てて結局なにをどうしたいんだ?」

 静蕾は睫毛の濃い目を見開いたまま身じろぎもしない。

「その結果の先を飲みこめないというなら、正義ごっこは外国のマスコミに任せて黙るか、核のない正義の国へ移住すればいい」

「調査して犠牲者の数を知っても、その気持ちは変わらなかった?」

「ああ、何千人だろうが何万人だろうが知ったことか。これで合格か?」

 静蕾はワンピースの上に羽織ったコートのポケットに手を突っ込んだまま、呟くように言った。

「あなたは変わらない。あのころのままだわ」

 風に捲きあげられる長い髪が、顔の周りで踊る。静蕾はスカーフを解くと、ゆっくりと顔を砂漠に向けた。

「この闇を見続けてもう二年になる。

 おかげで猫以上に夜目が利くようになったし、闇の中でも顔が見分けられる」


 砂漠に二年。

 その数字に、眼前の空間に満ちる孤独と絶望が瞬間、張の身に流れ込んだ。


「わたしは昔のままじゃない。その根性曲がりを直す必要があると再教育されたの」

「再教育?」

「わたしを忌々しいと思ったのはあなただけじゃないってこと。

 うるさく言い寄って来る男を無視していたら、夜道で待ち伏せしていた集団に乱暴された。某地方幹部の息子だった。公に訴え出ると抗議したわたしに指導係は言ったの。その鼻っ柱をへし折ってから女として使えという御達しだ、ありがたく思え。

 そして西山(シーシャン)の山中にある人民解放軍本部に連れて行かれたの。その間、女というものがどういう存在か、思い知らされた。

 何をされても、教育なんだから恨むのは間違い。そしてわたしは国のための、ではなく、勢力争いのための武器になった。ここは最終仕上げの地。

 武器は磨かないと錆びる。たぶん今夜も」

「……」

「あなたが羨ましい」

 静蕾は張の首筋にゆっくりと両腕を回した。

「そうしていつまでも自分の思想を曲げずにいられる、あなたが羨ましい」

 肩に軽く顎を乗せて、背中で扇のように指を広げる。

「たとえそれがわたしと相対する思想でも、誇りを持って信念を守れる、そういう任務につけるあなたが羨ましい。

 男であるあなたが羨ましい。男であることが」

 突然耳元に鋭い痛みが走った。つ、と小声を出して女の身体を突き放し、耳元に当てた張の手に、小さく血がついていた。

 静蕾は口元を拭うと言った。

「砂漠では何もすることがないわ。明日もわたしはあなたのそばにいる。そして望むなら夜も。でも今夜は帰らなくちゃ」

 張はハンカチを出すと、耳にあてながら言った。

「権力争いのための武器になった。さっきそう言ったな」

「そうよ」

「そして多分今夜も、と」

 静蕾は唇に人差し指を当てた。そしてその指で、目の前の男の薄い唇にそっと触れる。

「わたしはあなたに会いたかったわ。あなたも、そう?」

「……」

「あなたがわたしに投げつけたのは言葉だけだった。あなたは紳士だった。

 わたしは、あなたに会いたかった」

 水のように流れてきたむら雲が、満月をさっと隠した。

「ホテルまで送ってあげる。明日は朝からあなたに付き合うわ。行きたいところを考えておいて」

 

 言い終わると、静蕾は静かに張に背を向けた。


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