藪の女
――ハンプティ・ダンプティが塀の上
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
王様の馬と王様の兵士 みんな集めても
ハンプティ・ダンプティ もう戻せない
『マザー・グース』より 作者不明
7月の下旬、一人の男子大学生が刃物で刺され殺害された。名を佐藤光一といった。二週間後、現場から3県離れた町の民宿で若い男女が殺人の容疑で逮捕された。女は井上智恵理といい、光一と同じ大学に通っていた。光一とは幼馴染の仲であり、周囲の人間によると二人は高校時代から既に交際していたという。
「無実ですって、俺は本当に知らなかったんすよ。いつも見たく街でダチと遊んでたら、あいつが急に現れたんです。そんでついてったら男が死んでたんですよ」
智恵理と一緒にいた男は会田定利といい、そこそこ偏差値の高い高校を一年で中退したあとは悪友と共に人聞きの良くないようなことは端からやってのけてきたような人間だった。実際、逮捕された後の事情聴取では最近行った犯罪行為として婦女暴行を自供した。しかしそこにいた刑事を驚かせたのは彼の一法律違反の自供ではなかった。
「殺したのはあいつ、井上智恵理なんですよ。俺と付き合いたいから、元の彼氏が邪魔になったとか何とか言ってましたよ。そりゃあ、俺だってあいつのこと結構強引にやっちゃいましたけど、まさか責任取れとか言って押し掛けてきた上に、こんなことになるとは思わなかったんですって。彼氏殺して、俺なんかとくっ付こうなんて頭おかしいでしょ。あんな重い女なら手ェ出さなきゃよかったっすよ、マジで」
会田は智恵理をレイプしていた。殺人が警察や世間に知れ連鎖的に己の性犯罪までも露見してしまうことと、何より『ヤバイ女』への恐ろしさで、智恵理に言われるがまま光一の死体を車で運んで近くの山に埋めたのだと言う。
刑事達は沈痛な面持ちで首を傾げた。
――何故、井上智恵理は自分をレイプした男にその人生までも捧げようと思ったのか。
殺された光一と智恵理の共通の友人であった、同大学の学生が聞きとりに訪れた刑事にこう語った。
「はい、智恵理がレイプされたのは光一君から聞いてました。智恵理はかなりショックを受けてたみたいで、それを懸命に光一君が慰めていました。光一君も酷く混乱し憤っていましたけど、それでも本当に優しく智恵理を気遣ってあげてましたよ」
何故、警察へ被害を届けなかったかを刑事が尋ねると、少し言い淀んで答えた。
「智恵理がこんなことこれ以上誰にも知られたくない、と強く反対したんです。私たちも警察に知らせなきゃまた犯人が同じことを誰かにするかもと言ったんですが、『お願い、あんなこと私に思い出させないで』と懇願したんです……」
それから少し沈黙した後に語気を強めた。
「どうすれば良かったかなんて、分かる筈がないでしょう。まさか智恵理が光一君をだなんて、本当にどうかしてる。彼が報われなさ過ぎるわ」
佐藤光一のアパートで彼の日記が見つかった。そこには智恵理と交際し始めた日からつい最近の出来事まで彼の主観を通した情景が綴られていた。
6月19日
先日、明朝になって智恵理が(打ち消し線を引かれて判別不能)の姿で玄関に立っていた。一頻り事情を聞いて、ようやく彼女が少し落ち着きを取り戻した。その日は一晩中彼女に付ききりで、ベットに腰かけたまま彼女を後ろから抱いて離さなかった。朝目覚めると、彼女はひどく機嫌の良さそうな笑顔で朝食をつくっていた。焦げ目のついたトーストに野菜と目玉焼きを挟んで、オレンジジュースが二つのコップに注いである。無理していることは一目で分かった。僕はなんと言葉を掛けていいか分からず、「おはよう」と言った。彼女も「おはよう」と小鳥が囀るように言ったが、鈍い響きばかりが耳についた。だが僕まで気落ちしてどうする。気丈に振る舞う彼女を支えなければならない。僕は僕以上の振る舞いをしなければ。
6月25日
彼女は汚れてしまってなんていない。あんなことで汚れてしまった、もう愛せないという人間がいるならばそれはレイプ魔と同じ残酷で傲慢な支配欲の塊、色欲狂と罵ってやる。彼女は本当に美しく、強い人だ。僕は彼女に惚れ直したと言っていい。勿論、そんなことを言っても彼女は恥ずかしがるだろう。小学生の頃から知った仲だ、ふざけ合う友達であり、親身になってあれこれ相談してくれる親友であり、妙なところで競い合うライバルでもあった。そして僕らは今、永久に変わることのない愛によって結ばれてる。勿論、そんなこと口に出して言ったら僕が恥ずかしいばかりなのだが。だけどそれを智恵理もきっと感じている筈だ。
7月1日
智恵理は変わらない。ただ、少し僕らが一緒にいる時間は短くなったように思える。彼女はときどき怯えたような目で僕を見る。優しくすればするほど、彼女は腹を立てる。光一らしくない、と言うのだ。僕らしくない? 成程、確かに僕はあれ以来、気を張っていたのかも知れない。それは必要なことだった。けれど、そろそろそれも止めて、(打ち消し線を引かれ判別不能)に忘れてしまおう。あれは過去だ。過ぎ去った悪夢だ。今日から僕らは元通りなのだ。
井上智恵理は取調室で長いこと沈黙を守っていた。逮捕から一週間が経とうとした或る日の午後、不意に何かが決壊したように激しく泣きじゃくり、ようやく事の次第をぽつりぽつりと話しだした。
「はじめは会田を殺したいと思いました。勿論、死にたいとも思い睡眠薬も買い込みましたが出来なかったんです……。私は次第に光一が憎くなりました。会田よりもずっとです」
支離滅裂な言葉は独り言のようではあるが、時折聞きとる刑事へ向けられる智恵理の皮肉な笑みがコミュニケーションを成立させた。
「だって私がこんなになったのを、こともあろうに光一が知っていたんですよ。耐えられる訳がないでしょう。それで7月のはじめ、彼が別れようって……。僕と顔を合わせにくいんだろうって、罪悪感を感じる位なら距離を置いた方がいいって。でも光一君はいつも良い人の振りをしているんですよ? きっと自分自身すらすっかり騙してるんです。だって、あのとき口ではそう言っていながら目は優しさの欠片も見せないで、私を軽蔑していましたもの」
呼ばれていた交通課の婦警が、智恵理の腕を壊れものを扱うように触れた。智恵理はそれに関して暫く如何様の反応も示さなかった。静寂の中、刑事達がそれぞれの思索に入りそうになったとき、突然智恵理は引きつけを起こしたように激しく暴れ、刑事数人に取り押さえられた。再び彼女の口から嗚咽が漏れた。
「嘘です、今言ったことは全部嘘なんです。会田が光一を殺したんです。私は会田に脅されて一緒にいただけです。本当です……。ねえ、私あの男にレイプされたんですよ……? それも一回だけじゃなくて、一緒に県の外に逃げてからも毎晩、毎晩。裸で汗まみれのまま朝を迎えて、自分の体に染みついた臭いも毛も何もかも汚らしい蒲団の上の生きた泥みたいに。あの男を死刑にして下さい、じゃなきゃ私は生きていられません……」
刑事達はコンクリートで囲われた狭く暗い取調室の、色褪せた光を放つ蛍光灯の下で顔を見合わせた。