Ⅸ
俺には、考えなければならない事があった。
今は、正確にはいつなのか。
俺のバンドは、まだ生きているのか。
バンドを続けているのか、デビューしているのか、それともバンドが解散した後なのか。
例え、どの時間でも、俺は過ぎた日を取り戻してやる。
木綿子を、俺の前から何があっても消えさせたりしない。
そして―。
産まれてくるはずのあいつに、
「父親はギタリストなんだ」
胸を張って、言ってやる。
俺は、自分の全身に精気が満ちてくるのを感じた。
肉体が若いからだけじゃない。
何十年も忘れていた、未来へ思いを馳せる事。それが、再び俺の中に蘇っている。
いつの間にか、夜は明けて、カーテンの隙間から細い光の筋が部屋へ差し込んでいる。
ベッドから起き上がり、一気にカーテンを引いた。眩しい光が薄暗い部屋を一瞬で満たす。
この光が、俺に力を与えてくれているような気さえする。
生まれ変わる、とは、まさにこう言う気分を言うのか。
ベッドの上で、小さく動く木綿子の気配を背中で感じる。
「早起きなんて、珍しいね」
起き抜けのハスキーな声で、木綿子が笑った。
「俺は、生まれ変わったんだ」
笑いながら振り向くと、彼女は目を丸くした。
「ヘンなの」
弾ける様に笑いながら、木綿子はベッドから半身を起こした。
「木綿子」
ベッドの端に腰を降ろし、起きたばかりの彼女をそっと抱きしめてみる。
細いくせに、柔らかい身体。
夕べの興奮が忘れられずに、彼女の小さな肩に頬を埋めた。
「なーにしてんの?なんか、昨日からヘンだね」
木綿子がくすくすと忍び笑いを漏らす。
唇で、彼女の頬に触れた。
木綿子が、顔を傾けて、俺のほうを向いた。すかさず、自分の唇を彼女の唇に重ねる。
そのまま、彼女の身体をベッドに沈めようと試みる。
「だーめ。朝は、忙しいんだから」
軽く抵抗する彼女の腕を抑え、俺は、もう一度唇を重ねようとした。
その途端、木綿子は身を翻して俺から逃げた。
俺は、一人、敢え無くベッドに顔から着地した。
木綿子は俺の様子が余程おかしかったのか、笑いながらベッドを這い出て行った。
木綿子の笑い声が、心地良く耳に響く。俺は、その笑い声にこの上ない幸せを感じていた。
「朝御飯、食べるよね?」
木綿子はキッチンに向かいながら言った。
「うん」
俺は、ベッドから起きて返事をした。
キッチンに向かう彼女の後ろから、後を追った。
彼女の傍から、一時でも離れたくなかった。
「子供みたい」
木綿子は、不思議そうな顔をしながら、俺の様子を笑った。突っ立ったまま、彼女が朝食の支度をするのをずっと飽きることなく見ていた。
少しでも彼女の記憶を、自分に残したかった。
自分の記憶の全てが、彼女で満たされるまで、そうしていたかった。
木綿子は笑う。俺は、一瞬でも見逃したくなくて、瞬きするのも忘れたように、彼女ばかりを見ていた。
笑顔が俺の欠けていたものを埋めていく。
このまま、ずっと、現在が続けばいい。
例えこれが、俺の過去の幻想に過ぎないのだとしても、この一瞬の連続が終わることなく続いていけばそれでいいんじゃないか。
「後ほど、お迎えに上がります」
だめだ。
死神はそう言った。
この幻想にも、やがて終わりは来る。
死神が来るまでに、俺は何をしなければならない?
「木綿子、お前、いくつになったっけ?」
思いついて、木綿子に訊ねてみた。
「二十二じゃない、何言ってんの?」
木綿子は膨れ面で、俺を振り返った。
「誕生日にご飯連れてってくれたじゃない。まさか、お酒飲み過ぎてもう忘れた、とか言わないよね?陽ちゃんのギャラでご飯食べたの、初めてで、あたし嬉しかったんだからね。忘れたとか言うのやめてよね」
そうか。
木綿子の誕生日より後なのか。
俺は、記憶を辿ってみた。
木綿子の誕生日の食事。
デビューしても、テレビなんかに出る訳じゃなく、小さなライブハウス(ハコ)をプロモーションの為に回っていた。ロック雑誌で小さく取り上げられた事もあるが、有名になるには程遠かった。
地方への遠征もあり、デビューする前よりは活動する量が増え、当然忙しさだけは感じるようになっていた。
だが、レコードは想うように売れず、俺達は、現実の重みを感じだしていた頃。
疲労と徒労を感じる俺を、彼女は支えてくれる存在だった。
木綿子の誕生日、俺はプロになって、初めてのギャラで彼女を食事に誘った。
彼女は、記念するべき初めてのギャラなんだから自分の為に遣え、と言って聞かなかったが、俺は、どうしても、彼女の為に何かをしたかった。
しかし、大した額でもなく、気の聞いた物をプレゼントできるものでもなかったから、食事に行こうと誘ったんだった。いつも行かないような、少し気取ったフレンチレストランに二人で行った。俺は、長髪のアウトローでネクタイなんかしたことも無く、無理をして白いシャツにネクタイを締めた。彼女は、似合わない、と終始笑いながら俺をけなした。
ワインを飲みながら、息が詰まるほど緊張して食べた料理は、味がしなかった。
それでも、彼女は喜んでくれた。
記憶が、走馬灯のように廻る。
俺はその時を思い出しながら、木綿子の笑顔を見つめ続けていた。
いつもそうしていただろう、少し濃い目の化粧をして、木綿子は出かけて行った。
一人、部屋に残された俺は、する事も無くギターを抱いてぼんやりと思いを巡らせていた。
生まれ変わって、人生を変えよう。
そう決心したのはいいが、何をするべきなのか。
今の俺は、今日の予定さえわからない。
オーディオの電源を入れてみる。ラジオから、軽快な英語が聴こえてきた。
この頃は、チューニングは、一日中洋楽が流れているチャンネルに合わせてあった。
ラジオの番組は、ヒットチャートを流している。
ランキングと、曲を紹介するコメントが流れ、
ポーカロのドラム。
ハンゲイトのベース。
ルカサーのギターが重なる。
この頃、木綿子が一番好きだった曲。
ROSANNA。
二人で、TOTOのアルバムを飽きることなく聴いていた。
ラジオから流れる曲に合わせ、ギターを爪弾いていると、思いがけず玄関のチャイムが鳴った。
誰だ?
訊ねてきた者が誰なのか思いつかず、恐る恐るドアを開けた。
「よぉ」
肩まで伸ばした長髪に、サングラスをした痩せた男がドアの前に立っていた。
俺は、心臓が止まるくらいに驚いた。
「なんだよ、変な顔して」
男は怪訝な顔で、俺を見返す。
「祐輔・・・」
俺は、ようやく声を出した。
声が擦れていた。
「祐輔、お前」
俺は、俺の前に立っている男に、何を言って良いのかわからなかった。
昨日、木綿子に再会した時のように、胸の中に懐かしさと、愛しさに似た感情が溢れてくる。
また、涙が溢れそうに鳴っている。
「何、なんだよ、お前。何泣きそうな顔してんの」
「祐輔!」
俺は、祐輔の首を両腕で抱きしめた。
俺より少し背が低い祐輔を、上から抱きしめる格好になった。
「なっ、何だよ!お前!気持ち悪い」
祐輔は、俺の腕から離れようともがいた。
「気持ち悪いってば!離せ!」
祐輔は俺のTシャツのわき腹を掴み、力任せに俺を投げ飛ばした。
「何なんだよ、お前は」
肩で息をしながら、サングラスを取った。
サングラスを取ると、濃い黒目で俺を見た。
全体に小作りな顔のパーツで、眼だけがくっきりして見える。そのせいで童顔に見られ、本人はそれが気に入らず、ステージでもサングラスをしている。
「お前、まさか、ソッチの方に目覚めたとか言うんじゃないよな」
横倒しになった俺を、座り込んで覗き込み、心底嫌そうな顔をしている。
「すまん、あまりに懐かしくて」
俺は、もうずいぶん長い事あっていない友人に、感慨をこめて言った。
「懐かしいって、お前ホント気持ち悪い。殆ど毎日顔見てるだろ。昨日も会ったし、一昨日も会った。ホント気持ち悪ぃ!」
俺は、過去にいる事を思い出した。
長い事会っていないのは、俺達が夢を諦めた後の事だ。
この頃の俺達は、祐輔の言う通り、ほぼ毎日のように顔をつき合わせていたはずだ。何故なら、祐輔は俺の仲間だったからだ。彼は、俺達のバンドのヴォーカルをしていた。いや、今が過去なら、ヴォーカルをしている、だ。
俺と祐輔は、二人でバンドのオリジナル曲を創っていた。祐輔が詩を書き、俺が曲をつける。出来た曲を他のメンバーと一緒にアレンジを重ねて、一つの曲にしていく。そうやって、曲作りをしていた。
「それで、どうしたんだ?」
俺は、起き上がって、祐輔を部屋に迎えながら聞いた。
「あん?お前、どっか悪いの?昨日新曲の話したばっかりだろ。忘れたの?」
祐輔は呆れ顔で俺を見上げた。
そうだった。俺と祐輔は曲の打ち合わせや、曲作りを大抵はこの部屋でしていた。当時、祐輔は古臭い下宿屋に住んでいた。祐輔の家では思うように音を出す事ができず、俺の部屋に集まる事が多かった。祐輔は一日の大半を俺の部屋で過ごしていた。もしかしたら、木綿子より長くこの部屋で時間を過ごしていたかもしれない。
祐輔はリビングのテーブルに座り込むと、自作の詩が書き連ねてあるノートを拡げた。
俺は、懐かしさと嬉しさがない交ぜになって、自然に笑顔になっていた。
「・・・・・・・・・・・」
突っ立っている俺を、祐輔が無言で見上げた。
「お前、ホントさっきから何なの?」
眉をひそめて、俺の様子を咎めた。
「いや、何か飲むか?」
俺はキッチンの冷蔵庫を開けた。ハムエッグが二皿、冷蔵庫に入っていた。木綿子が作り置きしておいてくれたものだ。一つは、多分祐輔の分だろう。
コーラの缶を二つ取り出し、部屋へ戻った。缶の一つを祐輔の前に置いた。
「・・・気持ち悪。いつもこんな気ぃ遣わないくせに、どうしたんだ」
缶のプルトップを人差し指でつまみながら、祐輔が不審そうな顔をした。
「そうか?」
素知らぬ顔で、俺は自分の持っている缶を開けた。
「いつも、勝手に冷蔵庫開けるまで、何か出してくれた事なんて無いくせによ。気持ち悪いぜ」
俺は笑いがこみ上げてきて、止まらなくなった。
嬉しかった。
仲間が、とうの昔に俺の前を去った仲間が、俺の目の前で息をして、しゃべって、動いている事が嬉しくてたまらなかった。
祐輔一人でこんなに嬉しくなるなら、メンバー全員揃ったら、俺は笑い転げて発狂するかもしれない。
俺は、バンドのメンバー全員に会いたくてたまらなくなった。
「お前、頭おかしいんじゃないの?今度は何がそんなにおかしいんだよ」
祐輔は憮然としている。
「他の皆はどうしてる?」
俺の質問に、祐輔は呆れた顔を通り越して、怒りに似た顔をした。
「どうも、何も。夕方から、ライブハウスでリハだろーが。嫌でも顔合わせるぜ。お前、ホント大丈夫?」
「そうか、ライブか」
どうやら、今日はライブをやる日らしい。
ライブハウス。その言葉一つでさえ、懐かしい。
「暫らくライブ続きだったっけ?」
俺は、さりげなくスケジュールを確認しようとした。
「お前、スケジュールくらい覚えとけよ。ちゃんとメモくらい取っとけ。大体、マネージャーの話だって、お前まともに聞いてないだろ。俺が迎えに来るから良いようなものの、俺がいなかったら、お前ライブの日もいつなのかわかんないんじゃないの?」
祐輔は神経質な眼を俺に向けた。
俺は苦笑いしながら、思い出していた。
祐輔は、童顔の反動なのか、ステージのパフォーマンスは意識して男臭さを出していた。だが、普段は、気が優しく細かい事に気がつくヤツだった。リーダーなんか決めてはいなかったが、面倒見の良さと人の良さで、祐輔は自然とバンドのリーダーのような役割をしていた。俺はと言えば、大雑把で実際、スケジュールなんて、把握している事など無かった。俺の大雑把振りは、メンバー全員が知っていた。大抵、祐輔が俺を迎えに来て、予定の場所へ一緒に行くのが常だった。俺は人の話を聞かないんじゃなく、祐輔が話を聞いていれば安心だから、祐輔に頼りっきりだったんだ。
「とにかく、新曲だよ。新曲を作らなきゃ」
祐輔は、ぼんやり思い出に浸る俺を無視して、ノートに書いた詩に眼を落とした。
祐輔とのやり取りは、俺の懐かしい記憶をまた蘇らせた。
俺は、詩を書く祐輔の向いで、ギターを持って、弦を弄ぶように鳴らした。
こうやって曲を創っていた。
祐輔の詩を詠みながら、俺が頭に浮かんだコードを弾いていく。
コードは、やがてメロディーとして繋がっていく。
この作業が、たまらなく嫌になった事もある。人と違う事をしたい。その思いが強すぎて、苦痛を感じることもある。それは、祐輔も同じだっただろう。人を惹きつける詩を書きたい。ありふれた言葉で単純な詩なんか書きたくない。その二人の思いはしばしばぶつかる事があった。絶対的に自信がある詩を書いた時、祐輔は俺に、過度の要求をする事があった。ありきたりのメロディーなんか作るな。俺は、俺だけの歌を歌いたい。逆に俺のメロディーが完璧だと思える出来に至った時、俺は祐輔に完成度の高い詩を要求した。
俺達はそうやって、ぶつかり合いながら俺達の曲を創った。
長い間、ギターからも音楽からも離れていたはずの俺なのに、祐輔との懐かしい共同作業は、一瞬で俺を肉体と同じ精神年齢に引き戻した。
イメージが頭の中に溢れるように湧いてくる。
コードを弾いているうちに、俺の指はだんだんと速く動いていく。右手の指と、左手の指が、6本の弦から音を絡め取るようにリフを始める。クラシカルな音階を組み合わせた、オリジナルのようでオリジナルではないフレーズ。弾いているうちに止まらなくなって、思いのままに俺は弾き続けた。
まるで、エディと、イングウェイをごちゃ混ぜにしたようなリフを弾き終えて、俺は深く息をついた。
向いに座る祐輔の眼が輝いている。
「お前、すげーな」
感嘆した。
俺は、あんなに長い事、弦に触れることさえなかったのに、自分の指がギターを覚えていることに感動していた。
「でも今の、ヴァンヘイレンのパクリだろ」
さすがに、祐輔はごちゃ混ぜに気付いた。
「ギター弾いてる時は、細かいリフが多くて神経質そうに思えるんだけどなぁ。普段大雑把過ぎるくらいに雑なヤツが弾いてるとは思えないね」
祐輔は、嫌味を一言付け加える事も忘れなかった。