Ⅷ
死神は、両手で俺の顔を包み込んだ。
自分の額を、俺の額に近付けた。
死神の両手が、真っ白く発光する。
死神の発する光が、俺の全身を包み込み、俺は眼が開けられない程眩しい、光の渦に巻き込まれた。
遠くから、音楽が聞こえる。
懐かしい、曲。
光の渦は、俺を飲み込み、全ての色が消え去った。
真っ白な光。
「言っておきますが、運命は変えられません。アナタの運命は、ね」
死神の声が遠くなって行く。
光の渦は、俺を飲み込んだまま、ぐるぐると回っている。
どのぐらい続いていたのか、俺は突然、眼を覚ました
眠りから、覚醒した。
視界がぼやけている。
薄目を開け、ぼやけた焦点を戻す。
ようやく、焦点があってきた。
天井に嵌め込まれたペンライト。
見覚えがある気がする。
ここは、どこだろう。
酷く懐かしい気がする。
俺は、どうしたんだろう。
死神は、どうした。
頭を少し、動かす。
視線がずれ、黄ばんだ壁が眼に入った。
壁際には、レコードが並んだ棚。棚に入りきらないレコードが、床に積み上げられている。
いつか見た記憶の風景。
なんだろう。
手を動かすと、枕元にタバコの箱があった。
タバコを手に取り、中の一本を指でつまんだ。
リアルだ。
まるで、俺は生きているようだ。
視界に入った手は、しっかりとした存在感を持っている。
軽く握ってみる。
そして、開いた。
半透明ではなく、輪郭を持つ手。
どうしたんだ?
死神は、俺に何をしたんだ?
ふと、気がついた。
俺の手は、こんなだったか?
かさかさに乾いて、節くれだっていたはずの手が、みずみずしい、弾力を持った手に変わっている。
俺は、自分の手を眺めながら、違和感を感じた。
やがて、違和感は決定的になった。
左手の指先の皮膚が、白っぽくなっている。
右手で触れると、固かった。
コチコチに固まった、左手の指先。
ギターを弾く手が、そこにあった。
俺は、ベッドから跳ね起きた。
一体、これは何だ。どうなってるんだ?
起き上がって、部屋の中を見渡す。
壁際に所狭しと置かれたレコード。
レコードの傍には、新品のオーディオセット。
ヘッドフォン。
部屋の真ん中には、小さなテーブル。
俺は、眼を見開いた。
この部屋は―。
そして、ベッドの傍に、レスポールと使い込んだアンプ。
昔、プロになるなら、レスポールくらい持ってないと駄目だ、と見栄を張って無理して買った。
レスポールなんて、とっくの昔に手放したはずだ。
何故。
まさか、ここは。
この部屋は。
テーブルの上に、小さな鏡が置いてある。四角くて、折り畳んである鏡。
過ぎ去った記憶の中で、それは、木綿子の記憶に繋がった。
木綿子が、化粧をする時に使っていた鏡だ。
俺は、鏡を手に取った。
鏡を開き、自分に向ける。
鏡の中にいるのは、俺だ。だが、俺じゃない。
なんだ、これは?
死神、これは一体何だ?
鏡の中に映っているのは、歳を経て乾いた男の顔では無く、張りのある肌を持った若い男。
二十代の頃の俺。
鏡の中には、確かに若き日の俺の顔が映っている。
俺は、生き返ったのか?
しかも、青年だった頃の俺として?
俺は、自分の股間に手を当てた。
「うわぁ」
情けない声が思わず出た。
俺は、自分の股間の状態に驚いて、慌てて手を離し立ち上がった。
歳を経た俺でも、多少の性欲は、あった。面倒な手順を踏まずに、それを解消する相手もいた。だが、こんなことは―。
やっぱり、俺は二十代の俺に戻っているのか?
「それは、ちょっと違うんすけどね」
いきなり、背後から死神の声がした。
慌てて後ろを振り向くと、ベッドの脇の壁から、死神が身体の半分だけ、姿を現していた。上半身だけが壁から生えている。頭のハンチングを片手で抑えながら、死神は口角を上げて笑っていた。
「一体、どうなってるんだ?」
「勘違いしちゃいけません。アナタは生き返ったわけじゃないすよ」
「だが、この身体は、一体何だ?それに、この部屋は、ここは俺が彼女と・・・」
「言ったでしょう。アナタの想いを解消しないといけないんすよ。アタシは、アナタが選んだ時間にアナタをお連れしただけすよ。アナタは、アタシが行こう、と言った時、この時間を選んだ。アナタが想いを残す時間をね。アタシはアナタの意識をここに飛ばした。正確にはアナタの意識をアナタの過去の身体に入れた」
過去の身体に?
「アナタが、この時間に残していた想いをどう昇華させるのか、それはアナタ次第です。じゃ、後ほどお迎えにあがりますんで、頑張って下さい」
「ちょっと待て、死神」
死神は、壁の中に吸い込まれるように消えていった。
俺は、呆然と立ち尽くすしかなかった。
一体、俺にどうしろって言うんだ。
いきなり過去に戻されたって。
第一、俺はもう死んでいるのに。
やり直したいか。死神はあの時そう言った。
やり直す?何を?俺の人生を?
やり直すことができるのか?
もし、やり直すことが出来るなら―。
運命は、変わるのか?
心臓が、有り得ない事態についていけず、どくどくと早鐘を打っている。
レスポールにそっと触れてみる。
弦が張り替えられたばかりらしい。
ネックを掴み、引き寄せる。
右手に、ピックをつまむ。
深く息を吸い込んで、止める。
左手が、ネックの上を滑り出す。
息を止めたまま、頭に浮かんだ曲を一気に弾いた。
マイナーコードの息をつく暇も無い程の、速いコード進行。
繰り返すリフ。
ハイウェイスター。
ギターを始めた頃、何度も練習した曲。
指先が、弦の感触を味わうように動く。
ああ、そうだ。
俺は、こんな風に弾いていた。
もし、あの時の後悔を、後悔で終わらせない事が出来るなら。
左手を止めて、大きく息をする。
もし、出来るなら、俺は―。
だが、今が一体いつなのかもわからない。
彼女が、去っていった日の前なのか。
映画や小説で見る、新聞を開いて日付を確認する、なんて事は出来なかった。
俺には、新聞を読む習慣なんて無い。
この若い肉体は、健康そうだ。
ドラッグに手を出す前なのか?
それなら、彼女は、まだ俺の傍にいるはずだ。
玄関のドアを開ける音がした。
ごくり、と生唾を飲み込んだ。
俺は、玄関に繋がるリビングのドアを見つめた。
もし、彼女にもう一度会えたなら。
「心配しないで」
あの言葉を言わせずに済むのなら。
玄関を閉め、靴を脱ぐ気配がする。
心臓が、さっきよりも速く、どくどくと脈を打つ。
足音が、リビングのドアに近づいてくる。
カチャリ、とドアノブが回る。
「ただいま」
懐かしい声が、俺の耳に飛び込んできた。
そこには、懐かしい女の顔があった。
木綿子―。
肩まで伸ばしたストレートの髪。小柄で、痩せているくせに、洋服の上からでもそうとわかる胸のふくらみ。
童顔で、齢より若く見られるのが嫌いで、濃い目の化粧をしている。
あの頃の、木綿子。
「寝てたの?もう夜だよ」
木綿子は、いかにも起きたばかり、と言う様子の俺を見て笑った。
「その様子じゃ、ご飯食べてないよね?何か作ろうか。冷蔵庫になんかあったかな」
恐らく、前夜に俺が脱ぎ散らしただろう服を片付けながら、木綿子は言った。
俺は、動き回る彼女を目で追った。
記憶の中の彼女と、少しも違わず、言葉を発し動いている。
木綿子は、俺の服を片付けると自分の着替えを始めた。
彼女は、この頃食品会社のOLをしていたはずだ。
まだバンドがデビューする前、ライブ帰りに駅で酔っ払いに絡まれている彼女を、俺が助けた。助けたと言っても、大した事じゃない。
ライブが終わって、仲間と打ち上げ代わりに飯を食った帰り、俺の乗る駅に彼女がいた。
彼女は、しつこい酔っ払いに辟易していた。周りにいた人間達は係わりになるのを避け、誰も彼女を助けようとしなかった。
多少酒が入って気が大きくなっていた俺は、見かねて彼女と酔っ払いの間に割って入った。酔っ払いは、意外と気が小さく、俺を見てそそくさと彼女から離れた。
それだけの事だったが、彼女との縁はそれが始まりだった。
メジャーを夢見てライブを続ける俺を、支えてくれる存在になっていった。
スーツのボタンを外し、ハンガーに上着を掛ける。俺は、たまらなくなって、彼女を後ろから抱きしめる。
木綿子がいる。
抱きしめた彼女は、柔らかい。
「どうしたの?」
木綿子は、抱きしめた俺の手を優しくさする。
俺は彼女の肩を思い切り抱きしめ、首筋に何度もくちづけた。
「どうしたの、陽ちゃん。怖い夢でも見た?なんてね」
木綿子はまるで、母親がするように俺の頭を優しく撫でた。
俺はたまらなくなった。
あの日、俺の前から消えた彼女。
二度と戻らなかった彼女。
そして、あいつを産んだ。
あいつへの想いと木綿子への想いが交差する。
木綿子が俺の傍にいる。
俺の右手が、木綿子の乳房に触れる。
俺は、木綿子が着ていたブラウスのボタンを引き千切るように外した。
「もお、どうしたのよ」
木綿子は、困惑しながらも俺に抗おうとはしない。
立ったまま、俺の手は木綿子を求め続けた。
彼女の呼吸が速くなり、息が荒くなる。俺は、高まる感情が抑えられない。
床の上に、彼女を押し倒した。
覆いかぶさるように、彼女の上になり、両手で彼女の頬を包んだ。
「木綿子―」
彼女の名前を呼んだ。
喉の奥から振り絞るように出した声なのに、擦れていた。
木綿子は薄く目を開けて、不思議そうに俺を見る。
俺は、泣きそうだった。
涙が溢れそうになっている。
木綿子の唇に、俺の唇を重ねる。
柔らかい唇を、何度も噛んだ。
唇を離し、首筋に這わせる。
下着を外し、彼女の柔らかい胸のふくらみに顔を埋める。
そうやって、長い時間をかけて、俺は木綿子の存在を確かめた。
確かめずにはいられなかった。
何度も、髪の匂いを嗅ぎ、何度も唇に触れた。
そうせずにはいられなかった。
俺は、溢れ出てくる涙と感情の全てを彼女の身体にぶつけた。
俺の、若い肉体は、果てなどないくらい、彼女を求め続けた。
何度も、名前を呼びながら、俺は彼女の中に、俺の痕跡を残した。
ゆっくりと彼女の身体から離れた。
横たわる彼女を、もう一度抱きしめた。
俺は、この女を愛している。
心の底から、そう思った。
やり直せるのなら。
俺の人生をやりなおせるのなら。
彼女が去っていった日を、消し去る事ができるなら。
俺は、何でもするだろう。
痩せた体を抱きしめながら、俺は決心した。
俺の過去を変えてやる。
運命を、変えてやる。