Ⅶ
金曜日。
雨はまだ、降り続いていた。
棟方と安田は、俺の身体を心配しながら、日付が変わる前に店を出て行った。
二人が去った後、看板の電気を消し、冷蔵庫を開けた。
大貫から渡された包みが、冷蔵庫の中に隠してあった。
包みを開け、中の物を手に取った。
黒い銃身が、薄暗いライトの灯りを吸収したように、鈍く光っている。
銃身を持ち、銃口をこめかみに当ててみる。
銃口は、重い金属の冷たさを俺のこめかみに伝えた。
俺は、疲れた。
何故、運命と言う奴は、俺を放っといてくれなかったんだろう。
そうしてくれたら、俺は、過去を捨てて記憶の底に閉じ込めたまま、静かに朽ち果てていけたのに。
引鉄を指に掛けて引いた。
カチッと音がして、引鉄は引ききられること無く止まった。
ああ、安全装置を解除していなかった。
俺は、馬鹿馬鹿しくなって、銃身をカウンターに放り出した。
彼女は、一人で新しい命と向き合うために俺の前から消えたのか。
父親は、ギタリストだった、と息子に教えたのだろうか。
二人で夢中で聴いていた曲を、息子と一緒に聴いたのだろうか。
そして、息子の中で、父親は憧れの存在になったのだろうか。
俺は、カウンターに突っ伏した。
涙が、突っ伏した腕を濡らした。
何故、俺は泣いているんだろう。
涙なんて、流した記憶も無いくらいに忘れていたのに。
俺は、自分を呪う事しかできなかった。
カウンターに突っ伏したまま、過ぎた過去を呪った。
自分がしてきた事。
自分がしてきた事の結果。
そうして、過去の自分を呪っても、現在は何も変わらない。
何時間もそうしていた気がする。
ジーンズのポケットの中の携帯が、短く鳴った。
約束の時間だ。
俺は、大貫の仕事をやらなければならない。
取引先は、中国系だと安田が言っていた。
安田がそこまで知っているのなら、今回の取引は警察の知れるところなんだろう。
ふと、カウンターの上に放り出した銃身が眼に止まった。
暫らく、黒い銃身を見ながらぼんやりしていた。
願わくば、だ。あいつが現場にいないことをぼんやりとした頭で願った。
そして、俺は、すっかり重くなった身体を起こし、カウンターから離れた。
カウンターの上で、黒い塊は冷たく光っていた。
皮のジャケットをはおり、店を出た。
ドアを開けると、辺りは静かだった。
ドアの鍵を掛け、半地下の階段をゆっくり上る。
喧騒に溢れていた街は、朝の光と共に静けさを取り戻して行く。
まだ薄暗い朝靄の中を、約束の場所に向かって、俺は歩き始めた。
この街には、もう、戻る事はないんだろうな。
漠然と、そう思った。
約束の場所は、埠頭の海沿いを整備した公園。
雨は、上がりそうだ。
俺は、傘を指さず、ジャケットのポケットに両の手を突っ込んで、なるべくゆっくり、指定された場所へ向かった。
公園には、夜が開けきらぬ早朝だと言うのに、まばらだが人影があった。
ジョギングを始める前なのか、念入りに柔軟体操をしている男。
店がハネた後らしい、ケバい女とサラリーマン風のカップル。
犬を連れた中年の男。
一見、何の関連も無く、お互いに無関心を装いながら、絶妙な距離を保っている。
張られてるか。
俺は、ため息をついて、手近のベンチに腰を降ろした。
濡れたベンチが、ジーンズに冷たい感触を伝える。
公園の敷地に入る時、入り口近くに止めてあるセダンが眼に入った。
大貫か、大貫の取引相手か。いずれにしろ、俺がうまくやれるか見張っているだろう。
失敗れば、俺を殺るつもりか。
それでもいいさ。
ポケットから、タバコを取り出し、風を避けながら火を点けた。
ライターと一緒に、ポケットに手を突っ込む。
両手をポケットに突っ込んだまま、ベンチの背もたれに寄り掛かった。
雨は、上がっていた。
タバコを銜えたまま、煙を吐き出す。吐き出した煙は、風に流されていった。
俺は、このまま、流されていくんだろう。
麻薬の密売、喰らうのは、何年だったか。
ぼんやりと考えた。
別に、どうだっていい気分だった。
ただ、もうあいつには会いたくなかった。
このまま、あいつに会わずに、あいつの記憶から消えたい。
あいつの記憶から、俺とかかわった事の全てを、消し去って欲しい。
神というものがいるなら。
見知らぬ男が、俺の座るベンチに近づいてきた。浅黒い顔をした、痩せた男だった。
毛の長い、小型犬を連れている。
右手に犬のリードを引き、左手に古びたボストンバッグを提げていた。
俺は、フィルターの近くまで短くなったタバコを灰皿に投げ捨てた。
男は、ベンチの脇で立ち止まり、犬に何かを話しかけながら、濡れたベンチに腰を降ろした。
小声で犬に何かを言っている。よく聞き取れないが、どうやら中国語のようだった。
男は、足元にボストンバッグを置いた。
ボストンバッグの中から、ミネラルウォーターを出し、犬に水を飲ませた。
俺は、ぼんやりしたまま、男の様子を眺めていた。
犬に水を飲ませ終わると、男は無言でベンチを立ち、元来た方向へ去っていった。
二本目のタバコに火を点け、背もたれから身を起こし、足元を見た。
男は立ち去る時、左手には何も持っていなかった。
男の持っていたボストンバッグは、ベンチの下に置かれていた。
俺はゆっくり、できるだけゆっくりタバコを吸った。
最後の煙を吐き出し、吸殻を灰皿に投げた。
さりげなく、足元のボストンバッグを手に取った。
ベンチから立ち上がり、公園入り口の方向に身体を向けた時
「待て」
背後から呼び止められた。
振り返ると、ジョギング前の体操をしていた男が立っていた。
ああ、やっぱりな。
俺はため息をついて、男の顔を見た。
「何か」
「警察だ」
男は、ジャージのポケットから、警察手帳を出して、身分証を俺に翳した。
「そのバッグの中身を見せてもらえるかな」
男の物腰は、意外と柔らかかった。
俺はお手上げ、といった風のジェスチャーをして、刑事にバッグを渡した。
いつのまにか、俺は私服の警察官に囲まれていた。
ケバい女と、サラリーマン風の男。
ゆっくりあたりを見回し、あいつがいないことに安心した。
刑事は、バッグのジッパーを開け、いくつかに分けられていた包みの一つを取り出した。
包みが解かれて出てきたのは、ビニール袋に入れられた白い粉だった。
刑事は、俺の顔を一瞥し
「確保!」
声高に言った。
俺は、囲まれた警官の一人に押し倒された。
逃げたいとも、助かりたいとも思わなかった。
これで、終わった、と言う妙な安堵感だけがあった。
俺を押し倒した警察官は、俺の右手を捻り、手錠をかけた。
俺は、何の抵抗もしなかった。
されるがままに、手錠をかけられ立つように促された。
公園の入り口には、パトカーが何台か停まっていた。
「葛木」
後ろから声をかけられた。安田の声だ。
そうか。安田がいるってことは、あいつもそこにいるのか。
俺はゆっくり安田の方を振り向いた。
パトカーの脇に、安田は立っていた。
その隣には、あいつがいた。
拗ねた、子供のような顔をしていた。
軽蔑と、悲しみと、怒りが混ざったような顔をしていた。
俺は、薄笑いを浮かべた。
そうだ。俺は、お前にとって、軽蔑するべき人間だ。
正義感の塊のような、素直なお前は、犯罪を憎むように犯罪者である俺を憎むべきだ。
「言っただろう、関るなって」
安田は、悲しそうな顔をした。
俺は、ため息交じりのしわがれた笑いを、安田に返した。
「何故、何故あなたがこんなことを」
あいつは、俺に掴みかかるように言った。
安田が、いっそう悲しそうな顔をして、あいつの身体を後ろから押さえた。
「僕は、あなたが好きだった。あなたと話をするのが好きだった。何故、こんな事を」
やめてくれ。
俺は、お前に好かれるような人間じゃない。
お前に好かれる資格なんて無い。
俺は、酷い人間だ。
これ以上、お前の人生に関りたくはないんだ。
あいつは、安田の手を振りほどいて、俺の胸倉を掴んだ。
俺を殴りたいんだな、と思った。
そして、殴られて、あいつの記憶から俺が消える事ができるなら、気の済むまで殴られたいと思った。
何故だ、と何度も呟きながら、あいつは泣いていた。
何度も、強く身体を揺すられながら、あいつの肩越しに、セダンが見えた。
大貫の仲間か、それとも取引相手か。
中国系は容赦が無い。
取引に失敗じった俺が、このまま警察に引き立てられるのを黙って見ているだろうか。
一瞬、嫌な予感がした。
セダンの窓が、少し開いていた。
金属が、朝陽を跳ね返し、光った。
俺が、狙われている。
奴等は、俺をこのまま警察に渡すつもりは無いんだ。
セダンの窓が、更に開いた。
銃を構える男が見えた。
俺を撃つつもりか。
だが、セダンと俺の間には、棟方がいる。
銃口は躊躇い無く俺を狙っている。
俺は棟方を押し倒した。
セダンの窓から、微かに煙が漏れた。
俺が。
俺が死ねば、全て終わる。
コイツの、これからの人生に俺が関る事はもう無い。
それで、良いんだ。
俺は、憎まれて、軽蔑されたまま、コイツの人生から消えていく。
赤く染まっていく視界の中で、最後にあいつの驚愕した顔を見た。
あいつは、何か叫んでいた。
だが、俺にはもう、何も聞こえなかった。
「成程。アナタは、そうして最期を迎えた」
死神は、俺の長い話を聞き終わって、一息つきましょうか、とタバコを差し出した。
死んでからも、タバコが吸えるなんて、妙な感じだ。
「だが、アナタは納得して死んだ」
そうだ。
俺は、あいつと、自分の為にそうした。
俺は、後悔なんかしていない。
自分で望んで死を選んだ。
だから、未練なんか無い。
「どうやら、アナタが残している想いは、その時じゃないようすね。もっと、何か思い出せませんか?」
死神は煙を吐き出しながら言った。
「アナタの残した想いは、何ですか?」
さあ。
俺には、そんなもの、無いのかもしれない。
「何か悔いている事が、あるんじゃないすか?」
言っただろう、俺は死んだ事を悔やんでいない。
「そうじゃなくて。もっと、別の何か」
後悔はしていない。
それに、ああしなきゃ、あいつが弾に当たっていたかもしれない。
だから、死は、俺が望んだ事だ。
「死んだ事じゃなくて、そう。生きてきた事で。アナタの人生の中で、想いを残してきた時はいつなんすか?」
想いを残した時間。
考えてみれば、人生なんて、後悔の連続かもしれない。
あの時ああしておけば、なんて、誰でも思う事だ。
そうすれば、違う人生が開けていたのかもしれない。誰しもそう考える。
後悔しない人間なんて、この世にいないだろう。
「だが、アナタはこの世から離れられ無い程の想いを、どこかに残しているんすよ」
強い想い。
俺には、わからない。
ただ、あいつと関った事だけは、酷く悔やんでいる。
あいつと会わなければ、俺は、あのまま朽ち果てるように人生を終えていただろう。
会わなければ良かった、とは思ってない。
ただ、どうせなら違う出会い方をしたかったよ。
いつか、出会う事が運命だったなら。
それが、俺たちにとって、避けられない運命だったなら。
もしも。
あの時、彼女を引き止めていたら。
俺は弱かった。
彼女を引き止める強さが、俺には無かった。
堕ちてゆく俺を、彼女は見守っていてくれた。なのに、俺は彼女の優しさが辛いだけだった。
自堕落な生活は、俺から、彼女への想いさえも忘れさせていた。
もしも、あの時、彼女を引き止める強さが俺にあったのなら。
俺達の人生は、変わっていたのだろうか。
もし―。
やり直すことができるなら。
「やり直してみたいですか?」
もし、出来るなら―。
「わかりました。行きましょうか」
どこへ?
「アナタが、想いを残す時間へ」